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ディアマンテ王宮恋物語

導きましょう、死の運命から幼馴染を救う婚約破棄を〜転生した庭師、気まぐれに伯爵様を籠絡してみました〜

作者: 藤咲紫亜

 エレオノーラ・シレアは難しい選択を迫られていた。

 ここは『ディアマンテ王宮恋物語』という乙女ゲームの世界だ。魔法が存在する西洋風の世界で、『聖樹』と呼ばれる樹を育てながらディアマンテという王国の王宮で繰り広げられる恋模様を楽しむことができる。


 自分がこの世界に転生したと知ったのは、ゲームの始まりでもある、ベルナルディ伯爵家で開かれた舞踏会の日だった。

 それまでは、自分はただの男爵家の令嬢だと思っていた。


 舞踏会の始まりに、幼馴染のクラウディオ・ベルナルディが差し伸べてきた手のひらの上に自分の手を載せた瞬間、前世で夢中で攻略したディアマンテ王宮恋物語の記憶が一度に蘇って、ベルナルディ家の大広間でうずくまってしまった。


「エレオノーラ?」

 心配そうなクラウディオの声が落ちてくる。

「気分でも悪いのか?」

 エレオノーラは傍らに膝をつくクラウディオを見上げる。


(———ああ)


「少し休むか?」

 エレオノーラはぼろぼろと涙をこぼした。

「……エル」

 クラウディオはハッとして、エレオノーラを周囲の目から隠すように腕を回した。


(どうしたら貴方を)


 クラウディオに手を引かれ、庭園に連れ出されたエレオノーラは、彼にされるがままに涙を拭われた。

 それでも涙は後から後からこぼれ落ちる。


「何かあったのか? 公衆の面前で泣き出すなんて、エルらしくもない」

 子供をあやすような声で尋ねるクラウディオを見て、エレオノーラはもっと泣きたくなった。


(どうしたら貴方を救えるだろう)



   ☆☆☆



 『聖樹』は、ディアマンテ王宮の庭にあり、ゲーム開始時には幼木だが、ゲームが進むにつれて成長し、やがてこの国に精霊達の恵みを与える大樹となる。ディアマンテ王宮恋物語の主人公(デフォルト名アリーチェ)は、その『聖樹』の育成を任される。


 ディアマンテ王国には、火・水・地・風の大精霊に愛された四大貴族が存在する。

 ベルナルディ伯爵家は水の精霊に愛された一族で、クラウディオの別名は水の伯爵だ。


 若くしてベルナルディ伯爵家を継いだクラウディオは、小綺麗な顔にすらりとした体格、人懐っこく明るい性格で社交界でモテモテの貴公子だ。

 しかしエレオノーラの前世の記憶によると、クラウディオはこの先、派手な女性関係が災いし命を落とすことになる。


 クラウディオの婚約者フィオレンティーナ・ヴェントが、彼の浮気癖を許せず伯爵家の庭園で彼を暗殺する。


 このクラウディオの運命を変えられるのは、主人公のアリーチェだけ。庶民の出のアリーチェに恋した水の伯爵クラウディオは、彼女を一途に愛してフィオレンティーナとの婚約を破棄し、死の運命から逃れることになる。


 そのはずなのに、どうもおかしい。

(アリーチェが王宮に召し上げられるきっかけになった、昨日のベルナルディ伯爵家の舞踏会。あの場にアリーチェがいなかった)


 アリーチェに出会わなければ、クラウディオは死んでしまうのに。


「何をしてるのかしら……」

「ほっかむりしてクワ持ってるエルこそ何してんの?」

「わ! クラウディオいつからそこに?」


 自分の家であるシレア家の庭で、エレオノーラは土いじりに精を出していた。畑の隅で物想いにふけっていたのだが、クラウディオがいつの間にか隣にいた。

 クラウディオとエレオノーラは、お互いの母親達が親友の縁で昔からよく一緒にいる。


 しかし“エレオノーラ”という名前は、前世の記憶には無い。

 つまりゲームで特に描かれないほどの、或いは出ても名前がないほどの、モブ中のモブのキャラクターなのだろう。


「昨日舞踏会で突然泣き出したと思ったら、今日は農民ごっこ? 乙女心は難解だなぁ」

「これは……必要があるから、仕方なくよ!」

「ほぉ、どんな必要?」


 エレオノーラは、じとっとした目でクラウディオを見た。

「そんなに熱く見つめないでおくれエレオノーラ」

 クラウディオが無駄にオーラをキラキラさせる。

(ふざけてる)

「あのね、この顔は『どうせ言っても分かんないだろうな』って呆れてるの!」


(ああ、ダメだ)

 頼みのアリーチェが居ない以上、自分が行動するしかない。クラウディオを死なせたくなければ、エレオノーラがクラウディオを『落とす』しかないのだ。


 実はエレオノーラの前世の推しは風の侯爵だった。大人の余裕があって、けれど心を許した人間には少年のような顔を見せる彼のことが好きだった。


 水の伯爵クラウディオは全キャラクリアを目指す上で仕方なく攻略したに過ぎない。四大貴族エンディングなんて物もあったから。


(落ち着いて。クラウディオの好みは大体覚えてる)

 クラウディオは浮気性な自分と真逆で、国王から任された『聖樹』の世話に一生懸命なアリーチェに心惹かれた。


 四大貴族がこのゲームで重要となってくるのは、この『聖樹』の成長に火・水・地・風の四大精霊の力が欠かせないからだ。


 クラウディオが殺されてしまうのは、ゲーム終盤で『聖樹』が花を咲かせた直後。つまり『聖樹』が花を咲かせるまでに、クラウディオを落とすのだ。


 化粧や服装に凝った、恋愛に積極的な女性達と何度も浮き名を流してきた水の伯爵クラウディオの本当の好みのタイプは、意外にも———


「そういえば、今日は髪を結んでないんだな。化粧だってしてない」

 クラウディオが不思議そうな顔でエレオノーラの髪を一房掬う。

「……恥ずかしいから、そんなに見ないで」


(貴方は)

 エレオノーラはクラウディオから慌てて顔を隠すように目線を逸らした。

(8人いる攻略キャラクターの男性達の中で一番、素朴で奥ゆかしい女性を好むのよ)


 背伸びをしない、素直で飾らないありのままのアリーチェを、ゲームの中のクラウディオは深く愛した。


「何か懐かしくていいな。そういうの、けっこう好きかも」

 ズキン、と何故かクラウディオの言葉にエレオノーラの胸が痛む。


「ひょっとして『聖樹』関係?」

 クラウディオが尋ねる。

 近々、『聖樹』の世話を任される娘が貴族の令嬢達の中から選ばれる。

 ゲームでは、王宮庭園にたまたま居合わせた庶民のアリーチェを『聖樹』が選び騒然となった。


「いやでも、ほっかむりって……形から入りすぎでしょ。応援はしてやるけどさ」

 クラウディオは笑いを堪えながら言う。

「クラウディオ。私はどうしても選ばれなきゃいけないの」

「……そっか」


 クラウディオは片手の手のひらを上にして、空に掲げた。

 直後、柔らかく繊細な雨が降り始める。

(これは……)

 水魔法。水の一族にしか使えない魔法だ。


「エルには水の精霊が付いてる」

 温もりを感じる心地良い雨の後に、七色の透明な橋がかかる。

「頑張れ」

「……うん」


 雨と同じように優しい笑顔を見せるクラウディオ。

(これは気まぐれ。そう。気まぐれなの)

 エレオノーラは自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。


 遊び人のクラウディオ。女性相手なら誰にでも優しく、甘い言葉と笑顔を振り撒く彼を、前世のエレオノーラは好きではなかった。

 女性は誰だって、自分だけを見ていてほしいし、愛してほしいものである。


 ひとしきりエレオノーラをからかった後、クラウディオはひらひらと手を振って去っていった。

 彼は今夜も、どこかの令嬢の屋敷に遊びに行くのだろう。


(アリーチェ)

 彼女がいたら、全力でクラウディオとくっつくように応援するのに。

(本当に? 本当に私は、クラウディオとアリーチェの恋を応援するの?)

 クラウディオが夢中になったアリーチェが現れないことに、どこか安堵している自分がいる。


 『聖樹』に選ばれる娘の資質がどんなものか、エレオノーラは知らない。けれど樹と言うからには、植物の知識が必要になるのではないか。

 この日から、エレオノーラの猛勉強が始まった。

 


   ☆☆☆



「……なんてこと」

 『聖樹』の世話をする娘。『聖樹』に選ばれる娘。

 クラウディオを救う、アリーチェが選ばれたもの。

 エレオノーラは選ばれなかった。


 エレオノーラがよく知るディアマンテ王宮恋物語でアリーチェを選んだ『聖樹』は沈黙し、国王がその娘を決めた。

 選ばれたのはエレオノーラでも、勿論ここに居ないアリーチェでもない、どこかの見知らぬ令嬢だった。


 ここ数週間、エレオノーラは庭の木や草に触れる日々で、白かった肌は日に焼けていた。

 夜遅くまで植物の本を読み、それぞれの植物の特徴を覚えた。前世でも植物を育てるのが好きだったから、植物に関する知識だけなら他の令嬢達には負けていなかったはずだ。


(なのに)

「まーそう落ち込むな」

 エレオノーラが落ち込んでいる本当の理由を知るはずもないクラウディオは、明るく声をかけてくる。


「エル。ベルナルディ家の庭園の管理をするのはどうだ?」

「え……」

「『聖樹』の世話ほどの名誉は無いかもしれないが、今ならこの水の伯爵とのティータイムが付いてくる」

「や……やる! 是非やらせて!」

(なんたって、クラウディオの暗殺現場はベルナルディの庭園なのよ)

 そちらに手を回して置くのも大事だろう。


 こうして私、エレオノーラ・シレアは、ベルナルディ家の特別庭師に任命されたのだった。



   ☆☆☆



 ベルナルディ家の庭園で木々の様子を調べるエレオノーラを屋敷の窓から眺めて、クラウディオは苦笑いを浮かべた。

 彼女は最近、よく髪をまとめず背中に流している。そうすると幼い頃の彼女を思い出す。

———「大人になったら、僕と結婚してくれる?」

 きっと彼女は覚えてすらいない。



   ☆☆☆



 四大精霊の力で、『聖樹』は順調に成長していた。

 エレオノーラはクラウディオの屋敷の庭園を見廻り、庭にある有毒植物を取り除く作業を続けていた。クラウディオが殺害されるのはこの庭園で、彼は毒で殺されるのだ。危ないものは消しておきたい。


 クラウディオは相変わらず、華やかな貴族令嬢達の間を蝶のように飛びまわっていると噂を聞く。

 エレオノーラはだんだんクラウディオと茶を飲むのがつらくなってきていた。


「クラウディオ。フィオレンティーナ様との婚約がまとまったと聞いたわ」

 クラウディオは飲んでいた紅茶のカップを受け皿に置いた。悪戯がばれた子供のように軽く笑う。

「そっか、知られちゃったか」


「どうして……」

「母親の強い薦めで仕方なく、だ」

 ズキリと胸が痛む。

(フィオレンティーナ様は貴方を殺すのよ)

 その言葉を飲み込んで、エレオノーラはクラウディオに告げた。


「クラウディオ。浮気はダメよ」

 クラウディオは目を丸くする。

「何、急に」

「急にでも何でも。今後はフィオレンティーナ様以外の女性と関係を持っちゃダメ」


 エレオノーラはクラウディオを落とす自信が無くなっていた。

 アリーチェはクラウディオに婚約を破棄させるほど愛された。


(でも私には無理。きっと無理)

 今のエレオノーラは、クラウディオにとってはただの茶飲み友達だ。茶飲み友達としてのアドバイスしかできない。


 クラウディオは困った顔をする。

「悪いけど、エルにだけは口を出してほしくない」

「なっ……」

(フィオレンティーナ様に恨まれて、殺されてしまうのに?)


「このままフィオレンティーナ様以外の人と付き合ったら絶対後悔する。貴方の身に良くないことが起きる」

「庭師ごっこの後は預言者ごっこ? 勘弁しろよ」

 クラウディオは軽く笑って視線を逸らす。


「……お願い。フィオレンティーナ様を悲しませないで」

「考えすぎだよ。こういうのは貴族社会ではよくあることだ。フィオレンティーナだって分かってる」


 エレオノーラは必死に言い募った。

「違う! フィオレンティーナ様は貴方のこと、本気で……」

 その先の言葉が、喉が詰まったような感じがして言えない。何故だか、どうしても言いたくない。


「約束して! もう浮気はしないって。他の女性の所に行かないって!」

「エル!」

 クラウディオは珍しく厳しい表情を浮かべていた。

「これは俺の問題で、エルには関係ないだろ」


「関係なくない! お願い、フィオレンティーナ様が……」

「もういい加減にしてくれ!!」

 クラウディオの怒鳴り声に、エレオノーラはびくりと震えて口をつぐむ。彼が声を荒げる姿など見たことがなかった。


「フィオレンティーナフィオレンティーナと、俺の気持ちはどうだっていいのか!? エル、どうしてお前が嫌だからじゃないんだ!!」

「何を……」

(クラウディオは何を言ってるの?)


「気分が悪い、俺は帰る。お前ももう二度とここに来るな」

 エレオノーラは呆然として、立ち去るクラウディオの姿を見送った。



   ☆☆☆



 王宮庭園の『聖樹』の花が咲いた。

 王国は喜びに沸き、エレオノーラは絶望した。クラウディオとフィオレンティーナの婚約は解消されていない。


 クラウディオは水の伯爵として『聖樹』に水の加護を与える最後の役目を果たして、夜に屋敷に戻り———フィオレンティーナに殺される。


 エレオノーラはじっとしていることができずにベルナルディの屋敷の庭園に来た。

 クラウディオには『二度と来るな』と言われたものの、庭師しか通れない扉の鍵は持っていたし、幼い頃から屋敷をお互いに行き来した仲だ。忍び込むのも隠れるのも簡単だった。


 庭園を管理するための鋏や土や肥料などが置かれた管理小屋の中で息を潜める。

 クラウディオがここに来るまで、まだ少し時間があるはずだ。


 ディアマンテ王宮恋物語でクラウディオの生命を奪ったのは植物の毒と言われていた。

 おそらく、屋敷の庭園にあったオリアンダー。エレオノーラが前世で住んでいた国ではキョウチクトウと呼ばれていた植物だ。細長い葉で、白やピンクの美しい花を咲かせる。


 とても丈夫な植物だから、前世でも公園や個人宅の庭によく植えられていた。だがこの植物は、葉も花も枝も、植えられた土にすら猛毒を有する非常に危険な植物だ。その毒は人や動物を死に至らしめる。クラウディオは何らかの方法で、このオリアンダーの毒を摂取させられてしまった。


 ベルナルディ家の庭園にこのオリアンダーがたくさん植えられているのを知った時、エレオノーラはゾッとした。そして一本も残さず、土ごと捨てさせた。


 オリアンダーが使えなければ、フィオレンティーナは別の策を用意するだろう。


(でも、さっきからするこの匂いは何……?)

 肥料でも土でも無い、鼻をつく異様なにおいが小屋の中に漂っている。


「……あぁら。思ったより早く来たのね」

 ゾッとするほど低い女性の声が耳元で生まれ、エレオノーラはバッと振り返った。

 そこにいたのは、宵闇に紛れるような濃い色のドレスを着た美しい女性。


「ふふっ……聞いたのよ。クラウディオ様のお屋敷に出入りする庭師の女がいるとね」

「もしかして、フィオレンティーナ様……?」

 女性は微笑むだけだ。


「クラウディオ様は、私を見てくれない。本当はこの庭園のオリアンダーを使って自然に……周りに疑われない方法でクラウディオ様に復讐をしようと思っていたの。でも潜り込ませた使用人に聞いてみたら、オリアンダーは全て庭師の女に捨てられたと言うじゃないの」


 誰に聞かせるでもなく、独り言のように呟く女性。

「許せなかった。庭師の分際でクラウディオ様の時間を誰より奪うその女が。婚約者の私ですら忙しさを理由に相手にされないのに」

「え……」


「だから、消そうと思ったのよ」

 フィオレンティーナはマッチを取り出すと迷わず火をつけた。

「待っ……」

 その細い手から床へと火のついたマッチ棒が落ちていくのが、エレオノーラには酷くゆっくりに見えた。


「ふふふふふっ、あーはっはっはっは!!!」

 狂ったように笑い、フィオレンティーナは踊るように小屋の扉から出ていく。

 マッチ棒の火は床に撒かれていた油に引火し、瞬く間に小屋中に燃え広がりエレオノーラを取り囲んだ。


(これはまずい)

「けほっ……どこか、火がないところは……」

 前世の知識で煙を吸わないように体勢を低くするが、それでも火の熱さからは逃げられない。


 煙が充満して前が見えないせいで、方向感覚も分からなくなってくる。

(どうしてこんなことに)

 熱さと息苦しさでクラクラする中で、エレオノーラの頭に最後に別れた時のクラウディオの姿が浮かんだ。


 喧嘩別れだった。二度と来るなという彼の言葉に従っていれば、エレオノーラがこうして火に巻かれることもなかったはずだ。


(どうして。クラウディオ)

 何故彼は女性関係を断つことができなかったのだろう。

 そういえば、クラウディオの女性関係が派手になった理由があったはずだ。

(確か)


———「好きだった幼馴染の女の子に」


 エレオノーラは前世で読んだその一文を今さら思い出して愕然とした。

「……クラウディオ」

 エレオノーラは朦朧として、床に倒れ込んだ。

(貴方が死んだのは私のせい?)


「エル!!!」

 よく知る声で呼ばれたエレオノーラは、ぼやけた視界の中で声が聞こえてきた方を見た。


 炎の中からキラキラ輝くヴェールのような物をまとった人影が現れる。ヴェールは炎を弾く水精霊の力だ。

「……ラ、ゥディオ……」

 喉まで焼けるように痛い。


「エル、死ぬな!!」

 駆け寄ってきたクラウディオはエレオノーラを片腕で抱きかかえながら、もう片方の腕で炎に手を翳す。

 すぐに水精霊が集まり、襲いかかってくる炎の前に水の壁を作ってくれる。

 途端に熱さが和らいだ。


 しかし炎は既に小屋の梁や天井を舐めるように燃やし始めていた。このままでは小屋が崩れてしまう。

「炎の勢いが強いな。エル、少し息を止めてろよ」

 早口で言われ、エレオノーラが慌てて息を止めると。


 ゴォオォオォ!!


 という音と共に、クラウディオとエレオノーラを中心に水の渦が発生した。

(水の……竜巻!)

 触れる全ての物を根こそぎ薙ぎ倒し押し流すような威力の、圧倒的で暴力的な水の流れ。


 ぎゅっと、クラウディオがエレオノーラの身体を強く抱きしめていてくれる。

(炎が———水に飲み込まれていく)


 やがて水が消えた時、周囲には黒々と焼け焦げた小屋の残骸が水に濡れ、月の光を反射していた。


「もう少しだったのに!!」

 金切り声をあげたのは、小屋が焼け落ちる様子を近くで見ていたクラウディオの婚約者、フィオレンティーナだ。


「フィオレンティーナ……水の伯爵の最愛の者に手を出したことを後悔してもらおうか」

 怒りに染まったクラウディオのその声を、エレオノーラは驚きではなく、『やはり』と言う気持ちで聞いていた。


 フィオレンティーナは悔しげな顔で逃げるように立ち去る。

(あの人もまた、傷つけられた人には違いないのに)

 エレオノーラは苦い気持ちになる。


 ディアマンテ王宮恋物語の中で、アリーチェと恋仲になる直前のクラウディオは彼女に懺悔をするのだ。


———「好きだった幼馴染の女の子に、手ひどく振られたんだ」

———「以来、彼女のことを必死で忘れようとして……沢山の女性を傷つけた」


 水の竜巻が止んでもエレオノーラはクラウディオの胸に顔を埋め続ける。

 身体がぐったりしてもいたが、そうしなければ真っ赤になった顔を見られてしまいそうだったからだ。


「エル。こっちを見ろ」

「……」

 クラウディオはため息をつく。

「こっち見ないと色んな場所にキスをする」

 言われて、焦ってクラウディオの顔を見る。


 クラウディオはホッとした表情を浮かべた。

「火傷してないか? 怪我は?」

「大丈夫……」

「さっき王宮から帰ってきたら、フィオレンティーナがお前を殺してやったと叫んでて……寿命が縮んだ」

「クラウディオ」

「うん?」

「ごめん」


 クラウディオは一瞬言葉に詰まった様子だったが、気まずそうに微笑んだ。

「あー……今、俺また振られた?」

「え」

「違うの?」

(あの時は、ただ殺されてほしくない気持ちでいっぱいだったけど)

 エレオノーラは申し訳ない気持ちになる。

「クラウディオのお付き合いは、確かに私が口を出して良い話じゃなかった。思い出したの」


 先を言おうとしたエレオノーラの唇を、クラウディオがウィンクをしながらそっと人差し指で押さえる。

「俺がエルを好きだったこと?」

 コクリ、とエレオノーラが頷くと、クラウディオは頭をかいた。


「格好つかないことに」と前置きして、彼は言葉を選ぶように視線を迷わせた。

「今でも忘れようとしても忘れられないんだ、エル。どんな美女と出会って恋をしてみても……エル以上には想えない」


 幼い頃の会話をすっかり忘れて、クラウディオの女性関係に口出しをしてしまったのは無神経だったとエレオノーラは反省した。


 何年も昔のことだ。エレオノーラの現世の記憶。

———「大人になったら、僕と結婚してくれる?」

———「私、風の侯爵様が好きなの。クラウディオじゃない」


エレオノーラは転生後、記憶が無くても風の侯爵に何となく惹かれていた。クラウディオがどんな覚悟で告白したかも想像できず、幼いエレオノーラは無邪気に答えた。



「今もエルの一番は俺じゃない?」

 クラウディオは寂しげな瞳でエレオノーラを見た。

 エレオノーラはクラウディオを抱きしめた。

 背の高いクラウディオの、ちょうど心臓の位置にエレオノーラの耳が当たる。


(……生きてる)

 彼の少し速い鼓動が聞こえてくるのが涙が出るほど嬉しかった。

(クラウディオの暗殺を回避できた)

 ほう、と長く安堵の息を吐く。


「エル。俺これ以上くっついてると風の侯爵にエルを渡したくなくなる」

「クラウディオが良い。誰にも渡さないで」

 クラウディオが息を呑む気配がしたが、それがエレオノーラの答えだった。


 現世において、エレオノーラにとってクラウディオの存在は無視できないほど大きくなっていた。特別だった。

 彼が殺される運命が見えた時、胸を引き裂かれるような痛みで涙が止まらなくなるほど。


 クラウディオを見上げると、潤んだ瞳で頬を撫でられた。

 その手を握ってまっすぐ彼の目を見て言う。

「私は誰のところにも行かない。だからクラウディオも、私以外の誰のところにも行かないで」

「待ってこれ夢かも。だってあのエルが。ねえ大丈夫? 俺本当に離さないよ? エルをずっとここに置くよ?」

「庭師として?」

「庭師兼恋人兼夫人として」

「ちょっと欲張りすぎじゃない?」


 ククッと笑う水の伯爵クラウディオ。彼は飾らない、素直な心を好む。

「クラウディオ、好き」

 クラウディオの胸に額を当てて、ため息をつくようにエレオノーラが言うと。

「俺も、世界で一番エルが好き!」


 クラウディオはエレオノーラを抱きしめ、「幸せすぎて死んじゃいそうだ」と狂おしそうに呟いた。


 後日、フィオレンティーナ側から婚約解消を申し入れる書状がベルナルディ家に届いた。プライドの高い彼女は、クラウディオの方から婚約破棄を告げられることが耐えられなかったのだろう。


 クラウディオは周囲に多くを語らず、自分はフィオレンティーナに見限られた男として振る舞った。

 正直、クラウディオは恨まれて当然だとエレオノーラは思う。


(ただお茶を飲んでいただけとは言え、婚約後なのに私とも二人きりの時間を楽しんでいた訳で……)

 幼馴染とはいえ。庭師とはいえ。エレオノーラがフィオレンティーナの立場なら傷つく。


 だからこそ、フィオレンティーナの面子を守ったクラウディオを、エレオノーラは評価した。

 そして、一年間の恋人禁止期間を作った。

 クラウディオもエレオノーラも、一年間は恋人のように振る舞わない。婚約も当然その先である。


 それまでは———庭師と、雇い主として。


 私はゲームの主人公のアリーチェのように『聖樹』に選ばれなかった。なれたのは庭師だった。それでも大事な人の運命を変えることができた。


「エル。今日は何を植えるんだ?」

「スイカよ。夏に向けて、グリーンカーテンを作るの。涼しくて、緑が綺麗で、食べられる。一粒で二度も三度も美味しい」

「エルみたいだな。大好きな幼馴染で、頼れる庭師で、可愛い恋人で、綺麗な奥さん」


 そう言いながら顔を寄せてくるクラウディオを遮るように、エレオノーラはシュパッと両手で壁を作る。

「後ろ二つはまだ!」

「ちぇ」

(油断も隙も……)


 水の伯爵家、ベルナルディの屋敷の庭園からは、毎日のように仲睦まじいおしゃべりが聞こえてくる。


 遊び人クラウディオは、フィオレンティーナとの婚約を解消した後はパタリと女性達との関係を切った。

 そしてクラウディオとエレオノーラは夫婦になった後も、二人で土いじりをする習慣が無くなることはなかったという。

最後までお読みいただきありがとうございました。

心揺らす物語を……といつも考えながら書いておりますが、クラウディオのような男性の擁護は難しかったです。

何か少しでも心に触れるものがありましたら評価やリアクションで教えていただけますと、大変嬉しく思います。


8/30追記 こちらの後日談&another storyとして、「眠れぬ侯爵様に捧ぐ、猛き竜も眠らす子守歌〜死にたがりの転生悪役令嬢は風の侯爵に拾われ王宮に返り咲く〜」を公開いたしました。side:フィオレンティーナの物語です。ご興味がありましたら、こちらもどうぞお読みください。

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