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婚約者一家に民宿の割引券で妊娠中の私を侮辱されたので、彼らをまとめて捨てて、財閥の幼なじみに嫁ぎました

作者: 熾星
掲載日:2026/06/26

 婚約者一家に民宿の割引券で妊娠中の私を侮辱されたので、彼らをまとめて捨てて、財閥の幼なじみに嫁ぎました



 1.千円の結婚準備金


 私がSNSで婚約を発表した直後、鎌倉の民宿で使える宿泊割引券が一枚届いた。

 額面は千円。

 送り主は、婚約者の高橋翔太だった。備考欄には、信じられない言葉が書かれていた。

 結婚準備金。無償贈与。


 私はスマホの画面を数秒見つめたまま、自分の目を疑った。婚約前、両家の話し合いでは、高橋家が百万円を結婚準備金として用意することになっていた。決して多い額ではない。けれど、少なくとも誠意を示すものではあった。

 それなのに婚約の席で、彼は千円の民宿割引券を私の前に放り出した。


「高橋翔太、これはどういう意味?」


 銀座の和食店の個室には、両家の家族がそろっていた。卓上の料理はまだ湯気を立てていたのに、その割引券が置かれた瞬間、部屋の空気だけが一気に冷えた。

 高橋翔太は椅子の背にもたれ、目に隠しもしない軽蔑を浮かべていた。


「どういう意味って、見ればわかるだろ。今のお前の価値はそれくらいだってことだよ」


 私は眉をひそめて彼を見た。


「約束した百万円の結婚準備金は? どうして千円の宿泊割引券になっているの?」


 高橋翔太は、まるで笑い話でも聞いたように鼻で笑った。


「佐倉小春、お前、まだ自分が清らかな令嬢だとでも思ってるのか? 腹に子どもがいるんだぞ。俺以外に、誰がお前をもらうっていうんだ?」


 私はその場に固まり、指先が少しずつ強ばっていくのを感じた。

 妊娠のことは、双方の家族が知っている。最初から高橋家がこんな態度だったわけではない。むしろ私の両親よりも積極的に、早く翔太との結婚を決めたほうがいいと言っていた。

 あの時から、彼らはもう計算していたのだ。

 高橋翔太の母、高橋美津子は隣に座り、薄い笑みを浮かべていた。


「小春さん、あなたは今、妊娠しているんだから、細かいことにこだわらないほうがいいわ。女にとって一番大事なのは、落ち着く場所があることよ」


 彼女はゆっくりと湯呑みを持ち上げた。口調は穏やかなのに、その中身は軽蔑で満ちていた。


「以前のあなたなら、百万円を出すのも佐倉家への礼儀として考えられたわ。でも今は事情が違うでしょう? お腹の子が本当に翔太の子かどうかも、まだわからないのだから」


 私は思わず顔を上げた。


「今、何と言いました?」


 高橋美津子は意味ありげに私を見た。


「私はただ、翔太があなたと結婚してくれるだけでも十分に譲歩していると言っているの。嫁げば、あなたは鎌倉の民宿の女将になるのよ。そんな立場を欲しがる女性はいくらでもいるわ。あなたはまだ不満なの?」


 ようやく理解した。

 婚約前、高橋家は最初、結婚準備金を三十万円しか出せないと言っていた。それなのに私の妊娠を知ると、百万円でも構わないと急に態度を変えた。

 早く子どもを持てば幸せになれる、などという言葉はすべて口実だった。


 彼らが最初から欲しかったのは、私が妊娠によって引き返せなくなること。そして子どもを盾に私を黙らせ、高橋家の孫をただで手に入れることだった。

 父が怒りに任せてテーブルを叩き、湯呑みが小さく揺れた。


「高橋翔太君、君もお母さんも、言葉には気をつけなさい。うちの小春は、君と付き合って妊娠したんだ。今さら知らないふりをするつもりか?」


 高橋美津子は冷たく笑った。


「それなら、どうして今まで妊娠しなかったのかしら。結婚が決まった途端に妊娠だなんて。うちの翔太は結婚前からずっと節度を守っていましたよ。外で何があったのか、こちらにはわかりませんから」


 彼女は高橋翔太に目配せした。

 私は高橋翔太を見つめた。胸の奥に残っていた最後の期待が、まだ完全には死にきっていなかった。何年も付き合ってきたのだ。たかが金のことで、彼がここまで私を追い詰めるはずがないと思いたかった。

 けれど次の瞬間、彼はそのわずかな期待を自分の手で踏み砕いた。


「そうだよ。俺は彼女に触れてない。妊娠したからって俺のせいにするなんて、佐倉家はずいぶん計算高いんだな」


 個室の中が、一瞬で静まり返った。

 私は彼の顔を見た。よく知っているはずなのに、まるで別人のようだった。

 あまりにも馬鹿げていて、笑いさえ込み上げてきた。

 何年もかけて私が愛してきたのは、こんな人間だったのだ。

 私はゆっくり立ち上がり、高橋翔太を見据えた。


「あなた、私に触れていないと言ったの?」


 高橋翔太の目が一瞬泳いだ。それでも彼は強がるように言った。


「事実を言っただけだ」


 私は冷たく笑った。


「婚約前、民宿の資金繰りが厳しいから結婚準備金は高すぎる、少しは高橋家の事情をわかってほしいと言ったのは誰? 私の妊娠を知った途端、百万円を出すと言い出したのは誰?」


 高橋美津子の顔色が変わった。

 高橋翔太は何か言い返そうと口を開いた。けれど高橋美津子が一瞥すると、すぐに口を閉ざした。

 その瞬間、私はようやく見えた。


 彼に意志がないのではない。最初から最後まで、彼は母親の側に立っていただけだ。

 どうして今まで気づかなかったのだろう。彼は徹底した母親言いなりの男だった。

 高橋美津子は上から見下ろすような表情に変わった。


「小春さん、今さらそんなことを言って何になるの? あなたはもう妊娠しているのよ。翔太以外に、誰があなたを娶るというの?」


 母が立ち上がり、私を抱き寄せた。目元が赤くなっていた。


「小春、怖がらなくていい。あなたにはお父さんとお母さんがいる。結婚したくないなら、この話は終わりでいいの」


 私はうなずいた。

 父は冷たい顔で立ち上がった。


「そういうことなら、佐倉家には過ぎたご縁だったようです。両家の婚約はここで白紙にします。今後、互いに関わらないようにしましょう」


 父と母は私を連れて個室を出た。

 高橋翔太はようやく慌てたように立ち上がり、私を追おうとした。


「小春!」


 けれど高橋美津子が彼を押しとどめ、わざと聞こえるように声を上げた。


「翔太、焦らなくていいのよ。誰もあの子を娶らないわ。数か月もしてお腹が目立ってきたら、向こうから頭を下げて戻ってくるに決まっているんだから」


 私は振り返らなかった。

 あの瞬間、ただ一刻も早くこの吐き気のする場所から離れたかった。



 2.最後のつながりを断つ


 ホテルを出た直後、スマホが震えた。

 西園寺蓮からのメッセージだった。

 彼は、僕に一度だけ機会をくれないか、と尋ねてきた。

 西園寺蓮は私の幼なじみだ。幼いころから一緒に育ち、ずっと私を大切にしてくれていた。それでも私は、彼に対して恋愛感情を持ったことはなかった。


 それに、私はたった今、ひどい恋愛を終えたばかりだった。すぐに別の結婚に自分の人生を縛られたくはなかったし、彼を一時の感情で私の厄介ごとに巻き込みたくもなかった。

 長く迷った末、私は妊娠していることと、妊娠を終わらせるつもりでいることを彼に伝えた。


 彼は戸惑うだろうと思った。引くだろうとも思った。冷静になれと諭されるかもしれない、とも。

 けれど彼からの返信はすぐに届いた。


「もう決めたの?決めたなら、僕がそばにいる」


 その一文を見つめたまま、鼻の奥がつんと痛んだ。

 続けて、二通目のメッセージが届いた。


「まだ迷っているなら、それでも怖がらなくていい。産みたいなら僕が育てる。諦めると決めたなら僕が付き添う。小春、君は誰かのために自分を犠牲にしなくていい」


 私はスマホを握ったまま、しばらく何も言えなかった。

 本当の安心感とは、男が何度も結婚してやると言うことではない。こちらが一番みじめな時に、それでも選ぶ権利を私の手に返してくれることなのだ。

 その日の夕方、私は病院を予約した。


 高橋家は子どもを使って私を縛ろうとしている。妊娠している以上、私が折れるしかないと思い込んでいる。けれど、私は彼らの思い通りにはならない。

 これは衝動ではなかった。私はきちんと考えたうえで決めた。


 無垢な命を、あのような汚く計算高い家庭に連れていくことはできない。まして、その子を高橋翔太と高橋美津子が私を支配するための綱にさせることなど、絶対にできなかった。

 手術は無事に終わった。


 処置室から出てきた時、まさか西園寺蓮がまだ外で待っているとは思わなかった。彼は濃い色のコートを着て、毛布と保温容器を手にしていた。目元にははっきりと疲れが見えた。

 それでも彼は私を見た瞬間、ただ静かに身をかがめ、毛布を私に掛けてくれた。


「お粥はまだ温かい。医師から、今は少しだけ消化のいいものにしておいたほうがいいと言われた」


 私は彼を見つめ、何を言えばいいのかわからなくなった。

 入院して体を休めている間、西園寺蓮は介助の人を手配してくれた。食事、診察の時間、薬の確認まで、すべて細かく覚えていた。


 彼はきれいな言葉を多くは言わなかった。それでも行動で、私をあの最悪な関係から少しずつ引き上げてくれた。

 母でさえ、思わずこぼした。


「高橋翔太のどこが、蓮さんに少しでも敵うというの」


 退院の前日、西園寺蓮はもう一度、私に気持ちを伝えてくれた。

 今度は、迷わなかった。


「うん」


 高橋翔太は私が病気になっても、「温かい水でも飲んで。うつると困るから、しばらく会わないでおこう」と言うだけだった。


 西園寺蓮がくれたのは、実際に大切にされているという感覚だった。

 私はようやく認めた。

 愛しているかどうかは、本当にわかりやすい。


 退院の日、病院の入口で見慣れた、けれど嫌悪しか湧かない人間を見かけた。

 高橋翔太だった。

 彼は小走りで私の前に来ると、遅すぎる気遣いを顔いっぱいに浮かべた。


「小春、赤ちゃんがまた苦しませたのか? 今日は俺の家に帰ろう。母さんが鶏のスープを作って、体を温めてやるって言ってる」


 私は彼を見て、静かに尋ねた。


「どちら様ですか?」


 高橋翔太の表情が固まった。けれどすぐに声を柔らかくした。


「小春、意地を張るなよ。俺たちはもうすぐ結婚するんだ。嫁いできたら、ちゃんと大切にする」


 私は思わず笑いそうになった。


「結婚?聞き間違いかしら。私たちの婚約はもう白紙になったでしょう」


 高橋翔太は眉をひそめた。まるで私のほうが物わかりの悪い人間であるかのようだった。


「あの日のことは、全部お前のためだったんだ。佐倉家が百万円もの結婚準備金を求めるから、母さんが用意できなかっただけで――」


「だから千円の割引券で私をごまかしたの?」


「あれは一時的な処置だよ。嫁げば、俺のものはお前のものになる。金だってお前の手元に来る。好きに使えばいい」


 私は冷たく笑った。


「高橋翔太、あなたのお金は全部お母さんが握っているでしょう。あなたに何があるの? 私が嫁いだら、私の給料まで差し出せと言われるのではなくて?」


 彼は、驚いたことに真顔でうなずいた。


「全部じゃない。母さんと話し合ったんだ。お前の給料は八割だけ家に入れて、残りはお前が自由に使っていいって」


 八割だけ。

 私は彼の当然のような顔を見て、しばらく言葉を失った。

 八割。

 彼らは私に相談しているのではない。私の人生、収入、結婚後の暮らしを、すでに勝手に配分し終えていたのだ。


 まるで私が嫁いだ瞬間、ひとりの独立した人間ではなくなり、高橋家のために稼ぎ、子を産み、民宿を手伝う道具になるとでもいうように。

 不意に、おかしくなった。

 高橋翔太の中では、彼と母親が私に二割を残してやることが、すでに恩恵になっていたのだ。

 母はそれを聞き、表情を一気に曇らせた。


「高橋さん、何か勘違いしていませんか。うちの娘は、あなたの家の借金を返すために嫁ぐのではありません。あなたのお母様の下で働くためでもありません」


 高橋翔太は眉を寄せた。自分が何を間違えたのか、本気で理解していないようだった。


「おばさん、母は俺たちの将来のために考えているだけです。結婚したら、お金をまとめて管理するのは普通でしょう?」


 母は冷たく笑った。


「普通?私が育てた娘は、他人に給料の八割を取られるために大きくなったのではありません」


 母は私の前に立ち、声をさらに冷たくした。


「婚約はもう終わりました。これ以上、小春に近づかないでください。うちにあなたを迎えるつもりはありません」


 それでも高橋翔太は引き下がらず、私のほうを見た。


「小春、お前はそんなに物質的な女じゃないだろ。千円の割引券と約束していた結婚準備金に、本質的な違いなんてあるのか? それに、母さんはずっと孫のことを気にしている。安心しろよ。婚約の席でお前が言ったことを、母さんは責めないって」


 私は彼の当然のような態度を見て、ふっと笑った。


「今になって、あの子はよその子ではないと認めるの?」


 高橋翔太の表情が不自然に揺れた。


「そういう言い方をするな。俺が言いたかったのは、そういう意味じゃないってわかっているだろ」


「では、どういう意味だったのかしら。私にはわからない。今すぐ私の前から消えて。これ以上あなたを見ているだけで、気分が悪くなる」


 そう言って、私は西園寺蓮が用意してくれた車に乗った。

 車のドアが閉まる瞬間、高橋翔太の焦った声が背後から聞こえた。


「小春、説明させてくれ!」


 私はもう聞かなかった。

 スマホを取り出し、高橋家の人間全員の連絡先をブロックした。


 3.高橋家の最後の勘定


 家に戻ると、西園寺蓮からたくさんの滋養品が届いていた。

 腰を落ち着けて間もなく、インターホンが鳴った。

 やって来たのは、高橋翔太一家三人だった。


 高橋美津子は玄関先に立ち、無理に作った笑顔を浮かべていた。婚約の席で起こったことなど、すっかり忘れたかのように、妙に親しげな声を出した。


「小春さん、佐倉夫人、あの日はみんな頭に血が上っていただけなのよ。少し言いすぎたわ。婚約の話はここまで進んでいたのだから、数言の行き違いで全部なかったことにはできないでしょう?」


 母は彼らを家に入れず、冷たく見つめた。


「もう、なかったことになっています」


 高橋美津子の笑みが顔に貼りついたまま固まった。

 数秒の沈黙のあと、彼女の声から作り物の親しさが消えた。


「佐倉夫人、本当にそれでよろしいの? 小春さんの今の状況は、時間が経つほど不利になるのよ。世間は真実なんて見てくれません。結婚前に妊娠したという事実だけを見るものです」


 母の顔がさらに冷えた。


「娘のことを、あなたに心配していただく必要はありません」


 高橋美津子は私を見た。その目には、こちらがいずれ折れると信じ切ったような軽さがあった。


「小春さん、今は腹が立っているだけでしょう。でも現実は現実よ。この時期にあなたと結婚してくれる人なんて、翔太以外にいるの?」


 私は静かに顔を上げた。


「それは、あなたが心配することではありません」


 高橋翔太は眉を寄せた。


「小春、意地を張るな」


 私は彼を見た。声は小さかったが、彼ら全員に聞こえるようにはっきりと言った。


「子どもは、もういません」


 客間は一瞬で静まり返った。

 高橋翔太の顔が、少しずつ変わっていく。ようやく意味を理解したらしい。目の奥に浮かんだ動揺は、すぐ怒りに覆われた。


「何だって?」


 私は目をそらさなかった。


「もう処置は終わりました」


 高橋翔太がいきなり前に出て、私の手首をつかんだ。

 その力はひどく強かった。私が退院したばかりで、まだ体が戻りきっていないことなど、彼はまるで気づいていないようだった。


「どうしてだ、小春。あれは俺の子どもでもあったんだぞ。うちが百万円を出さなかっただけで、そこまでするのか?」


 私は手を引き抜いた。手首には赤い跡が残っていた。


「あなたが婚約の席であの割引券を出した時点で、私たちは終わっていました」


 高橋美津子もようやく反応し、顔色を一気に変えた。


「どうして相談もせずにそんなことをしたの? あれは高橋家の子でもあったのよ」


 私は彼女を見た。


「婚約の席で、あなたたちは高橋家の子とは限らないと言いましたよね」


 高橋美津子は言葉に詰まり、顔を青くしたり赤くしたりした。

 私はそれ以上彼女に構わず、高橋翔太だけを見た。


「私たちはもう婚約を解消しました。今後、私に会いに来ないでください」


 高橋翔太の表情は完全に沈んだ。

 すると高橋美津子が突然彼を引き寄せ、低い声で耳打ちした。しばらくして、高橋翔太は顔を上げた。その目には、また別の悪意が浮かんでいた。


「佐倉小春、そんなに強く出て後悔するなよ」


 彼は冷たく笑った。


「俺から離れて、簡単にやり直せると思っているのか? そういう経験をした女を、周りが本当に何も気にしないと思うのか?」


 私は彼を見て、ただ馬鹿げていると思った。

 彼の目には、私は傷ついた人間ではない。ただ一度貼られたラベルのせいで、値下げされるべき品物に過ぎないのだ。

 高橋美津子がすぐに言葉を引き継いだ。声はさっきよりずっと冷たかった。


「そこまで高橋家と線を引きたいなら、以前あなたがうちで食事をした分、民宿に泊まった分も、きちんと清算してもらいましょう」


 彼女はそこで言葉を切り、ようやく私を責める材料を見つけたような目を向けた。


「それに子どものこともあるわ。翔太に相談せず、ひとりで決めたのでしょう。どういう形であれ、高橋家の血を引くはずだった子です。あなたの決断で、うちは大きな打撃を受けました。その分の補償も負担してもらわなければ」


 私は自分の耳を疑った。


「補償?」


 高橋美津子は顎を上げ、当然のように言った。


「そうよ。うちはあなたを受け入れるつもりでいたし、あの子を迎える準備もしていた。今、婚約はなくなり、子どももいない。翔太が受けた傷は、そのままにしていいものではないでしょう?」


 高橋翔太も隣で暗い顔をして言った。


「小春、母さんの言う通りだ。自分のことだけ考えるな。お前はそういう決断をしたんだから、俺たちに説明と責任を果たすべきだ」


 私は彼らを見つめたまま、怒ることすら無駄に思えた。

 私はスマホを取り出し、すでに整理してあった明細を開いた。


「あなたたちが過去のことを一つ一つ清算したいと言うなら、今日は最後まで清算しましょう」


 高橋美津子は待っていたとばかりに、バッグから数字の書かれた紙を取り出した。


「あなたはうちで二十回食事をした。一食千円として二万円。うちの民宿には十回泊まった。一泊八千円として八万円」


 彼女はそこで少し間を置き、抑えきれない得意げな響きを声ににじませた。


「さらに、子どものことで翔太に精神的苦痛を与えた分が五万円。合わせて十五万円です」


 私はその紙を見つめた。不思議なほど心は静かだった。

 高橋家にとって、感情は食費に換算できるものらしい。思いやりは宿泊費に、傷つけたことさえ、彼らは値段をつけて請求できると思っている。

 高橋美津子は続けた。


「それから、翔太があなたに贈ったものも返してもらいます」


 高橋翔太がくれた物を思い出し、私は皮肉な気持ちになった。

 バレンタインデーには、閉店間際に値引きされていたコンビニのケーキを買ってきて、「倹約できる男こそ結婚相手にふさわしい」と言った。誕生日には、百円ショップで買った耳かきを渡し、「一生お前の耳を掃除してやるという意味だ」と言った。


 数週間前、彼は初めて自分から果物を買ってきた。

 その時の私は、彼もようやく私が人から気遣われることを望んでいると覚えてくれたのだと思った。けれど食べたあとに病院へ運ばれ、あれが民宿の倉庫に残っていた期限間近の処分品だと知った。

 私は何も言い返さなかった。

 それらの品をまとめ、玄関横の小さな台に置いた。そして彼らの目の前で、十五万円を振り込んだ。


 着金通知を見た高橋美津子の顔から、ようやく緊張が少し解けた。彼女はスマホをバッグにしまい、帰ろうとした。

 私は呼び止めた。


「待ってください」


 彼女は眉をひそめて振り返った。

 私は別の明細を開き、静かに言った。


「あなたたちの勘定は終わりました。今度は、私の番です」


 高橋翔太と交際していた間、彼が経営する鎌倉の民宿はずっと赤字だった。

 そのころ、彼はほとんど哀れっぽい声で私に言ったものだ。


「小春、今月も民宿が赤字なんだ。このままじゃ結婚資金も貯められない。少し支えてくれないか。結婚したら、民宿で稼いだ金は二人のものになるんだから」


 私はその時、あまりにも彼を信じすぎていた。

 毎月給料が入るたび、私は大半を彼の資金繰りに回していた。プラットフォームの広告費、部屋の修繕費、清掃用品、従業員の給料、時には彼の家の水道光熱費まで、私が立て替えていた。


 改めて計算すると、記録が残っている振り込みだけで三百万円に達していた。

 画面の数字を見ていると、胸が少しずつ締めつけられていく。

 それは単なる金額ではなかった。


 この三年間で切り詰めた生活費、諦めた旅行、服、講座、休息。そのすべてが、彼の体面を保つために使われていた証拠だった。

 高橋美津子は明細に目を通し、すぐに冷笑した。


「そのお金は、あなたが自分で翔太に渡したものでしょう。付き合っている時は好きで助けておいて、別れたら返せなんて、見苦しいわね」


 私は彼女を見た。


「では、私があなた方の家で食事をしたことや民宿に泊まったことも、交際中のやり取りではないのですか?」


 高橋翔太は暗い顔で口を開いた。


「それは違う。お前が俺に渡した金は、お前が自分から送ったものだ。うちがお前に使った金は、実際に発生した費用なんだよ」


 私は彼を見て、言い返す気力さえ失った。

 彼らが道理を知らないわけではない。

 ただ、道理はいつも自分たちに都合のいい側に立つべきだと思っているだけだ。


「わかりました」


 私はスマホをしまった。


「返さないなら、法的手続きを取ります」


 高橋美津子の顔色がようやく変わった。


「小春さん、本当にそこまで事を大きくするつもり? 自分のことを世間に知られてもいいの?」


 彼女は最後までは言わなかった。

 けれど私にはわかった。

 妊娠、婚約解消、手術。彼らにとってそれは、私が受けた傷ではない。これからも私を脅すための材料なのだ。

 私はその一家を見つめ、過去三年の恋心が、馬鹿げた笑い話のように思えた。


「高橋さん、高橋夫人。今日から私たちの間に残るのは、債務関係だけです」


 高橋翔太の顔から、温和なふりが完全に消えた。


「佐倉小春、俺から離れて、ほかの誰かが本当に何も気にせず受け入れてくれると思うのか?」


 彼は冷笑した。


「自分を特別だと思うなよ。外の目を知れば、誰が本当にお前を引き取ってくれるのか、嫌でもわかる」



 4.西園寺蓮が私のそばに立った


「彼女は、誰かに引き取ってもらう必要などありません」


 玄関の外から、冷たい声がした。

 顔を上げると、黒いベントレーのそばから西園寺蓮が歩いてくるのが見えた。

 彼は濃い色のスーツを着て、静かな目をしていた。背後には弁護士と数名の秘書が控えている。彼が私のために乗り込んできたというより、ただそこに現れただけで、場の空気そのものが変わった。

 高橋翔太は彼をじっと睨みつけ、嫉妬をほとんど隠せずにいた。


「なるほどな。佐倉小春、お前がそんなに急いで婚約を破棄したのは、もう次を見つけていたからか」


 高橋美津子もすぐに顔を冷たくした。


「どうりで強気なわけね。翔太ときちんと終わらせる前から、別の男性と付き合っていたなんて」


 私はその言葉を聞きながら、逆に心が静まっていくのを感じた。

 彼らは最初から、私という人間を見ていなかった。

 ただ心の中で私に値札を貼り、私がその値段を受け入れないとわかると、もっと価値のない人間だと証明しようとしているだけだった。

 西園寺蓮は高橋美津子には目もくれず、高橋翔太だけを見た。


「言葉には気をつけてください」


 彼の声は大きくなかった。それなのに周囲は一瞬で静かになった。


「僕と小春が正式に交際を始めたのは、彼女が婚約を解消した後です。彼女はあなたに何も後ろめたいことをしていません。むしろ説明すべきことが多いのは、高橋家のほうでしょう」


 高橋翔太は歯を食いしばった。


「お前に、俺たちのことに口を出す権利があるのか」


 西園寺蓮は私のそばに来て、そっと前に立った。


「彼女が今、僕の恋人だからです」


 彼は少し間を置き、なおも静かに続けた。


「それに、彼女と一緒にいられることは僕の幸運です。あなたが彼女を大切にしなかったからといって、他人も同じように彼女を軽んじるとは思わないでください」


 私はその背中を見つめた。

 高橋翔太はいつも、私を使えるかどうかの位置に置いていた。お金が必要な時は優しく、譲歩してほしい時は黙り、責任を負う時には私を突き放した。


 けれど西園寺蓮がそばに立ってくれた時、私は初めてはっきりと感じた。

 私は誰かの付属品ではない。

 誰かが勝手に値踏みしていい駒でもない。

 高橋美津子は明らかに納得していなかった。


「西園寺さん、でしたか。あまり大きな口を叩かないほうがいいですよ。うちの翔太も、関東にまったく知り合いがいないわけではありません」


 彼女は顎を上げ、ようやく少し自信を取り戻したようだった。


「黒沢慎吾という名前、聞いたことくらいあるでしょう?」


 西園寺蓮の表情は変わらなかった。


「黒沢?」


 高橋美津子は、彼がついに警戒したのだと勘違いしたらしく、急に声を鋭くした。


「やっぱりご存じなのね。黒沢さんが来れば、車一台と数人の秘書で人を黙らせられるわけではないとわかるはずよ」


 高橋翔太はすぐに電話をかけた。

 通話を終えると、彼は再び私を見て、報復の喜びを隠しきれない目をした。


「佐倉小春、今ならまだ後悔しても間に合うぞ」


 私は思わず西園寺蓮を見た。

 彼は私の手をそっと握った。


「心配しなくていい」


 それから、秘書に椅子を持ってこさせ、私を座らせてくれた。


「まだ体が戻っていない。座って待っていて」


 しばらくして、黒沢慎吾がやって来た。

 高橋翔太はすぐに迎えに出て、ほとんど媚びるような態度を取った。


「黒沢さん、わざわざすみません。少し揉めていまして。相手がどうも筋をわかっていないんです」


 黒沢慎吾が口を開こうとしたその時、彼の視線が高橋翔太を越え、西園寺蓮に止まった。

 表情が一瞬で変わった。

 わずかな硬直のあと、彼は足早に歩み寄り、異様なほど丁寧な声を出した。


「西園寺様。どうしてこちらにいらっしゃるのですか?」


 西園寺蓮は彼を見て、淡々と言った。


「あなたが高橋家のために、僕を処理しに来ると聞きました」


 黒沢慎吾の額に、すぐ汗が浮かんだ。


「とんでもございません。誤解です。完全な誤解です」


 高橋翔太はその場で固まった。


「黒沢さん、何かの間違いでしょう? こいつはただの――」


 黒沢慎吾が鋭く振り返り、顔を険しくした。


「黙れ」


 高橋翔太はその一言で凍りついた。

 黒沢慎吾は声を低め、歯を食いしばるように言った。


「お前は、今目の前にいる方が誰かわかっているのか。西園寺グループの後継者だ。お前はもちろん、私でさえ西園寺様の前でそんな口を利く資格はない」


 高橋翔太の顔から、少しずつ血の気が引いていった。

 私は西園寺蓮を見た。

 彼の家が裕福であることは知っていた。けれど、彼が西園寺グループの後継者だとは思っていなかった。

 黒沢慎吾は西園寺蓮に向き直り、さっきよりさらに慎重な声で尋ねた。


「西園寺様、この件はどのように処理なさいますか?」


 西園寺蓮はすぐには答えず、私を見た。


「小春、君が決めて」


 その場にいる全員の視線が、同時に私に集まった。

 私は高橋翔太を見上げた。


「三百万円、明日の正午までに返してください。認めなくても構いません。私は訴えます」


 高橋翔太は歯を食いしばった。


「そこまでするのか」


「私がそこまでするのではありません」


 私は彼を見て、感情を消した声で言った。


「あなたたちが、そこまで私を追い詰めたんです」


 高橋美津子が焦ったように声を上げた。


「小春さん、やりすぎよ」


 私は彼女を見た。


「今日あなたたちがしたことに比べれば、私は十分に穏やかです」


 西園寺蓮が手を上げ、私の肩にそっと触れた。


「弁護士に資料を準備させます。高橋さんが返金しない場合は、財産上の請求と名誉毀損を合わせて進めます」


 高橋翔太は私を睨みつけた。


「佐倉小春、西園寺家に守られているからって、ずっと順風満帆でいられると思うなよ」


 私は何も答えなかった。

 その瞬間から、彼の脅しは私にとって何の重みも持たなくなっていた。



 5.実名動画とネットの裁き


 翌日、会社で給湯室の前を通った時、同僚たちの視線がおかしいことに気づいた。

 彼女たちは三人、四人と固まり、小声で話しながら、時折こちらを見ていた。

 親しくしていた同僚がそばに来て、小声で教えてくれた。


「小春、ネットに実名動画を上げている男の人がいるの。あなたが婚約中にお金持ちの男性と付き合って、その人のために手術を受けたって言っている。早く見たほうがいい」


 私はパソコンを開いた。

 動画の中で、高橋翔太は身分証を手にしていた。顔には疲れと傷ついた様子が浮かび、声はちょうどよく抑えられていた。


「僕は佐倉小春と三年間付き合い、結婚する予定でした。けれど彼女は、うちがこれ以上の結婚準備金を出せないと知ると、財閥の男性のもとへ行きました。僕に相談もなく、僕たちの子どもも処置しました」


 コメント欄はすぐに感情で燃え上がった。


「現実的すぎて引く」


「お金のために婚約者を捨てて、よく平然としていられるね」


「どこの会社の人? こういう人って恥ずかしくないのかな」


「男の人がかわいそう」


 すぐに、私の勤務先とSNSアカウントが特定された。

 個人アカウントには、目を覆いたくなるような罵倒と悪意ある憶測が並んでいった。

 その瞬間、私は世間の風の真ん中に突き出された。

 退勤時、高橋翔太は数人を連れて会社の下で待ち構えていた。

 スマホのカメラを私に向け、顔には傷つききった男の表情を作っている。


「小春、俺は本当は事を大きくしたくなかった。でも、俺の何がいけなかったのか、どうしてもわからないんだ」


 周囲では、すでに何人かが足を止め、スマホを構えていた。

 高橋翔太は目を赤くし、さらに続けた。


「金が欲しいなら、三百万円は何とか用意する。だから頼む。あの男とはもう会わないでくれ。俺は本気で、お前とやり直したいんだ」


 私は彼の演技を見て、胃の奥が重くなるのを感じた。

 周囲の人たちは真実を知らない。

 彼らに見えているのは、低い声で復縁を願う男と、黙ったままの女だけだった。

 誰かが彼の味方をするように言った。


「ここまで頼んでいるのに無視するなんて、冷たすぎない?」


「お金のことでここまで揉めるなんて、見苦しい」


「女性側も何か説明したら?」


 高橋翔太はその隙に、私の手首をつかんだ。指先が皮膚に食い込むほど強かった。


「小春、もう逃げないでくれ」


 痛みに耐えきれず、私は彼の手を振り払った。

 けれどカメラの中では、その一瞬が、彼の卑屈な懇願を私が冷たく拒絶した場面に変わっていく。

 人だかりの中で、数人の若い女性が感情的になり、私に詰め寄ってきた。


「一言くらい説明しなさいよ。彼がここまでしているのに、あなたは何がしたいの?」


「婚約中に別の男と付き合うなんて、本当に許されることなの?」


「お金持ちが全部もみ消してくれるとでも思ってるの?」


 私は不意に押され、地面に倒れ込んだ。腕がコンクリートで擦れ、赤く血がにじんだ。

 同僚が慌てて私を助け起こし、声を落として尋ねた。


「小春、どうして説明しないの?」


 私は首を横に振った。

 今はまだ、その時ではない。

 世論はまだ燃えている。高橋翔太も、自分の偽善をすべて人前にさらしきってはいない。


 一番騒ぎが大きくなった時にこそ、全員に真実を見せる。

 それから二日間、ネット上の議論はさらに激しくなった。

 西園寺蓮から、僕が出て解決しようか、と電話が来た。

 私は彼に言った。


「今回は、私が自分でやりたい」


 三日目、騒動は熱量の頂点に達した。

 私は泣き言も書かなかった。長い弁明文も出さなかった。

 ただ、高橋翔太との三年間の振込記録、メッセージ履歴、彼が私に贈った物の写真、侮辱の録音、そして鎌倉の民宿に関する経営上の問題を示す証拠をすべて整理し、文書としてネットに公開した。


 そのファイルが出てすぐ、コメント欄は一度静まり返った。

 次の瞬間、風向きが一気に変わり始めた。


「つまり、この男は三年間ずっと女性のお金を使っていたってこと?」


「千円の民宿割引券を結婚準備金にするって、さすがにありえない」


「女性の給料の八割を家に入れさせる? 何それ」


「メッセージでは子どもが自分の子だとわかっているのに、動画では女性が裏切ったように言っている」


「彼女がずっと説明しなかったのは、証拠を整理していたからか。反撃が冷静すぎる」


 高橋翔太が上げていた深情ぶった動画は、そのまま証拠の一部になった。

 私はパソコンの前でコメントが更新されていくのを見つめた。想像していたような歓喜はなかった。

 あるのは、ようやく終わりに近づいたという静けさだけだった。


 高橋翔太は、かつて世論で私を壊そうとした。

 けれど彼は忘れていた。

 すべての嘘は、痕跡さえ残っていれば、いつか必ず暴かれる。



 6.法廷での清算


 私は高橋翔太を訴える準備を進めながら、彼が経営していた鎌倉の民宿に関する証拠も整理し、プラットフォームと関係機関に提出した。

 交際していたころから、あの民宿に問題があることは知っていた。


 従業員の給料の遅配、客室清掃の不備、寝具の消毒のずさんさ、使い捨て用品の再利用。客から苦情が入ると、高橋翔太が最初に考えるのは改善ではなく、私にプラットフォームへ連絡させ、謝罪文を書かせ、低評価を抑え込ませることだった。


 彼はまた、期限の近い食材を買い込み、民宿の朝食に使っていた。

 そのころの私は、彼が本気で改善するなら、すべては良くなると思っていた。

 今ならわかる。客の安全や体験を真剣に考えたことのない人間に対して、いくら後始末をしても、問題が表に出る時期を先延ばしにするだけなのだ。

 まもなく、鎌倉の民宿はプラットフォーム上で掲載停止となり、改善を求められた。


 関連する投稿はネット上で大きく拡散された。

 動画の中で、高橋翔太は何度も、あれは誤解だと説明していた。けれどコメント欄では、過去に宿泊した客たちが次々と声を上げた。


「泊まったことがあります。寝具は確かに清潔とは言えませんでした」


「朝食の果物に明らかに傷みかけの匂いがありました。指摘したらテンプレートの謝罪だけでした」


「低評価をつけたら、店側から何度も私信が来ました」


 私はそれらのコメントを見て、ようやく遅れてきた快意を少しだけ感じた。

 彼が不幸になったからではない。

 彼が無視し、軽く扱い、押し込めてきた声が、やっと誰かに届いたからだ。


 開廷の日、東京地方裁判所の前で高橋翔太に会った。

 彼はずいぶん痩せ、顔色も悪く、身につけているスーツも以前ほど整っていなかった。けれど私を見る目は相変わらず恨みに満ちていて、今になっても自分が何をしたのか理解していないようだった。


 私は深く息を吸った。

 すべてを終わらせる時が来た。

 法廷で、私はそろえた証拠を提出した。


「私は高橋翔太と三年間交際している間、銀行振込および電子決済を通じ、合計三百万円を被告に送金しました。これらの金額の大部分は、被告が個人で経営する鎌倉の民宿に使われたものであり、双方の共同生活費ではありません。よって、該当する金額の返還を求めます」


 裁判官は高橋翔太を見た。


「被告は陳述しますか」


 高橋翔太はすぐに口を開いた。


「裁判官、原告の主張には同意できません。三百万円は彼女が自分の意思で僕に渡したものですし、その一部は二人の共同生活に使われています。返還には応じられません」


 私は膝の上で指をわずかに強く握った。

 彼はやはり、すべてを自発的という言葉に押し戻そうとしている。

 けれど今回は、彼を逃がすつもりはなかった。

 私は手を上げた。


「裁判官、ここに過去三年間の具体的な支出明細があります。被告が共同生活費と主張する金額の大部分は、被告の個人事業である民宿の口座と対応しています。内訳は、プラットフォーム広告費、修繕費、従業員給与の立て替え、客からの苦情対応に伴う補償などです」


 高橋翔太が勢いよく立ち上がった。


「佐倉小春、そこまでやるのか!」


 裁判官が低い声で言った。


「静粛に」


 そして裁判官は、高橋翔太に視線を向けた。


「被告は、これらの金額が双方の共同生活に使用されたことを証明する資料を提出できますか」


 高橋翔太は黙り込んだ。

 提出できるはずがなかった。

 あのお金は最初から最後まで、彼の民宿の表面上の体面を維持するために使われていたのだから。


 最終的に、裁判所は私の請求の大部分を認め、高橋翔太に二百五十万円の返還を命じた。

 私はそこで終わらせなかった。

 続けて、彼がネット上で虚偽の内容を投稿し、私への誹謗中傷を煽った証拠を提出した。


「高橋翔太は交際終了後、事実に反する内容を投稿し、ネット上の世論を誘導して私を攻撃させました。その結果、私個人のアカウント、勤務先、名誉に深刻な影響が出ています。精神的損害および経済的損失への賠償を求めます」


 高橋翔太がはっと顔を上げた。ようやく顔色が変わった。

 彼は、自分が削除したつもりの動画やコメントを、私がすべて保存していたとは思わなかったのだろう。

 高橋翔太は歯を食いしばり、反撃した。


「裁判官、彼女も僕の民宿について事実ではない内容をネットに投稿し、営業に損害を与えました。僕も賠償を求めます」


 私は静かに彼を見た。

 それを待っていた。


「裁判官、私が投稿した内容にはすべて根拠があります。客室の写真、仕入れ記録、プラットフォームへの苦情、客の評価、そして高橋翔太本人が問題を認めたメッセージの履歴もあります」


 私は整理した資料を提出した。


「サービス業は、本来、事実に基づく評価を受け止めるべきものです。客観的な感想まで虚偽とされるなら、消費者は今後どうやって自分の権利を守ればよいのでしょうか」


 裁判官は証拠を確認した後、すぐに判断を示した。

 高橋翔太は私に対し、ネット上で虚偽の情報を流し、悪意を持って世論を誘導したことで名誉を毀損したと認められた。公開謝罪に加え、慰謝料十万円と経済的損失十万円の支払いを命じられた。


 同時に、民宿に関する証拠は、プラットフォームと関係機関による継続的な調査の対象となった。

 審理が終わるころ、高橋翔太は椅子に座ったまま、すべての支えを失ったように見えた。

 法廷を出たあと、彼は突然私の前に立ちはだかった。


「小春、俺たちはやり直せないのか?」


 私は彼を見て、ただ馬鹿げていると思った。


「高橋翔太、過去のことはもう終わりました」


 彼の顔が青ざめた。

 私は彼に、これ以上の希望を与えなかった。


「二度と私の前に現れないでください」


 そう言って、私は振り返らずに去った。



 7.婚礼前の最後の別れ


 私と西園寺蓮の結婚式の日、家の前に、身なりの乱れた女性が座り込んでいた。

 近づいて初めて、それが高橋美津子だとわかった。

 かつての傲慢さも得意げな様子も、もう彼女には残っていなかった。髪は乱れて頬に張りつき、顔を上げることさえできないほど落ち着きを失っていた。

 私が家を出ると、彼女は急に一歩前へ出て、車の前に立ちふさがった。

 涙が頬を伝って落ちていた。


「小春さん、私が間違っていました。あなたを軽く見て、物事を簡単に考えすぎていたんです。翔太に、もう一度だけ機会をくれませんか」


 私は黙っていた。

 彼女は私がすぐ立ち去るのを恐れたのか、慌てて続けた。


「今度こそ、高橋家は百万円の結婚準備金を出します。以前約束した分も、すべて埋め合わせます。あなたが戻ってきてくれるなら、今度こそ大切にします」


 私は彼女を見て、ほとんど笑いそうになった。

 今になって埋め合わせるつもりなのか。

 けれど、遅すぎる。


「高橋夫人、あなたは今でも、問題は百万円だけだったと思っているのですか?」


 高橋美津子は固まった。

 私は静かに彼女を見た。


「私はそのお金に困っていません。自分を押し殺すような結婚も必要ありません」


 彼女の表情は少しずつ強ばった。それでも諦めきれないようだった。


「小春さん、あなたがお金だけを見る人でないことはわかっています。翔太とは三年も付き合ったんでしょう。一時の行き違いで、その感情まで全部否定しなくてもいいはずです」


 私は急に疲れを覚えた。

 ここまで来ても、彼女は本当の意味では何も反省していない。

 ただ私がよりよい選択を得たことで、自分たちが利用できる人間を失ったと気づいただけなのだ。


「高橋夫人、どいてください」


 彼女は泣きながら私を見た。


「翔太はずっとあなたを思っています。本当に後悔しているんです」


 私は軽く息を吸った。


「それは彼の問題です。私には関係ありません」


 西園寺蓮が車から降りて、私のそばに来た。

 彼は私を見下ろし、声を少しだけ柔らかくした。


「小春」


 その声を聞いただけで、彼があまり機嫌をよくしていないことがわかった。

 私は彼の手を握り、微笑んだ。


「もう話は終わったわ」


 西園寺蓮は高橋美津子を見た。表情はすぐに静けさを取り戻していた。


「私の妻を、これ以上煩わせないでください」


 彼は警備の者へ視線を向けた。


「この方をお送りしてください」


 車のドアが閉まる時、高橋美津子はまだその場に立っていた。私の名前を呼ぼうとしているようにも見えた。

 けれどすぐに、その姿は車窓の後ろへ遠ざかっていった。


 東京の高級ホテルの宴会場は、明るく柔らかな光に包まれていた。

 西園寺蓮は花束を持ち、三カラットの特注ダイヤモンドの指輪を手に、親族と友人たちが見守る中、私の前に片膝をついた。

 彼は顔を上げ、優しい目で私を見た。


「小春、僕と結婚してください」


 私は手を差し出した。


「はい」


 指輪が薬指に通された瞬間、拍手と祝福の声が同時に広がった。

 ふと、あの千円の民宿割引券を思い出した。

 かつて誰かは、あんなもので私の価値を測ろうとした。


 けれど今、私を人生に迎え入れるだけでなく、私の尊厳も、選択も、未来も、すべて大切にしようとしてくれる人がいる。

 その瞬間、私はようやく過去を完全に手放した。



 8.もう振り返らない人生


 結婚して一年目、私は妊娠した。

 つわりが重く、食べられない日が続いた。西園寺蓮は私の体を気遣い、家庭医と栄養士を手配して、毎日その日の体調に合わせて食事を調整してくれた。


 夜中に私の具合が悪くなると、彼は寝室の隣の書斎に仕事を移した。

 私が少しでも動くと、彼はすぐに目を覚ました。

 時々、自分がひどく手間のかかる存在になったような気がして、私は思わず言った。


「蓮、そこまでしなくていいの。私はそんなに弱くないから」


 彼は私の手を握り、真剣に言った。


「君は面倒な存在じゃない。君を支えるのは、僕がすべきことでもあるし、僕がしたいことでもある」


 私は彼を見つめ、心がゆっくりと落ち着いていくのを感じた。

 愛されている人間は、自分に価値があると何度も証明しなくていいのだ。

 結婚して二年目、子どもが生まれた。


 西園寺蓮は出産後のケアチームを前もって整えていた。医師、介助者、栄養食、回復計画まで、驚くほど細やかだった。

 子どもが生まれたばかりのころ、私は体の戻りが遅く、気持ちも不安定だった。

 それでも彼は一度も苛立たなかった。

 夜中に目を覚ますたび、彼はすでに子どもを抱いて、部屋の中を静かに歩きながらあやしていた。


「君はもう十分頑張った。あとは僕に任せて」


 私はベッドに座り、その姿を見つめながら目元が熱くなるのを感じた。

 高橋翔太はかつて、女が結婚し、子どもを産むことを当然だと思っていた。


 けれど西園寺蓮は教えてくれた。本当に愛してくれる人は、こちらの尽くしを当然のものとして扱わない。

 彼は気づいてくれる。

 そして、大切にしてくれる。

 体が回復してから、私は起業したいと口にした。


 西園寺蓮の妻でいるだけの人生は嫌だった。彼の光の下にずっと立っているだけでも嫌だった。

 小さなブランドや女性起業家のために、コンテンツ運営を支援するネットマーケティング会社を作りたいと思っていた。

 私は、彼が私の体を心配して止めるかもしれないと思った。

 けれど彼は私の計画を最後まで聞いたあと、整理された業界資料を一冊、私の前に置いた。


「見ておいた。この方向なら可能性がある。資金、人脈、オフィスが必要ならいつでも言って。ただ、会社は君のものだ。僕が君の代わりに決めることはしない」


 私はその資料を見て笑った。


「そんなに私を信じているの?」


 彼も笑った。


「ずっと信じている」


 結婚して四年目、私の会社はようやく安定した。

 規模は西園寺グループには及ばない。それでも、私自身の資産と呼べるものを持てるようになった。

 私はもう、恋のためにお金を渡し続け、譲り続けていた佐倉小春ではない。

 自分の仕事があり、自分の足で立つ力があり、本当に愛してくれる家族がいる。

 日曜の朝、西園寺蓮から電話があった。今日は一緒に息子を迎えに行き、そのまま遊園地へ連れていくことになっていた。


 彼は約束を必ず守る人だ。東京近郊のテーマパークを、前もって貸し切りにしていた。

 午後、私たちは市内で最も大きな私立バイリンガル幼稚園へ車で向かった。

 息子は私たちを見つけると、小さなリュックを背負って駆け寄ってきた。顔いっぱいに笑みが広がっていた。

 西園寺蓮は身をかがめ、息子を抱き上げた。


「今日は幼稚園、楽しかった?」


 息子は笑ってうなずいた。


「楽しかった!パパ、今日は遊園地に行くって言ったよね」


 私は息子の少しずれた帽子を直してやった。


「わかっているわ。今から行きましょう」


 私たち三人は車へ向かって歩いた。

 夕日が道端に落ち、風は穏やかだった。息子の小さな手が、私の手を柔らかく握っている。

 その瞬間、私はもう過去と交わることはないと思っていた。

 けれど車に乗る直前、息子が急に私の手を引いた。


「ママ、あの人を見て」


 息子の指すほうへ目を向けた。

 幼稚園の外れにあるごみ箱のそばに、服の汚れた男が座り込んでいた。しわだらけの半袖を着て、髪は長く伸び、絡まり、ひどくやつれていた。元の姿など、ほとんどわからないほどだった。


 彼は私の視線に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。

 目が合った瞬間、私は少しだけ息をのんだ。

 高橋翔太だった。

 彼も私に気づいた。


 かつて自分が正しいと信じ、計算でいっぱいだった目には、今では気まずさと逃げるような色だけが残っていた。彼は口を開き、私の名を呼ぼうとしたようだったが、結局何の声も出せなかった。

 今の私と彼は、もうまったく違う人生を歩いている。

 私は近づかなかった。

 長く見つめることもしなかった。

 息子が顔を上げて尋ねた。


「ママ、知っている人?」


 私は視線を戻し、息子の頭をそっと撫でた。


「知らない人よ」



「ただ、昔、大切なものを大切にできなかった人」


 息子はわかったような、わからないような顔でうなずいた。

 西園寺蓮が私の手を握り、私と子どもを車へ導いた。

 車は静かに走り出した。

 私は振り返らなかった。


 窓の外で東京の街並みが後ろへ流れていく。

 そして私は、ようやく自分だけの余生へと、まっすぐ進んでいった。



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