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あの夜にもう君はいない

作者: 芦地翠子


 冬に入りかけの晩秋はなんて寂しい匂いなんだろう。握られた手だけが恥ずかしいくらいに熱く、しかし鼻を掠める冷たい空気にはっとする。

 瞬間、吉岡は私に口づけた。でっかい背を縮こませて。「好きかもしれん」。かもしれんってなんやねんって思ったけど、抱きしめられてそんなこと言えなかった。私は吉岡が大好きだから。「私は、好きだよ」。抱き返していいのか分からないので、吉岡のブレザーのポケットの入り口を握る。吉岡の体温がじわりと私に伝わってきてふふふと笑う。多分、嬉しいから。



 埃が口に入る。舌の上にくっ付いて、涎を吸い込んでいく。

 ティッシュを一枚取って舌を直接拭うと、微かに痛い。なんだろうと思い、ティッシュ越しにつつく。また痛い。そして、まるで点字のような感触が二つほどあった。

 何でだか知らないけど私の舌にはよく口内炎が出来ている。野菜とかたくさん食べてるけど、なぜだか野菜嫌いの吉岡より出来てしまう。吉岡は全く出来ないという。口内炎の痛みは危険信号だよと言っても通じないから一向に野菜を食べる気配は無いが、体のことを少しは考えた方がいいと思う。

 舌の上に張り付いた埃をぬぐい取り、ティッシュを丸めてゴミ箱に捨てる。テレビに映るのは止まったままの吉岡。バスケットボールを持って真剣な顔をしている。

 三角印が描かれたボタンを押すと、かたまったままだった吉岡は動き出す。きゅっきゅっとシューズが床に擦れる音。かっこいいな、吉岡は。

 食い入るようにテレビ画面を見ていると、部屋の扉が開く。トイレから帰ってきた吉岡が私の隣に座る。「あ、ここ」。テレビには相手チームの選手と吉岡。吉岡はボールを取られたみたいで、心なしか悔しそうに見える。

「懐かしいな、なんか。もう何年も前のことみたい」

「そうやな」

 テレビが真っ暗になる。吉岡が消したのだ。もう行くで、と吉岡が私の腕を掴み、私はうんと素直に頷いて立ち上がる。すり寄れば、撫でられる。私はどうしようも無くて指を吉岡のそれに絡めた。

 従順な私を飼い慣らす吉岡はなんかすごくそそられる。藤井によくドエムと言われるけど実際そんな気がしないでもない。

 もう秋なのに外は日差しが強くて、私は日傘を差したがったけど、吉岡はそれを拒んだ。「もうちょっとくらい黒くたってええやろ」。生白い腕に直射日光がちりちりと当たる。仕方ないから吉岡の腕にひっついていた。

「どこ行くん」

「内緒」

「エッチなところか」

「違うわ」

 エッチと言ったついでに吉岡とのエッチを思い出してみる。多分私たちはする回数が多い方だと思う。以前酔っぱらった藤井と土橋に同じく酔っぱらった吉岡が私たちの床事情を喋っていたが、ねっちょりし過ぎて逆に恥じらわれた。土橋もちょっとそわっとしてた。傍らでは全く酔っていない私がけたけた笑っていた気がする。楽しかったな。

 見慣れた道を歩いていくと、絵に書いたような普通の校舎が見えてきた。西堀高校。懐かしいけど実はそんなに懐かしい感じはしなかったりする。卒業して何年も経っているのに、あんまり母校って感じでは無いな。吉岡と出会った、とても大切な場所なのに。

「音、聞こえるね」

「練習してるんちゃうか」

「どうだろ、案外藤井だったりね」

「そらキモいわ」

 吉岡が薄く笑う。ちょっと貴重だから嬉しかった。あまり笑わない人の笑顔ってすごく惹かれる。自分がいつもへらへら笑っているので、なおさら。

 体育館の扉は開いていた。吉岡は先生に挨拶しに行ったので先に体育館に足を踏み入れる。

「……」

丸い形にザラザラした感触とか黒のラインとか。懐かしい。「藤井……」。彼自身は懐かしいとは思わないけど、やっぱりバスケしてる藤井はすごく懐かしい。

「なんや、ハチやん」

「藤井なつい! なつすぎ!」

「いや先週飲み会やったやろ」

 藤井はへらりともしゃもしゃのパーマヘアーを揺らして笑う。大学デビューを気におしゃれな美容院でかけてきたらしい。が、ちっとも似合ってないので、会うたびに私はそれをネタにしている。

「土橋も今日来るで~」

「まじ!?土橋くん最近会って無いから楽しみや~」

「なんや藤井来てたんかきしょいなぁ」

「きしょいとはひっどいわ吉岡! お前こそなんやねんいちゃついてるとこ見せつけにきたんか!?」

「あー吉岡帰ってきたー」

「ハチ、藤井菌移るから早よこっち来い」

 馬鹿みたいに楽しい。それは私が馬鹿だから楽しいのだろうか。本当はちょっと前までずっとこうしていたはずなのに、今ではもう何年も昔のことのように思える。それこそ、思い出と呼べるような。

「私もダンクかましたるわ!!」

「チビっ子のくせに生意気やで」

「吉岡に肩車して貰うし!」

「俺頼りか。もっと一人でがんばり」

 貸し切り状態の体育館で三人はしゃぎ合っていると、開けっ放しの扉からひゅうっと風が入ってくるのを感じた。二人はまだ気が付かない。同じだけはしゃいでいるのに、なんで私だけ気が付いたんだろう。ゆっくりと、扉の方を見る。重圧な扉はまだ開いていない。

 勘違いであったことに重すぎる安堵を浮かべた瞬間だった。

「なんや、みんな来とったんか」

 一瞬だけシンとなる。ああ、でも、この声は土橋だ。土橋なら全然良い。予想していた悪夢が現実ならなくてことさら嬉しい。

 思い描いた悪夢を振り切るように、勢い良く振り返る。そしてしばし、硬直した。

「こんにちは……久しぶり、です」

 まるであの時の私と入れ替わったかのように、彼女の髪の毛は短くなっていた。今流行りのかわいくてお洒落なやつじゃなくて、小さな男の子みたいなやつ。でも、綺麗な彼女にはすっごく似合っている。

 なんで彼女はここにいるんだろうか。この体育館に。私の前に。吉岡の前に。

 今すぐに帰りたい。そしてセックスしたい。一日中ずっと。堕落していたっていい、私は、吉岡と一緒にいたいのだ。同じ感情を嘘一つなく抱きたいのだ。

 私は半ば無理やり吉岡の手をひっつかんだ。無防備なそれを掴むことは簡単だったけれど、手のひらは以前として強ばっている。少し抵抗されたんだ。そんなんだからか、胸がジクジク痛んだ。

 痛みが滲みていくなか、私は努めて明るく振る舞った。本当の友人のように。いや、友人ではあるけれど、心の中ではちっとも友人だなんて思っちゃいないので、こういうところ自分でも酷いな、とは思う。思うだけで、直そうだなんてことはみじんにも思っちゃいないけど。

「ほんと久しぶり! 元気やった?」

「うん、忙しいけど……あ、吉岡くんも、久しぶり」

 予想外なほど彼女に吉岡の名を呼ばれたことが不愉快だった。それよりも、この吉岡に対するぎこちなさが一層二人を引き立てさせてならないのが苦しい。私が吉岡の恋人なのに、スポットライトはどんどん二人に光を浴びせる。私以外のここにいる人は、もう主役となった二人を呆然と見るしかないのだ。

「……おう、なんやほんまに久しぶりやな」

 吉岡の手が強張る。私は半ば無意識に舌を噛んだ。口内炎が歯に押しつぶされて痛い。なんだか全身ボロ布になった気分だ。惨めで、痛くて、どうしようもない。

 気を使ってか藤井が間に割って入る。しかし、吉岡はそれを拒んだ。「ちょっと話あんねん、二人っきりにしてくれへん」。抑揚の無い吉岡らしい声が体育館に嫌に響く。でも手を繋いだままだったから吉岡が緊張してることは丸分かりだ。汗ヤバいし。

「……でも」

 手を握った私を一瞥し、やわやわと指をほどかれて「ちょっと待っとってな」と頭を撫でられる。そうすれば私が言うことを聞くとでも言いたげで、それを犬のように従順で聞き分けの良い私はこくりと頷く、了承する。長くなった髪の毛が俯いた私の顔を覆うように落ちてきた。

 あの子は私を見ている。私は満面の笑みを浮かべて「さっさと帰ってきてよね~も~」と吉岡を小突いた。ああ、これでまた良い女が完成されたな。良い女とは総じて都合の良い存在。男にとって、もちろん、吉岡にとって。

「ええの?」

「うーん」

「あの子今フリーやで」

「えっまだフリーなん?ちゅーことは吉岡と別れてから……あっ」

 しまった、と口を塞ぐ藤井に微笑む。「へいき」。なにが平気なんだろう。自分でも分からなかった。

 それから私たちはしばらく無言だった。心の中でごめんと土橋と藤井に謝っといた。もしかしたらいわゆる修羅場なんじゃないかな、今の私たち。

「あの子って吉岡くんのこと振ったんやろ」

「うん、吉岡めっちゃ落ち込んどった」

「……今更なんやねん、ハチいるっちゅーのに」

 もしかしたら藤井怒ってるのかな、と藤井のいる左隣を横目で窺った時、吉岡の声が少し聞こえてきた。こんな重圧な鉄扉を閉め切っても聞こえてくるってことは、結構な大声を出しているのかもしれない。それに続いて、あの子の泣きじゃくる声が聞こえた。これは嫌にはっきりと。「私、ほんま馬鹿だった」。泣き叫んでるなぁと聞き耳をたててると、私の二つのお耳が覆われる。

「聞いちゃだめだ」 

 二つのお目目は扉へと向けられる。すぐに藤井が出ていった。あの二人を見に行ったんだ。

 目をつむる。こうして目をつむり土橋に耳を塞がれて世界から遮断されてしまったけど、私はなんとなく分かってしまった。まだ推測だけど、これくらい探偵じゃなくたって簡単に推理出来る。土橋も藤井も私も分かってるんだ。

「きっと最初から始まってすらいなかったんだよ~」

「え?」

「私と吉岡は、一回だって同じことを思ったことも共感したことも感じたことも無いよ。だって、私って」

「ハチちゃん」

 そっと土橋の手をのけると、案外簡単に引き離すことが出来た。走る。扉は藤井が開けたままで、開きっぱなしだった。外に出ると、日差しがもうオレンジ色になっている。藤井が怒鳴ってる。吉岡は倒れてる。あの子は泣いている。なぁんだ、映画のワンシーンみたいじゃん。

 3人は私に気付いて、すぐに無言になった。突き刺さる視線が痛い。潔く帰った方がよかったかもしれない。

「ごめんなさい」

 そんなに泣かないでよ私が悪いみたいじゃないと月並みの台詞を思わず吐きそうになる。それくらい彼女は泣いていた。端からみたらどっちが悪いかなんて分からないだろう。

 私は健やかに笑った。あはは、とかふふふ、みたいに軽やかに。実際はどう聞こえたのかは分からない。無意識に出たものだから。

「よかったじゃん!」

「……え?」

「だって、両思いじゃん! おめでとう! あ、元から両思いだったね? だって、二人は付き合っていたんだもんね。それを邪魔したのは私だったね、ほんとごめん、この通り!」

「ちょ、お前……」

 そんなに私が哀れか藤井よ。でも、それでもいい、私は言葉を続ける。

「吉岡もさ、ずっとずっとあんたのことが好きだったん。だって、たまーにセックスしとる時あんたの名前ポロッと出してたし。あんたのこと私に被せてやってたん。めちゃくちゃ傷ついた~けど私ってドエムやし吉岡のこと好きやから気付かんふりしとった。声おっきめにして聞こえんふりとかへとへとになったふりとか。私馬鹿やから吉岡もそれ信じとったんやね。それにな、あんたが吉岡振った理由、あれ引退試合のせいやろ? あんとき吉岡、相手の学校の人にめっちゃ怪我させとったからな~でもなあんた知らんやろうけど吉岡はたまたま肘当たってそれがたまたま悪いところに当たってたまたま審判がレッドカード出しただけんやで。それを聞いてあんたなんて言った? 私は覚えてる。「わざとけがさせる人なんかと付き合っていけない」。吉岡がその言葉でどれだけ傷付いたかも知らないのにそれなのにあんたは」

「……もうやめろ」

 吉岡が私の腕を掴む。それを振り払う。

 びっくりしてる吉岡を見て「ばかな犬だけど、犬だって飼い主の気持ちくらい分かるんだよ」。馬鹿でいれなくてごめんね。私は一目散に走り出した。



 どれくらい走っただろうか。学校が遠くにすら見えない。後ろを向いても誰もいなくて、追っかけて欲しいわけじゃ無いのになんだか寂しいという我が儘マイハートが疼きだした。

 しゃがみ込んで、嗚咽を漏らす。目が熱い。ぼろっと生み出された涙もお湯みたいに熱く感じた。

 なんて惨めなんだろう。私が吉岡を好きで、セックスして、手をつないで、キスをして、慰めたって、吉岡はいつだってあの子の思い出と生きていた。

「私は吉岡がだれかに怪我させたって嫌いになんかならんかったのに」

 喋るたびに口内炎が痛んで、私は笑う。好きだよ吉岡。あの夜から私はひとつも変わってない。



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