02.会社勤めさんたち
上司が異動になった。
合わない人間だったから正直ほっとした。
彼は40代前半の私より少し年上で、悪人とまでは言えなかったが、常に上から目線で、何かにつけて自身の安全マージンを確保し、保険を掛けながら話すような人だったので、あまり親しくしたいと思える人間ではなかった。
その上司は業務にも常に消極的で、自分から何かをしようとせず、仕事をせき止める人だった。
それで部下が困ろうが知らん顔、といったありさまで、社内の相談窓口メール宛に二度、部署や業務内容が合っていないのでは、と愚痴めいたメールを送ったことがある程度には、彼の仕事ぶりも好きになれなかった。
女子受けも悪かったらしい。目つきが嫌らしいとかなんとか。
こうして異動となったからには「代理人」から相応の評価を受けたということだろう。
ありていに言って胸がすく思いだが、明日は我が身と引き締めていかなければ、私だって息子の幼馴染と似た末路をたどる可能性があるだろう。
息子の幼馴染の件は、父の立場としてはどうかとも思うが、私にとっても実にタイムリーな出来事ではあった。
息子の気持ちを思えば腹も立つが、私たち親子の反面教師になってくれたこと、またその後の彼らを待つ境遇を考えれば腹立ちは紛れなくもない。
今、息子が友人たちの話を笑顔でしてくれていることを嬉しく思う。
だが、家族旅行の行先は京都だ。譲る気はない。
ぽかんと空いた元上司の机をちらりと目に入れ、心に浮かんだ感慨と並行しながら、画面を見つめ、手を動かし、書類データを作成し、メールの文面を考える。
業務量を逆算して、自身のタスク消化は定時に間に合う目途が立ったため、一息を入れて飲み物を買いに席を立った。
定時を過ぎると「代理人」がうるさいのだ。
近くのデスクでは、まだ若い整った顔立ちの後輩(男)が泣きそうな顔で携帯端末で何事かを説明している。
内容は聞こえないふりをしたほうがよさそうだ。
飲み物を買い、気分転換にテラスへ出て外の空気を吸い込む。
私の他にもちらほらと同じように休憩に来ている人たちがいる。
固いベンチに腰を掛け、眼下の背の低いビル群を見下ろし、遠くの山並みを眺めながらコーヒーをちびちびやっていると、「隣、いいか?」と別部署の知人から声をかけられた。
異動させられた元上司は、役職を剝奪され、数日前からこの知人の部署へ異動したと聞いている。
彼の部署は社内外の意見の集約と調整を担っている。
場合によってはクレーム処理も含まれるため、元上司の人間性ではかなり苦労することが予想できた。
「代理人」からは成長を期待されているのだろうが、彼の年齢から考えても、その期待に応えられるかは疑問だ。
私の隣に座った知人から、予想を大きく外さない元上司の愚痴をひとしきり聞かされ、「それで結局、そっちの部署で何があってあいつはうちの部署に来たんだ?」と質問される。
私は、どこからどこまで話すべきか考えを巡らすために、再び遠い大きな山並みへと目線を戻した。
◆◆◆
彼女の「持ち物」は非常に立派な山並みであったが、私の右腕に押し付けられて大きく形が変わっていた。
暴力的と言ってもよいほど濃密で甘い香水の香り。
掠れた甘い声が耳朶をうつ。
まったく不快ではなく、なにより右半身の感触が素晴らしい。
つい先ほどまで業務計画の会議中であったはずだった。
今回、私が初めてこの会議の担当になったのは、「代理人」から会議担当者を持ち回りにするよう指示があったからだ。
この二週間に一度の会議は、他社との共同業務における業務計画の進捗確認と、それに基づく業務分担の見直しをその都度行うものであり、本来は上司の業務だ。
皆がこの「代理人」の指示を訝しがり、邪推した。上司の日頃の行いが察せられる。
いざ持ち回りでこの業務を担当するとなると、負荷がなかなかに高い業務だったので、それによる残業も予想された。
余計に定時退社に重きをおく「代理人」の指示にしては「おかしいな?」と思われたが、あの上司が行っていた業務だったので、なんだかんだで誰でもできるだろう(笑)と思われ、「各人の経験の共有と視野の向上を目的として」と「代理人」直々に指示が下れば、否やはなかった。
この指示が下った時、上司は苦いものでも飲んだ顔つきだった。
「代理人」が口出しをしたということは、上司の能力や部下への指導が不足と判断されたということだから当然気持ちよくはないだろう、と私は考えていた。事実、これに限らずあらゆる面で能力も指導も不足であったのは確かだ。
だがどうやらそれだけではなかったらしい。
持ち回りに変わってから初めてとなる、二週間前の会議の担当は後輩だった。
彼は優秀で顔立ちも整っていたので、女子社員に人気があったが、上手に手を抜く上、失敗は他人のせいにする傾向があったため、男性社員からは受けが良くなかった。
ニヤニヤしながらその会議から戻った彼は、すぐに上司から呼ばれて2人で何やら打ち合わせをしていたが、後に配布された資料によれば、進捗は順調で業務配分の変更は無いようだった。
上司が業務提携が始まった最初期に配布した資料(二度目の会議以降は口頭で「変更なし」と伝えるだけだった)よりもはるかによくできた分かりやすい資料だったため、誰も疑問は挟まなかった。
そして今日の会議の担当は私だと会議開始の二時間前に上司から連絡があり、内心で悪態をついた。
私を含めた皆が、自分以外の誰かが担当なんだろうと思って確認せず、油断していた。
前回の会議担当者だった後輩は「資料とかぶっちゃけいらなかったっすよ。ラクショーっすよ」と言ってニヤニヤしていた。
アホ上司からの連絡がギリギリなのは実によくあることなので今更何も言わず、慌てて最低限の資料を間に合わせて先方へメールで送信し、会議に臨んだ。
今考えれば、アホ上司に慣らされて何も思わなかったが、先方からも何の返信も、事前連絡も、資料配布も無かったことに違和感を感じてもおかしくなかった。感じたところでどうしようもなかったわけだが。
時間通りに会議室へ赴いたが、誰もおらず、タブレット内の資料を頭にいれながら待っていると、五分ほど遅れて、可愛らしい若い女性が「遅れてすいませーん」と甘ったるい声と共に現れた。
先方の担当者はずっと変わっていないと聞いていたので、若い方が来たのに少し驚いたが、こう見えて優秀なのだろうと思いなおした。
私はできるだけ丁寧に、優しい表情になるように努力しながら、気にしていない旨を伝えた。
彼女は一瞬、虚を突かれたような表情で目を真ん丸に開いたが、すぐに元の愛らしい表情に戻った。
正面に座った彼女は自身のタブレットを操作していたが、「あれえ?」と首を傾げた。
どうやら彼女のタブレット内に私が送った会議資料が見当たらないらしかった。
私から再度送信すると伝えると、「こうしたほうがいいですう」と言いながら私の右隣の席へ移動して距離を詰めてきた。バニラのような甘い香りが私を包んだ気がした。
私は戸惑ったが、正直に言って悪い気はしないどころか、いやその、まあうん。
それから一台のタブレットを二人で覗き込み、十五分ほどかけて、なんとか私の部署の進捗状況説明を行った。
改めて資料を精査すると、当社の分担がやや高めに感じられたので、その交渉を行おうと考えていた。
立派な山並みが私の右肘を時折、ぽよん、とつっつくのに意識を持っていかれながらも、私は頑張った。けれどもう疲労困憊である。ここまでで正直もうヘロヘロだった。
彼女にプレゼンをバトンタッチしようとしたのだが、私の顔を覗き込んで、にまー、と笑った彼女は「ちょっと休憩しましょー?」と言って、私の右手指に彼女の左手指を絡めてきた。自分の体温が上がるのを感じた。
「そちらの上司さんが決めた内容で今までべつに問題もないみたいですし、今の業務配分でいーんじゃないでしょうか?」
という彼女の声が耳のすぐ傍で聞こえる。
あー、いやあ、けどねえ、となけなしの抵抗をしようとする私の声に被せるように、ふよん、たゆん、と私の胸に重みが掛かった。
「わたしぃ、実は年上のかたが好きなんですう」
と耳元で囁きつつ私の首をかき抱いた彼女は、ぷるんとした唇を私の頬にふんわりと押し付けた。
「んふ、可愛い」
続けて耳たぶをはむっとされる感触。私の首を舌が這い、いつの間にかシャツのボタンがいくつか外されている。引っ張られた私の右掌には、素晴らしく柔らかく重い、お山が乗せられている。
……うんまあ、今のところ誰も困ってないしちょっとくらい良い思いしてもいいんじゃないかなあ!
その時、打ち合わせ机の上に置いた私の携帯端末が鳴動した。
背筋が冷えてピンと伸びる。
あの独特な振動パターンはつい最近も聞いた。「代理人」だ。
脳裏に、息子が休日に幼馴染を当家のリビングへ招く際に一瞬見せた、苦い表情を思い出す。
キッチンから覗き見る般若のような妻の顔も。
涙を呑んで、断腸の思いで、しぶしぶながら素敵なお山から手を離し、彼女の体を引き剝がして、会議の仕切り直しを告げて会議室を出た。
出る間際にちらりと見た彼女の顔は、「O」を三つ書いた埴輪のような顔をしていて少し可笑しかった。
会議室を出た私は手洗いへ行って、鏡で身だしなみを確認して、外されたボタンを留め直し、頬の口紅をぬぐい取った。
そして部署へは戻らずテラスへ出た。休憩時間ではないので人は少ない。
部署に戻れば前回の後輩と同様、上司に個別で呼び出されると分かっていた。
その前に少し落ち着いて考えたかった。
推測だが、彼女は自身の評価のために、自社の業務量を減らそうとし、上司は色仕掛けを(恐らく)嬉々として受け入れて当社の不利益を見逃した。
この社会で評価は大事だ。上昇志向の強い人間なら、いかなる手段をも用いて評価を上げようとする。A級市民は無理でも、少しでも上の等級に上がるために。たとえその手段がいささか感心できないものであっても、成果を出せるというだけで等級が上がることは広く知られている。
あのアホ上司たちはそれ以下だ。
これまで、会議のたびに接待でも受けている気分だったのだろうか?
後輩もあのニヤついた顔を見るにアホ上司と同じ選択をした。
確かにこれを見逃したところで、うちの部署には大して関係ない。
実務を担う部署が、少しだけ多く働くだけで、実務部署では働いた分だけ給料は増える。
後輩が作った資料に不審点はなかった。アホ上司はともかく後輩に能力があるのは確かだ。方向性はともかく。
あの彼女の「接待」に価値を見出した気持ちだってよく分かる。
だが―――。
それに今、上司と一対一で話をして、何をどう話す? この場を誤魔化してもまた会議は行わなければならないのだ。すぐにアホ上司には今日の顛末は伝わるだろう。
あのアホ上司が保身のため、私だけが彼女の「接待」を受けたことにされる可能性は?
私が先に社へ不正を訴えたとしてその証拠は?
アホ上司と後輩は業務分配のミスがあったことだけ認め、その点だけ謝罪されてそれで終わりか?
そして、その後の私の部署での立場は?
冷たい外の風がまだ火照っていた頭を冷やし、これからどうするかを考えたが、妙案も浮かばなかった。
上司のほうが当然ながら社内では権力があり、私よりできることが多く、私より守られているのだ。
私は腹を括って「代理人」に相談することにした。
最後の手段と言っていい。
「代理人」は恐ろしい。
「代理人」の線引きはまったく分からない。
伝え聞く話を総合しても、あまり判断に一貫性がないのだ。
私は「社会に対してどのくらい貢献が見られるか、将来性を含めて判断する」のが彼らの基準だと思っている。
私がアホ上司に劣っている気はさらさらないが、後輩はどうだろう?
「アホ上司+後輩」と「私」を天秤に乗せた時、「代理人」はどう判断するだろうか?
だが、背に腹は代えられない。
震える手で携帯端末を取り出し、つい先ほどの着信に返信する。
相談したいことがあります、と「代理人」に宛ててメッセージを飛ばすと、「代理人」からはすぐに返信があった。
私はゆっくりと説明を始める。「代理人」は時折質問を挟む。
説明が終わってから、「代理人」からの沙汰を待った。
『代理人の判断をお伝えします』
その日のうちに上司の異動が「代理人」から関係部署に通達された。
上司は怒り狂って私の名を呼び散らかしていたと後から聞いたが、私は「代理人」の指示でその日は早退させられていた。
後輩の名前も叫びながら「なんでてめーは異動じゃねーんだ!」とか「牌」とか「π」とか、いろいろ叫んでいたらしい。
翌日、出社すると、もう上司の机はきれいに片付けられていて、以後彼と会うことは二度となかった。
一連の流れについて質問攻めにあった私は、同僚たちに「あの上司はなにがしかの供与を受けて、自社に不利な状況を見逃していた」とかなりぼかして話した。私は相手担当者については性別すら一切話さなかったが、どうも別の同僚は相手担当者を見たことがあったと後で聞いた。
それ以降、後輩は女性社員から冷たくされているようで、小さくなっていた。
会議で私を誘惑しようとした他社の彼女はどうなったのだろうと思ったが、知るすべはなかった。
だがもう会議に彼女が来ることはないんだろうなと、少しだけ淋しく思った。
◆◆◆
テラスで話しかけてきた他部署の知人には、彼女と後輩のことは一切省いて伝えた。
そうすると驚くほど語ることが少なくて、ただの元上司の愚痴になった。
互いに苦笑して別れ、それぞれの仕事に戻った。
このあと、私は昇進した。
居なくなった元上司の後釜に座った形だ。
他部署との業務配分の会議は、私と新しい担当者(42歳男)とでやり直し、慎重に話し合った結果、当社の配分が引き下げられた。
「あなたの評価に影響しませんか?」と恐る恐る尋ねたら、彼は「会社からの評価のために、よそに負荷を回してうちだけ定時あがりしたら『代理人』に叱られますよ」といって笑った。
前担当者は退社したらしい、と彼から聞いた。
この業務のために発生してしようとしていた残業はなくなり、全員がいつも定時に帰れるようになった。
また、さんざん元上司の連絡不足に苦しめられていたので、報告・連絡・相談を徹底するように皆に伝え、私が率先して実践したら、驚くほど業務が円滑に回るようになった。
情報共有ができてきたおかげで、場合によっては優秀な同僚が先回りして仕事をやってくれるようになり、依頼した時には業務が終わっていることすらあった。
部署の皆から感謝されたが、良いことばかりではない。
後輩は退社した。
ある日、急に社に来なくなり、一か月後に「代理人」から退社する旨を伝えられた。
あれ以来、女性社員からは冷たい目でみられ、男性社員からは元々あまり好かれていなかったため、いづらくなったのだろうと思っていた。
後日聞いたが、気の毒に思ったらしいある女性社員が後輩をメッセージで励ましたところ、粘着されたため通報したそうだ。
元上司のことは分からない。
さらに異動して別の部署へ行ったことは知人から聞いた。
知人の部署でも残念ながら性格は変わらなかったらしく、トラブルを理由に飛ばされたのだそうだ。
同時に、元上司から若い女性へのセクハラ報告が徐々に増えていっていたため、男性だけの職場への異動となったらしい。どんな職場なのだろうか。
その先は伝手が無くて辿れなかった。
結果、二人が抜けることになったわが部署には新人が配置された。
「今日からよろしくおねがいしまーす」
若くて可愛くて品よく香水をつけた立派な山並みの新人は、甘ったるい声であいさつした。
男性社員はスタンディングで超歓迎し、女性社員は舌打ち一歩手前の様子だった。
「はじめまして、せーんぱぁい」
にまー、と笑いながら私に挨拶してきた彼女は、皆が驚くほどに優秀で、なんだかんだありつつも女性社員とも打ち解けてあっという間に部署に溶け込んだ。
化粧品+スイーツ+αの情報提供が秘訣だそうだが、私に真似はできそうにない。
プライベートでは男性社員を軒並み玉砕させているらしいが、愛嬌があり、要領よく仕事をこなし、誰もが認めざるを得ないほど真摯に業務に打ち込んでいた。
女性社員が聞き出したところによると、最近いろいろあって「代理人」をリスペクトしているらしい。
その立派な山並みで、周囲に分からないように私をぽよん、とつついて、にまー、とするのを止めてくれたら最高の同僚なのだが。
それもこれも「代理人」からの試練だろうと真摯に受け止め、息子の幼馴染と同じ轍を踏まないよう、妻に洗いざらい打ち明けて最近のぽよんとした悩みや愚痴を聞いてもらった。
この点だけは息子の幼馴染のおかげで対応を間違わずに済んだと思う。反面教師さまさまである。
ちらっと般若が見えた気がしたが、気のせいだったようで、晩酌に付き合ってもらったり休日にデートに行ったりすることが増えた。
そして、息子に妹ができました。
<終>