『その断罪、書類不備につき無効です』
この物語は、
学園・悪役令嬢・断罪・婚約破棄といった、よくある題材から始まります。
ただし、
泣き叫ぶ復讐も、派手なざまぁもありません。
代わりに出てくるのは、書類と手続きと、「それ、本当に確認しましたか?」という問いです。
感情が正しいと信じられる場面ほど、
一度立ち止まって確かめることの大切さを、
少しだけ不条理に、少しだけ現実寄りに描いてみました。
軽く読めて、後味は静か。
そんな短編になっています。
どうぞ、肩の力を抜いてお読みください。
王立学園の大広間は、今日もよく整っていた。赤い絨毯は毛足の向きを揃えられ、燭台の火は左右同じ高さで揺れている。壇上の紋章旗は一枚の皺も許されず、壁際には礼装の教師が並び、貴族子弟たちは「これから何が起きるか」を既に知っている顔をしていた。
中央に立たされるのは、公爵令嬢リュシエンヌ・アルヴェール。胸元の校章は正しく留められ、髪は学園規定の結い方を守っている。視線を落とす者が多い中、彼女は落とさない。恐れでも反抗でもなく、ただ、姿勢として。
壇上に立つ王太子は、怒りを演じるのが上手だった。怒りを演じ慣れている、と言ってもよい。群衆がその感情を待っていると知っているから、彼はそれに応える。
「リュシエンヌ・アルヴェール」
大広間に声が響き、空気が一段と熱を帯びた。王太子の隣、白い制服を纏う少女——聖女候補クララは、目尻を赤くしている。手にした薄布のハンカチが震えて見えたのは、寒さのせいではない。
「あなたは、クララを度々侮辱し、学園内での信頼を損ねた。さらに——」
そこまで言いかけて、彼は言葉を一度、溜めた。溜めるのは、観客が息を吸う時間を作るためだ。断罪とは、当事者のためというより、周囲の安心のために行われる。誰かが悪で、誰かが善で、世界が単純であると確認する儀式。
「本日ここにおいて、私はあなたとの婚約を破棄する。加えて——」
その瞬間、大広間の扉が静かに開いた。乱暴にではなく、儀礼の速度で。だが、その「静かさ」が場の流れを切った。
灰色の外套を着た男が入ってくる。年齢は四十前後、髪に白いものが混じり、歩幅は小さい。手には書類束。紙の角が揃えられているのを見ただけで、彼が誰か分かる者には分かる。
学園監査官、ハルデン。
彼は壇上の教師に一礼し、次に王太子へ礼をし、最後に聖女候補クララへ礼をした。順序に感情はない。職務上の序列で、しかし、誰にも失礼がないように。
「少々、よろしいでしょうか」
王太子の眉がわずかに動いた。ここは自分の舞台だ、と言うように。
「監査官。今は——」
「承知しております。ですが、現に進行しつつある行為が、学園規程および王室通達に照らし、手続要件を満たしていない可能性がございます」
言葉は丁寧で、刃が入っている。観客は意味が分からなくても、流れが変わったことだけは分かる。ざわめきが広がり、教師が咳払いをした。
ハルデンは書類束の上紙を一枚めくり、淡々と読み上げた。
「本件、悪役令嬢指定申請書が提出されておりません。加害行為記録票、未提出。被害申告書、形式不備。学園監査部の仮認定、未実施。以上により——」
監査官は顔を上げた。
「その断罪、書類不備につき無効です」
言葉は短く、余白が長かった。
誰も、すぐには反応できなかった。王太子の口は開きかけたまま止まり、聖女候補クララの涙はそのまま頬の上で留まる。教師陣の一人が何か言いかけたが、隣が袖を引き、押し留めた。全員が「決められた筋書き」を失った瞬間の顔をしている。
リュシエンヌだけが、ほんのわずかに息を吐いた。安堵ではない。予想していた最悪が、別の最悪に置き換わったときの、静かな切り替えだ。
「馬鹿な……」と誰かが呟いた。
王太子が低い声で言った。「書類がないだと? この場の事実より紙が優先されるのか」
「殿下」ハルデンは声を荒らげない。「本学園は貴族統治の基礎教育機関であると同時に、将来の行政運用を担う者を育てる場でございます。事実の認定と権限行使には、手続が必要です。手続は、真実を作るためではなく、誤りを減らすために存在します」
その言い方が、いっそう場を冷やした。誰もが感情の勝利を期待していたのに、突然「誤りを減らす」という地味な目的が突きつけられたからだ。
聖女候補クララが、震える声で言った。「でも、私は……私は本当に、傷ついたんです。皆さんも見てました」
「拝承いたします」ハルデンは頷いた。「従いまして、正式な申告書の提出をお願い申し上げます。規定の様式に従い、日時、場所、具体的行為、証人の有無、証拠の提出可否をご記載ください。提出期限は三営業日。本日を含めません」
「三、営業日?」と別の生徒が戸惑い混じりに繰り返した。学園の時間には授業と行事しかないと思っている者にとって、営業日という概念は異物だ。
王太子が苛立ちを隠さず言った。「監査官、この場は——」
「儀式ではございません」ハルデンは言った。「権限行使の場です。殿下の権限は尊重いたします。ただし、法定手続の範囲内において」
静かな言葉が、王太子の背後にある王室を見せた。王太子は王でない。王になるために学んでいる途中である。そして学園は、王さえも手続の外に出さないと宣言している。
ハルデンが教師に向けて言う。「大広間の使用を、これ以上占有することは適当ではありません。本件は監査部にて受理し、初動確認を行います。関係者は後ほど、呼び出しに応じてください。殿下、聖女候補、リュシエンヌ公爵令嬢」
教師が頷き、鐘を鳴らした。散会の合図。観客は不満と好奇心を抱えたまま動き出し、誰もが「結末」を失ったことで、余計に言葉数が増えた。
リュシエンヌは動かない。動けば、背中に言葉が刺さる。動かなければ、正面から刺さる。どちらも同じなら、最もきれいな姿勢を保つ。
ハルデンが彼女に視線だけを向けた。「公爵令嬢、監査部へ。こちらへ」
彼女は頷いた。頷くことが許される場になったことを、ようやく理解した。
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監査部は学園の北棟、図書館の裏側にある。学園の中心からは微妙に外れていて、わざと「権威の中心」から距離を取っているように見える。古い石造りの廊下を進むと、紙とインクの匂いが濃くなる。誰かの人生が「記録」になって積まれている匂いだ。
執務室には机が三つ、書架が四つ、そして書類棚が壁一面。窓は小さく、外の景色は切り取られている。代わりに、内側には整理された世界がある。
ハルデンは椅子を勧めた。「座ってください。まず、確認事項です。公爵令嬢、あなたは本件の断罪が予定されていることを、事前に把握していましたか」
「はい」リュシエンヌは即答した。「昨日、同級生から。今日、大広間に呼び出されると」
「正式通知は」
「ありません」
ハルデンが紙に書き込む。「不告知。次。聖女候補から、あなたに直接、抗議または改善要求はありましたか」
「ありません。私と会話を交わしたのは、挨拶程度です」
「殿下からは」
「ありません」
ハルデンが一度だけ顔を上げた。「では、あなたに対して発せられた社会的制裁——悪役令嬢という呼称、排斥、侮辱等——が生じるまでに、正式な機会が一度も存在しなかった、と」
リュシエンヌは頷く。「そうです」
ハルデンはペンを止めた。「あなたは、なぜ今日、反論しなかったのですか。大広間で、あなたは一言も言わなかった」
その問いには、針がある。彼女が黙ることで「悪役令嬢らしさ」が完成してしまう。それを知っていたはずだ、と言外に。
リュシエンヌは少しだけ考え、言葉を選んだ。
「反論は、記録になりません。感情の応酬は、誰かの都合の良い切り取りになります。……書類が要る世界だと知っていたので、必要な時に必要な形で出すつもりでした」
「準備していたのですか」
彼女は鞄から薄いファイルを取り出した。色は控えめで、目立たない。だが背表紙には細かいラベルが貼られている。「出欠」「課題提出」「備品」「面談」「苦情」。
「何です、それは」
「私の生活記録です」リュシエンヌは淡々と言った。「誰かが私を“悪役”にしたがるなら、私は私の“規定遵守”を残しておく必要があります。学園は、規定を守る者を裁けない。そう教わってきました」
ハルデンの目が一瞬だけ柔らかくなった。「教わってきた。……あなたの家は、行政に近い」
「はい。父は財務評議会の補佐官です」
ハルデンが頷いた。「では、こちらも正式に動きます。本件は“断罪の不成立”で終わりません。今日の一件は、権限行使の未遂として、監査案件です。関係者を呼び出し、手続逸脱の有無、圧力の有無、虚偽の有無を確認します」
「殿下を、ですか」
「殿下も含みます」ハルデンは躊躇しない。「学園の中であっても、規程の外に立つ者はいません。それが、ここが学園である理由です」
言い切った後、彼は少しだけ声を落とした。
「ただし、公爵令嬢。あなたにもお願いがあります。あなたが提出する文書は、あなたを守る一方で、誰かを傷つけます。あなたは“ざまぁ”を望みますか」
その言葉に、彼女は微かに眉を動かした。監査官の口から出るには俗っぽい。だが、俗が現実を動かすと知っている者の言葉でもある。
「望みません」リュシエンヌは静かに言った。「私は、私が学園を卒業して、家門の仕事を担うためにここにいます。余計な騒ぎは、私の時間を奪います。……でも、奪われ続けるのも嫌です」
「望まないが、許さない」
「そういう表現になりますか」
「行政は、そういう表現になります」
ハルデンは書類束から一枚抜き取り、机の上に置いた。
「まず、あなたの側の提出です。『当事者意見書』。様式はありますが、あなたは書けるでしょう。明日正午までに。証拠資料は添付。証人は、提出時点では匿名可。ただし、審理段階で本人確認が必要になります」
リュシエンヌはその紙を受け取った。紙は軽いのに、手のひらが重くなる。これが彼女の盾であり、刃になる。
「もう一つ」ハルデンが続ける。「殿下と聖女候補には、こちらから“提出指示”を出します。期限は同じ。提出がなければ、案件は却下。却下は、無罪ではありません。『主張の不存在』として記録されるだけです」
リュシエンヌは頷いた。「承知しました」
そして彼女は、ひとつだけ尋ねた。
「監査官。なぜ、今日、大広間に来たのですか。書類がないなら、放っておけば、断罪は形だけ進んだでしょう。後から無効にする方が簡単では」
ハルデンは少し黙り、窓の方を見た。外の光は細い。
「簡単だからです」彼は言った。「後から無効にするのは簡単です。……しかし、無効になった後に傷つく者は、記録に残りません。学園が守るべきは、規定だけではない。規定が守るべき人間です」
その言い方は、監査官らしくないほど優しかった。だからこそ、リュシエンヌは少しだけ肩の力が抜けた。
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翌日、学園は何事もなかったように授業を進めた。何事もなかったように、というのは、表向きの話だ。廊下の空気は明らかに違う。笑い声が、以前より一段と鋭い。囁き声が、以前より一段と多い。
リュシエンヌは教室に入ると、いつも通り最前列の席に座った。ノートを開き、ペンを整え、先生の声に頷く。彼女は「平常」を演じない。彼女にとって平常は演じるものではなく、選ぶものだ。
休み時間、背後から小さな声がした。「昨日……大丈夫だったの?」
振り向くと、同じクラスの子爵令嬢マリナが立っていた。彼女はいつも、噂話に乗り切れない目をしている。
「大丈夫よ」とリュシエンヌは言った。「手続上は」
「手続、って……」マリナは言葉に詰まった。「皆、あなたが悪いって……」
「皆がそう言うなら、書類で示せるはずよ。そういう世界だから」
マリナは唇を噛んだ。「それ、怖くない? 人の気持ちより紙が強い世界」
リュシエンヌは首を振った。「紙が強いんじゃない。紙にしないと、気持ちは簡単に捻じ曲げられる。……あなたの気持ちも、誰かに利用される」
マリナは目を見開いて、そして小さく頷いた。
「私、証人になれるか分からないけど……あなたが誰かをいじめているところ、見たことない」
その一言が、紙より温かかった。リュシエンヌは微笑む代わりに、短く礼を言った。「覚えておいて。必要な時に、必要な形で」
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当事者意見書を書く作業は、思ったよりも難しかった。事実だけを書けば良い、と頭では分かっているのに、事実はいつも「解釈」を連れてくる。
彼女が書いたのは、単純な記録だ。
——聖女候補クララと会話した日時、内容。
——衝突の有無。
——第三者の立会い。
——自分が行った行為の一覧。
——相手に不利益を与えるような言動がなかったこと。
そして添付として、彼女は小さな資料をつけた。
・学園備品の貸出記録(クララに貸し出した羽ペンの返却が未了)
・図書館閲覧申請の代理提出記録(クララの名で提出された申請を、リュシエンヌが窓口で補助した記録)
・課題提出期限延長の正式申請(クララが提出できなかった分を、教務が規程に則り延長した記録)
それらは「善行のアピール」ではない。彼女はそこに感情を書かない。ただ、相手と接点があったなら、その接点がどういう性質だったかを示す。
最後に、彼女は一行だけ書いた。
——本件が“悪役令嬢”として扱われることは、私個人の不利益に留まらず、学園が教育機関として保持すべき手続的正義を損なう。よって、監査部における正式な審査を求める。
それは願いというより、要請だった。
翌日正午、監査部に提出すると、ハルデンは一枚目を見て頷き、添付資料のラベルを見てまた頷いた。
「良い」彼は言った。「あなたは、感情を置いてきた。必要なことです」
「感情を置くのは、簡単ではありません」
「簡単ではないから、教育になる」
ハルデンは続けて告げた。「殿下と聖女候補も提出しました。……形式は整っている。だが、中身は薄い」
「薄い?」
「日時が曖昧。具体的行為が抽象的。証人の記載が“多数”という表現。証拠の添付なし。つまり——世間話です」
監査官の口から「世間話」と言われると、それは侮辱ではなく分類に聞こえた。
「ただし」ハルデンはペンで机を軽く叩いた。「薄いこと自体が悪いのではない。薄いなら薄いなりに、却下で終わる。しかし、今回は違う。昨日の大広間で、殿下は婚約破棄を宣言しかけた。権限行使の未遂が起きている。未遂は、成立要件を満たさずとも、統治教育上の問題です」
「処分、ですか」
「“是正”です」ハルデンは言った。「罰ではなく、修正。学園は人を壊す場所ではありません」
その言葉は、どこかで自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「明日、三者面談を行います。あなたも出席を。言葉は少なくて良い。書類が話します」
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面談は小さな会議室で行われた。円卓の中央に、封緘された書類箱が置かれている。出席者はハルデン、学園長代理の教師一名、王太子、聖女候補クララ、そしてリュシエンヌ。
王太子は不満を隠さない。「監査官、これは侮辱だ。私の——」
「殿下」ハルデンが遮った。「本日は、殿下の感情の場ではありません。教育の場です。学園規程第十二条、貴族子弟の責務。『権限行使に先立ち、事実認定と記録化を行うこと』。殿下が守れないなら、誰が守るのです」
王太子は口を閉じた。怒りが引っ込み、代わりに苛立ちが残る。
クララが小さく声を出した。「でも、私は……皆が私を守ってくれるって……」
「守る、と言う言葉が、曖昧です」ハルデンは言った。「あなたを守るとは、あなたの感情を肯定することなのか。あなたの安全を確保することなのか。あなたの社会的地位を維持することなのか。どれです」
クララは言葉を失い、涙が溜まる。彼女は悪い子ではない。ただ、「こういう場」に慣れていない。聖女として持ち上げられるほど、彼女は自分の言葉で世界を定義する機会を奪われる。
リュシエンヌは、そこで初めて口を開いた。
「あなたの感情を否定するつもりはありません」彼女はクララに向けて言った。「けれど、私があなたを傷つけたなら、その事実は具体であるべきです。具体でなければ、私は改善できない」
クララは目を瞬かせた。改善という単語が、彼女の世界には存在しないようだった。善と悪で終わる世界では、改善は不要になる。悪が消えればいいから。
ハルデンが書類箱を開け、二つの書類を取り出した。クララの申告書と、リュシエンヌの意見書。
「比較します」ハルデンは言った。「聖女候補の申告には、次の記載があります。『彼女は私を見下し、笑った』。日時は“先月頃”。場所は“廊下”。目撃者は“たくさん”。証拠は“なし”。」
次に、リュシエンヌの書類を掲げた。「こちらは、当該期間の接点記録。廊下での会話は二度。いずれも挨拶。図書館申請の補助が一度。備品貸出が一度。教師面談に同席が一度。——あなたは、彼女を笑いましたか」
「笑っていません」リュシエンヌは即答した。「私は、彼女の前で笑った記憶がありません。会話も短い。笑うほどの余裕がない」
王太子が噛みつくように言った。「なら、クララが嘘をついたと?」
リュシエンヌは王太子を見ず、クララを見た。「嘘かどうかは分かりません。けれど、記憶は簡単に形を変えます。誰かが『あの公爵令嬢は冷たい』と言えば、挨拶が“見下し”に変わる。誰かが『笑っていた』と言えば、無表情が“嘲笑”に変わる」
クララの肩が震えた。否定されたというより、自分が「簡単に操作される」側にいることを初めて知った顔だった。
ハルデンが続ける。「本件は、現時点で“悪役令嬢案件”として不成立です。理由は、要件不備。したがって、断罪も婚約破棄も成立しない。——ただし」
彼は王太子に視線を向けた。
「殿下が昨日起こしかけた行為は、手続逸脱として監査対象です。処分ではなく、是正措置として、行政リテラシー補習を命じます。殿下と聖女候補、そして関係生徒数名。出席は義務。内容は、申告書の書き方、証拠の扱い、権限と責任の一致」
「補習?」王太子の声が掠れた。屈辱が混じる。
「はい」ハルデンは淡々と言った。「殿下は王になるためにここにいる。王は、感情だけで人を裁いてはならない。学園は、それを教えます」
クララが小さく言った。「私も、補習ですか」
「あなたもです」ハルデンは言った。「聖女は人を救う立場になり得る。救うとは、感情を肯定することではない。現実を扱うことです。あなたが扱う現実には、人の人生がある」
クララの涙が落ちた。だがその涙は、昨日の涙と違って見えた。誰かに守られるための涙ではなく、自分が何も知らなかったことへの涙だ。
リュシエンヌは、その場で勝利の感情を持つことを拒んだ。ここで勝ったと思えば、結局は儀式に飲まれる。彼女が欲しいのは勝利ではなく、呼吸できる日常だ。
面談が終わり、出席者が立ち上がる。王太子は出口で足を止め、リュシエンヌにだけ低い声で言った。
「あなたは、私を辱めた」
彼女は王太子を見た。「殿下がご自身で、ご自身を辱めたのだと思います。私は、止めただけです」
一瞬、殿下の目が険しくなり、次に困ったように揺れた。彼は初めて、反論しようとして言葉が出ない経験をしたのだろう。反論には、根拠が要る。
「……私に、謝罪を求めるのか」
「求めません」リュシエンヌは言った。「謝罪は、気持ちの問題です。気持ちは、書類になりません。私は、再発防止を求めます」
その言い方に、王太子は苦い顔をしたが、やがて小さく頷いた。「……分かった」
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補習は、学園の地下講義室で行われた。参加者は王太子、クララ、数名の取り巻き、生徒会書記、そしてリュシエンヌも“参考出席”として呼ばれた。監査官ハルデンが講師を務め、黒板には大きくこう書かれている。
——「主張」「事実」「証拠」「評価」「決裁」
ハルデンは最初に言った。「あなた方は、物語の中に生き過ぎています。物語は便利だ。善悪が分かりやすく、結末が気持ちいい。しかし統治は物語ではありません。統治は、遅く、地味で、面倒です。だからこそ、事故が減る」
彼は申告書の様式を配り、例題を出した。「“見下された”と書いてはいけません。見下されたと思った具体行為を書きなさい。言葉、表情、距離、周囲の状況。あなたがそう感じた背景。——感じたことは否定しないが、感じたことだけで他人の人生を動かしてはいけない」
クララが、途中で手を挙げた。「でも、私は……皆が、リュシエンヌ様は怖いって言うから……」
「それは“伝聞”です」ハルデンは即答した。「伝聞は証拠になりません。あなたが見たこと、聞いたこと、触れたこと。あなたの経験を言葉にしてください」
クララは震える手でペンを握り、書き始めた。書くほど、彼女は自分の記憶が曖昧だと知る。曖昧なまま泣いていた自分が、どれほど危ういかを知る。
王太子は不機嫌そうに書類を眺めながらも、途中から表情が変わった。彼は理解が早い。理解が早いがゆえに、これまで「理解しなくてよい環境」を好んできただけだ。
休憩時間、王太子がリュシエンヌの近くに来た。「……あなたは、いつからこういう書き方を」
「家で」リュシエンヌは答えた。「父が、私に教えました。貴族とは、怒れる者ではなく、記録できる者だと」
王太子は視線を落とし、短く言った。「私は、父から剣と演説を教わった。記録は、侍従の仕事だと思っていた」
「侍従は道具ではありません。殿下の判断を支える機能です。支えを軽んじれば、殿下は倒れます」
それは忠告であって、侮辱ではない。王太子は理解したように頷き、しかし次に言葉が詰まった。
「昨日、私は……」
「昨日のことは、監査部の記録になります」リュシエンヌは淡々と言った。「殿下が変わるなら、その記録は“転機”として残ります。変わらないなら、“前例”として残る」
王太子の顔が引き締まった。前例という言葉は、王を縛る。縛るが、守る。
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補習が終わる頃、学園内の噂は別の形に変わっていた。断罪が成立しないことより、「殿下が補習に出た」という事実が面白いのだ。面白さは正義より強い。だが、それは今回、リュシエンヌにとって追い風でもあった。
「悪役令嬢」は、儀式が成立しないと成立しない。紙がないなら、役割が消える。役割が消えれば、群衆は別の役割を探す。
ある日、クララが昼休みにリュシエンヌの席に来た。取り巻きはいない。彼女は一人で立っている。
「……話しても、いいですか」
「どうぞ」リュシエンヌは立たない。立てば、迎え入れたように見える。迎え入れれば、また物語になる。ここは現実の会話だ。
クララはぎこちなく言った。「私、あなたが笑ったって書いたけど……思い出せなくて。誰かがそう言った気がして……」
「そう」
「私、怖かったんです。皆が期待する“聖女”でいられないのが。だから、分かりやすい敵が欲しかったのかもしれない」
その言葉は、痛々しいほど正直だった。リュシエンヌは少しだけ視線を柔らかくした。
「あなたが怖いのは、当然です。期待は重い。——でも、敵を作れば軽くなるわけではない。敵を作るたびに、あなたは自分を失う」
クララは唇を噛み、そして深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
謝罪は気持ちで、書類にならない。だが、書類にならないものが、時に人間を救う。リュシエンヌはそれを否定しない。
「謝罪は受け取ります」彼女は言った。「ただし、次からは、困ったら監査部に行きなさい。泣く前に」
クララが顔を上げた。「……監査部って、怖いところだと思ってた」
「怖いのは、曖昧なまま裁かれることよ。監査部は、曖昧を嫌う。だから、味方にもなる」
クララは小さく頷き、去っていった。彼女の背中は、少しだけ軽く見えた。
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学期末、監査部から正式な通知が出た。学園全体に向けた通達で、内容は簡潔だ。
——断罪および婚約破棄に関する手続要件の再周知。
——“悪役令嬢指定”は俗称であり、正式には「規程違反者に対する審査案件」であること。
——審査は感情ではなく記録に基づくこと。
——誹謗中傷、排斥行為は別途規程違反として監査対象となること。
通達は、誰も名指ししない。名指ししないことで、全員に向けた刃になる。学園が「物語」を拒否した証拠だ。
その日の放課後、ハルデンがリュシエンヌを呼び止めた。廊下の窓から夕日が差し、紙の色が柔らかく見える。
「公爵令嬢。少し時間を」
彼女は立ち止まり、頷いた。
「本件は終結です」ハルデンは言った。「あなたに対する審査案件は成立せず。殿下は補習を修了。聖女候補は指導継続。——あなたは、どうしますか」
「どうしますか、とは」
「殿下との婚約」ハルデンは真っ直ぐ言った。「殿下は、正式な婚約破棄をしていない。できなかった。手続が必要だからです。あなたが望むなら、あなたの側から“婚約関係見直し申請”ができます」
リュシエンヌは少しだけ沈黙した。婚約は、彼女の人生のレールだった。だがレールは、踏まれたら折れる。折れたレールの上を歩くのは危険だ。
「私は、殿下を憎んでいません」彼女は言った。「ただ、殿下の隣に立つなら、私は一生、殿下の“物語”に巻き込まれる。それは……私の仕事に向かない」
「あなたは、仕事を望む」
「はい。私は、秩序の方が好きです。感情の舞台より」
ハルデンがわずかに口元を緩めた。「なら、提案があります。監査部の実務補助。学園卒業までの間、週二回。無給ですが、推薦状は出せる」
リュシエンヌは驚いた。「私を、監査部に?」
「あなたは、書類で自分を守った。多くの生徒は、守れません。あなたがそこにいるだけで、学園は変わる」
その言い方は、過大評価にも聞こえた。だが同時に、彼女が欲しかった「役割」に近かった。悪役でも聖女でもなく、秩序を整える側の役割。
「やります」リュシエンヌは即答した。
ハルデンが一枚の紙を差し出した。「では、こちらに署名を」
紙には、簡潔にこう書かれている。
——監査補助官候補登録申請書
彼女はペンを取り、署名した。名前は、誰かに与えられた役割ではなく、自分で選ぶ立場としての名前に見えた。
署名を終えたとき、背後から足音がした。振り向くと、王太子が一人で立っていた。取り巻きはいない。彼は少し躊躇ったように、しかし逃げずに言葉を探している。
「リュシエンヌ」
彼女は頭を下げた。「殿下」
王太子は息を整え、短く言った。
「私は、あなたを裁こうとした。——間違っていた」
それは謝罪というより、告白だった。だが告白には、責任の芽がある。
「私は、王になる」王太子は続けた。「だから、私は……あなたのように、記録を扱えるようにならなければならない。あなたが監査部に入るなら、私は、あなたを必要とするかもしれない」
その言い方は、まだ少し傲慢だった。必要とする、という言葉には、所有の匂いが残る。
リュシエンヌはそれを指摘しない。指摘すれば、また舞台になる。彼女が求めているのは、舞台ではなく、仕組みだ。
「殿下が必要とするのは、私ではなく、制度です」彼女は言った。「制度を必要とするなら、制度は殿下を支えます。私は、その一部として働くだけです」
王太子は少し苦い顔をしたが、やがて小さく頷いた。「……そうだな」
それだけ言って、彼は去った。去り方が、以前より静かだった。自分が舞台の中心ではないと知り始めた者の歩き方だった。
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春が来る頃、学園の空気は少し変わった。劇的ではない。劇的に変わるなら、それはまた別の物語だ。変わったのは、紙の扱い方である。
誰かが誰かを責める前に、教務室に行く。誰かが泣く前に、相談票を書く。誰かが「断罪だ」と囃す前に、監査部の掲示板を見る。
それでも噂は消えない。人間から噂を奪うことはできない。だが噂が、人の人生を即座に壊す速度は落ちた。速度が落ちれば、人は息ができる。息ができれば、考える余裕が生まれる。
ある日、マリナが監査部の前でリュシエンヌを待っていた。「ねえ、これ……書き方、見てくれる?」
差し出されたのは、小さな相談票だった。内容は些細だ。寮の当番の押し付け合い。以前なら、仲間外れや悪口に発展してもおかしくない。
リュシエンヌは票を受け取り、淡々と確認した。「“いつも”って書いてある。いつからいつまで?」
マリナが慌てて言う。「えっと……多分……」
「多分は、相手を傷つける」リュシエンヌは言った。「思い出して。日付と回数。自分の行動も書く。あなたが何を言ったか。何をしなかったか」
マリナは顔をしかめた。「面倒だね」
「面倒だから、守れる」リュシエンヌは小さく言った。「簡単な正義は、簡単に人を壊す」
マリナはしばらく黙り、そして笑った。「あなた、やっぱり怖いって言われるの、分かる気がする。でも……私は、今の言い方の方が好き」
リュシエンヌは、ほんの少しだけ口元を緩めた。「それなら、良かった」
監査部の窓の外で、春の光が揺れていた。世界は相変わらず不条理で、噂は尽きず、誰かは物語を欲しがる。けれど、少なくともこの学園には、紙がある。紙は万能ではない。真実を保証しない。だが紙は、誰かが誰かを勝手に悪役にする速度を落とす。
リュシエンヌは書類棚に新しいファイルを差し込んだ。背表紙には小さく書かれている。
——「是正:断罪未遂案件(大広間)」
それは過去の記録であると同時に、未来への釘でもある。忘れれば、また繰り返す。残せば、少しだけ違う。
彼女は机に戻り、次の相談票に目を通した。淡々と、しかし確かに、自分の選んだ役割を果たすために。
そして心の中でだけ、静かに結論を置いた。
この世界で一番怖いのは、断罪ではない。
書類不備でもない。
——“誰も、確認しようとしないこと”だ。
だから彼女は今日も確認する。
息ができる世界を、少しずつ増やすために。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
断罪も婚約破棄も、感情で盛り上がるときほど、
実は「確認されていないこと」が多いのではないか――
そんな小さな違和感から、この短編は生まれました。
書類は万能ではありません。
真実を完全に保証するものでもありません。
それでも、誰かを一方的に悪役にしないための
「ブレーキ」にはなり得ると思っています。
派手なざまぁも、劇的な勝利もありませんが、
少しだけ息がしやすくなる結末を目指しました。
楽しんでいただけたなら幸いです。
ここまでお付き合い、ありがとうございました。




