果て地
「アル様……」
どこの国かも分からない、果てしなく連なる山々の奥深く。人の足音など久しく絶えたその場所に、ひっそりと小屋が建っていた。
外は嵐。雷鳴が峰を震わせ、黒い雲が山肌を覆い、冷たい雨が降り注ぐ。凍てつくような寒さだった。
対照的に、小屋の中は静かで暖かかった。部屋の中心で僅かに揺れる蝋燭の光と、暖炉の炎だけが光源だ。時より、カーテン越しに雷の青い光と音が部屋に差し込む。しかし小屋の中は依然として静かで暗い。
バチバチと音を立てて、火の粉を少し散らせながら燃える暖炉の前に、一つの使い古された椅子があった。木製の簡易的なものではなく、革張りで、中には羽毛が詰まった仕立ての良い椅子だ。
その椅子には一人の女性が座っていた。病的なまでに白い肌と趣味の悪いゴシック調のメイド服が特徴的だ。彼女の膝の上には幼い少年が身を預け、ゆったりとした姿勢で暖炉の炎を眺めていた。
彼女は、少年の頭を優しく撫でながら、膝の上に広げられた本を静かに読み聞かせている。
毎晩、彼女は少年に物語を語っている。読み聞かせる本は日によって違い、できるだけ同じものは選ばないようにしていた。同じ本ばかりでは、知識も経験も広がらない。だからこそ、彼女は毎晩、少年のために新しい物語を探し、選び、語ってきた。
けれど今夜だけは違った。彼女が読み聞かせているのは、少年が何度も「もう一度」とせがんだ、大好きな一冊だった。何度も読んだ。何度も語った。それでも少年は飽きることなく、ページの一つひとつに目を輝かせて物語に思いを馳せる。
彼女は知っていた。この物語が、少年にとって特別な意味を持っていることを。だから今夜だけは、例外を許した。知識や経験よりも、心に寄り添う時間を選んだ。
「アル様」
「なにーー?」
本を語る手を止めて、彼女は一度少年に語り掛ける。
「私は、上手くやれていたでしょうか」
そう呟いた彼女の顔を、少年は本から目を離して見上げた。
まだ幼き少年には、その言葉の意図を測ることはできなかった。しかし、不安そうな表情を浮かべる彼女を見て、何かを言わなければと思い口に出す。
「……僕は、レイリャさんのこと大好きだよ?」
「ふふ……それは」
純粋な想いを受けて、彼女は笑う。
口元がわずかに緩み、柔らかな笑みが浮かぶ。すると少年の頬に何かが落ちた。それは白い粉のような、破片のようなもの。しかしアルは気にしていない。
「笑った!」
「……ふふふ。そうですね。笑ってしまいました」
彼女が笑みを深めるたびに、白い破片がぽろぽろと落ちていく。《《彼女の顔》》が崩れて行く。
少年の目に映る、彼女の顔には穴が空いていた。頬や鼻の一部が欠けて、右目に至っては無くなっている。その奥に見えるのは血でも肉でもない。ただ、虚空が広がっていた。
当然だ。彼女は機械。マリオネットなのだから。
「アル様は、一人でも生きていけますか」
「ふん。侮らないでよ。僕はレイリャさんにたくさん『生きる術』を教わったんだから、一人でも生きていけるよ!」
頬を膨らませる少年に、女性は笑いかけた。
「なら……私がいなくなっても大丈夫ですよね」
「……それは、違うよ」
「……」
「一人で生きていけるからって、一人で生きたいわけじゃないよ……」
「知っていますよ」
「じゃあ――」
彼女はただ少年に笑いかけるだけだった。
こうされると、少年はもう何も言えない。
(ああ……ヨナ様……私は役目を果たせたでしょうか)
マリオネットはゆっくりと目を閉じて、主人を思い出す。
(いえ……違いましたね)
彼女はもう一度、目を開けて少年を見た。もう、視界は朧げで少年の姿はぼんやりとでしか見えない。膝に乗る彼の体重を感じることも、できなくなってしまった。こんな状態でも、こんな状態だからこそ、さいごは彼を見ていたい。
虚ろな目を向けるマリオネット。少年はその瞳を覗き込む。
もう何も映らない。少年の姿が反射しているだけ。
「じゃあ今日は、僕が読み聞かせる番だね!」
少年は少しの間、無言で目を合わせた。そしてゆっくりと前を見て膝の上に開かれた本を見る。
息を吸って、ページの左端から読もうと口を開く。
同時に、後ろから声が聞こえた。小さく、掠れた声。
「愛しております。アル様」
アルは口を開けたまま息が吸えず、吐くことも出来ずに固まった。口はプルプルと震え、本に小さく書かれた文字が揺らめいて読めなかった。
「うん……僕もだよ……」
彼女が後ろで微笑んだような気がした。
ゆっくりと時計が止まっていく彼女の膝の上で少年は本を読む。永遠にこの物語が終わらないで欲しいと願いながら。