人を殺してしまった聖女と、何故殺したと問う聖女の妹の、結局聖女って一体なんやねんっていう話
かつ、かつ……と、私のヒールの音が聞こえた。
ほう、と、私――ノエル・ハーパーは詰めていた息を吐き出した。
思わず震え上がるほどだった。
陽の光が届かないから、だけではない。
生命の活力や、希望や、人の心の源泉となるなにか。
ここにはそれがまるっきり感じられない。
人という存在を根本から否定するような、石と闇で作られた檻。
その取り付く島もないような拒絶の意思に構成された匣。
それが私から体温を奪っていたのかも知れない。
とにかく、思わず震え上がるほどに――この牢獄は寒かった。
「ノエル、ノエルね?」
凛、と、暗い牢獄に声は響き渡った。
姉様の声――と直感した私は、反射的にそちらを振り向こうとした。
「お願い、ろうそくの灯りをこっちに向けないで」
燭台を向けようとすると、姉の声を発した「それ」はそれを拒否するようにそう言った。
「もう長い間光を見ていないから。私にはその光ですら強すぎるの」
ごくり、と、私の喉が動いた。
口中の唾をかき集めて、からからになった喉に飲み込んだ。
そうして、ようやく私は声を発することが出来た。
「アリシア……お姉様」
私がそう言うと、闇の向こうに霞んだ姉が言った。
「久しぶりね、ノエル。少し声に張りがないわ、疲れているんじゃない?」
まるで昨日会ったかのような、軽い口調だったのが、私には恐ろしかった。
姉であるアリシアと再会するのは三年ぶりのことだったし、こんな普通の挨拶を交わすような状況下でもない。
何しろここは王都一の厳重さを謳われる牢獄の最奥部で、姉はその中でももっとも厳重な牢獄に勾留されていたのだから。
私は、燭台の光に気をつけながら姉を見た。
姉はどうやら椅子か何かに座らされたまま拘束されているらしく、その両手両足には黒光りする鉄の枷ががっちりとはめ込まれていた。
彼女が拒否したため、燭台で顔を照らし、表情を伺うことは控えた。
ろうそくの灯りがゆらゆらと揺らめき、時折彼女の鼻から下だけを朧気に照らし出した。
一時間だけだ、と私は頭の中に繰り返した。
婚約者である第一王子経由で嘆願に次ぐ嘆願を続け、一年がかりでなんとか面会を許してはもらえたものの、その時間は一時間だけと決められていた。
それ以上の時間を過ごすようなことがあれば、おそらく私にまで何らかのお咎めが来るに違いない。
だから不要な会話や雑談は極力省き、私が訊くべきことだけを訊き出さねばならないのだ。
だけど――三年ぶりに聞く姉の声は、あまりにも普通で――。
私は一瞬、私たち姉妹の間に、特に姉のアリシアが起こしたことが、何かの間違いでは無いのかと思った。
もしかして彼女が起こしたと言われることは全くの冤罪で、あの優しく、賢かった自慢の姉は今頃牢獄で無実を叫んでいるのではないか。
私はその可能性を考えていた――否、その可能性に賭けていた、と言ってもよかった。言ってもよかったのに……。
「姉様――顔をお見せください。お願いですわ」
「残念だけどそれは無理ね。私はもう一年もここに勾留されているわ。もうあなたの知っているアリシアじゃないかもしれない。あなたを失望させたくないの」
アリシアは淡々と告げた。
その言葉は、妹を思う姉の言葉にも、民を思いやる聖女アリシアの声とも、どちらともつかなかった。
「――お姉様、単刀直入に訊きますわ」
私は震える声で言った。
「どうして――あんなことを?」
私が問うと、アリシアはくすくすと笑った。
「どうして?」
面白可笑しそうにそう言って、アリシアはしばらく笑い続けた。
私にはそれが――どうしても狂人の笑い声にしか聞こえなかった。
「私は聖女アリシア。私はその力で民を護り、その祈りで民を救うことこそが使命。私は聖女の仕事を果たしただけよ」
「そんな……! 姉様はあんなことをする人じゃない!」
私は大声を発してアリシアを見た。
アリシアの口元は――歪められていた。
「姉様、私、姉様を信じていますわ! 姉様にかけられた嫌疑は濡れ衣で、姉様は無実なんだと! 今、国中でその証拠を集めています! もう少し時間はかかるだろうけれど、今に必ずこんな牢獄から姉様を救い出して――!」
「ノエル、私は自分のしたことを後悔していないの」
アリシアは、はっきりとそう言った。
その言葉に、私は言葉を失った。
「ノエル、何度も言うけれど、私は正しいことをしたの。今のこの状態も、いわば私から望んでこうなったことなのよ。後悔なんかしないわ」
アリシアの声は、淡々としていた。
私は既に涙さえ流しながら姉を見ていた。
「そんな――あの事件は、姉さんが、本当に……?」
私が訊ねると、アリシアの唇から笑みが消えた。
「――あなたには私が何故あんなことをしたのか、きっとわからないでしょうね」
姉さんは小さい頃から綺麗で、賢かった。
どんくさくて、頭の悪いいじめられっ子の私を、よくかばってくれた、自慢の姉さんだった。
異常なほどに優しい性格で、人の気持ちをよく考え、世のため人のために生きることを喜びとしていた。
そしてその聖なる魔力の強さは、その噂を聞きつけ、王都から聖女として召し出しに来た神官すらも驚愕させた。
そう――王宮に聖女として召し出されるよりもずっと前から、姉さんはこの世の誰よりも聖女だったのだ。
だから――私は信じられなかった。
「わかりません。だから――この場に真実を聞きに来たんです」
私は震える声で問うた。
一年前――ほんとうに姉さんが、東のヴァロア村の村人を皆殺しにしたのですか? と。
◆
ヴァロア村――それはこの王国の遥か東にあった辺境の村だ。
聖女が祓うべき瘴気が強く、魔物が跳梁跋扈し、作物もあまり育たない困難な土地。
しかし人々は魔物に怯え、飢えに苦しみ、瘴気に身体を蝕まれながらも生きていた。
その数、約六百人――。
その村が、一夜にして壊滅した。
たった一人、三年前にその村に派遣され、瘴気の浄化と魔物の討伐を命じられていた聖女アリシアを残して。
急を聞きつけてやってきた王都からの部隊は、そのおびただしい村人たちの死骸の山を前に、戦慄に立ち尽くした。
女子供の見境もなく、まるで眠っているかのように息を引き取った村人たちの顔はどれも穏やかであったという。
それはまるで人間が消失し、代わりによく出来た蝋人形にすり替わったかのような有様で、救援に駆けつけた兵士たちの恐怖をさらに煽った。
そして、村に唯一ある教会の中で。
唯一の生存者――聖女アリシアは、折り重なる村人の死体の中にぽつんと座り込んでいたのだという。
疲れ切ったように、だが確かにやり遂げたというように、涙の痕がこびりついた頬を慈愛の微笑みに緩ませて。
聖女アリシアは、もはやどこを見つめてもいない視線で虚空を見上げたまま、やってきた救援隊の呼びかけにも反応しなかった。
だが、肩を叩かれ、やがてぼんやりとした視線でその兵士を見たアリシアは、あまりにも思いがけないことを言った。
これは、私がやったのだと。
ヴァロア村に生きとし生ける村民たちは、一人残らず私が殺したのだと。
最初にその供述を聞いた兵士の動揺と驚きは如何ばかりであっただろうか。
事実、その告白を聞いた兵士たちはとてもその言葉を信じられず、アリシアは拘束されることもなく、用意された馬車に乗せられて王都に帰還した。
だが、王都でも聖女アリシアは同じ供述を繰り返した。
私が殺した。
私があの村を全滅させた。
私があの村の人々を殺したのだ――と。
当初、王都は聖女の気触りを疑ったという。
それはあまりにも衝撃的で凄惨な事件であった。
あの日、唯一の生存者である彼女が一体何を目撃したのか。
当時まだ二十歳を数えたばかりの娘の精神が触れてしまってもおかしくない光景が繰り広げられた結果、彼女は壊れてしまったのだと、皆そう信じかけた。
だが、あくまでアリシアは主張した。
私の精神は正常であり、如何なる虚実も口にしていないと。
あの村人たちは、私の魔力で生命力を奪い、眠るように死に追いやったと。
そこまで疑うなら、村人たちの遺体を調べるがいい。
あの日、私が村人全員に施した聖なる魔力の痕跡が検出されるはずだから、と。
最初は半信半疑――否、聖女の無実を信じていた王都の魔術師たちだったが、実際に彼女の供述通り、村人たちの遺体から聖女の聖なる魔力の痕跡が検出されると、さすがに顔色を変えた。
これは彼女の供述通り、ヴァロア村の六百村民は、聖女アリシアがかけた聖なる魔法に生命活動の継続を断絶させられ死に絶えたとする報告書が王に提出されると、王は愕然とした。
何故だ、と王は聖女アリシアに問いかけた。
そなたはこの国の誰よりも清廉潔白で優しかった。
そのそなたが何故、何故無辜の民を皆殺しにしたのか、と。
王の下問にも、聖女はただただ微笑みを浮かべるだけだった。
私は聖女として正しいことをしたまでです――。
聖女の答えは、それだけだった。
王は、彼女の投獄を決定した。
国を庇護し、人々の希望となる聖女が起こした、あまりにも凄惨な事件。
それは正式に発表するにはあまりにもショッキングに過ぎた。
事態は捻じ曲げられて伝えられ、村人たちは様々な理由から濃さを増した瘴気に巻かれ、不幸にも死に絶えることとなった、という発表がなされた。
そしてその時、不幸にもヴァロア村にいた聖女もその瘴気に巻き込まれ、遂に力尽きたと、国民には伝えられた。
無論、事実ではなかった。
実際に聖女が派遣されていたヴァロア村の瘴気が、人々を惨たらしく死に至らしめるほど強くなることなどありえない。
瘴気を浄化するのが聖女の務めであり、その聖女がいる場所はこの国ではもっとも瘴気が薄まった場所でなければならない。
だから、あの日あの村で起きたことがいらぬ噂を呼んだのは事実で、口さがない国民たちは皆ヴァロア村の事を噂し合った。
あの村では危険な疫病が流行っていた、全員が強力な魔物に喰い殺された、いや、魔王が人々を全員魔界へと連れ去ったのだとさえ噂された。
だがその噂のいずれよりも、真実のほうが何倍も衝撃的だった。
何しろ、六百村民を虐殺したのが、その村民たちを守るために派遣されていた聖女なのであるから。
王都は聖女アリシアの真意がわからぬまま、彼女をこの国でもっとも警備が厳重な牢獄へと繋いだ。
瞬く間に約一年が経過していた。
◆
「ええ、事実よ。あの村の村人たちは私が殺した」
どくん、と、私の心臓が強く収縮した。
それなのに、代わりに私の頭からはすっと血が下がっていった。
「――嘘だと言って」
私は懇願するように姉に言った。
姉は、無言を貫いた。
「姉様、違うんでしょう? 本当はあの村で何があったの? 姉様はそんな事をする人じゃなかった!」
私の声が、涙で震えた。
「姉様は昔から優しかった! 人を殺したりなんかしないわ! ねぇ、そうなんでしょう!? 一体誰を庇ってそんな事を言っているの!? 私に話して!」
私はもはや正常に問いかける冷静さを失っていた。
わぁわぁと大騒ぎする度に、牢獄の壁に私の嗚咽が異様に反響した。
「ノエル、落ち着いて。私は誰も庇ってはいない。私は聖女としてあの村の人々を殺したのよ」
その言葉に、私ははっと息を呑んだ。
アリシアは、ふう、とため息を吐いた。
「……アリシア、違うの。あなたが誤解しているのは、私がしたことじゃない。聖女の義務について勘違いをしているの」
私は絶句してアリシアを見つめた。
アリシアは、静かに語り出した。
「ノエル、あなたは知らない。聖女とは一体なんなのか。あなただってあの時、私と同じ状況に置かれたら――あなただってきっと同じことをしたでしょう、聖女としてね」
一体何を……。
燭台の炎のゆらめきとともに、世界までもがぐらぐらと揺れたような気がした。
「ノエル、聞きなさい。一年前、村で何があったのか。あなたには――妹のあなたにだけは真実を話すから」
そう言って、アリシアは語り出した。
◆
ヴァロア村――それは東の山岳地帯にへばりつくようにして存在する寒村だった。
約三年前の春、聖女アリシアは村からの要請を受け、一年の滞在の予定で村にやってきた。
村は――アリシアの目から見ても、寂れていた。
山岳地帯であるために瘴気が濃く、一息吸う度に喉にちくちくとした不快感が残るほどだったという。
毎日毎日、魔物に喰い殺された死骸がどこかに転がっており、家族を失った村人の嘆きが途切れることがなかった。
瘴気に怯え、魔物に怯え、そして何よりも、貧しさと不作に苛まれた土地――それがヴァロア村だった。
そんなあまりにも恵まれない土地にあって、アリシアは一心に祈りを捧げ、結界を張って魔物の侵入を防いだ。
その努力の成果もあってか、アリシアがいる間、村の雰囲気は確実によくなり、少しずつではあるけれど活気が戻ってきていた。
だが――本当の敵は、まもなく現れた。
それが、二年前に王国を襲った飢饉だった。
既に数年前から冷夏が続き、麦や豆の収穫が激減していた。
そこにやってきた数度目の冷夏――とりわけその年の夏は、七月だというのに霜が降りるほどの寒さがあり、野菜や麦は全滅に追い込まれた。
瞬く間に、空前絶後の飢えが村を襲った。
畑は全て掘り返された。
地中に埋まっている種まで村人が食べ尽くしたからである。
次に、村から犬猫の姿が消えた。
人々が露命を繋ぐために喰い殺したのである。
赤ん坊の鳴き声が聞こえなくなった。
その殆どが口減らしのために川に投げ込まれたのである。
それでも、飢饉は治まってくれなかった。
弱いもの、老いたもの、若いものからバタバタと死に始めた。
国からの救済の軍勢や物資が来ても、焼け石に水だった。
山の生り物も芳しくなかったためか、それともありつける新鮮な肉が村に増えたためか。
魔獣がひっきりなしに村に降りてくるようになり、飢えて一歩も動けない村民たちを次々と殺めた。
村は、文字通りの修羅地獄と化していた。
だがアリシアは、何度も王都への帰還を促す要求を突っぱね続けた。
ここで村人たちから離れたのでは、聖女ではない――。
実に姉らしい決意とともに、アリシアは聖女として村を回り、人々を勇気づけ続けた。
◆
「――私は諦めなかった。私は祈りを捧げ、障壁を張って人々を護ろうとした」
アリシアは淡々と告げた。
「そんな中でも、私の食料だけは三度三度毎日届けられた。私はほとんど唯一、ヴァロア村で活動が可能な人間だった。パンを齧る度、毒みたいに苦く感じたわ」
アリシアは淡々と告げたのが恐ろしかった。
ではそれ以外の村人は――一体どんな状況だったのか。
疑問に思えど、私には問うことが出来なかった。
「人々は必死になって私に縋った。聖女様、どうかお救いください、どうか救いを――私はそんな声を聞くたびに自分の無力が腹立たしくて気が狂いそうだった」
アリシアは、そこで初めて感情が滲んだ声を発した。
姉は、昔から人々の幸せのためなら自分のことなど勘定に入れない人だった。
ヴァロア村でアリシアが感じた無力さ、絶望感は――如何程だっただろうか。
「でも――私の祈りは天に届かなかった。飢饉は去ってくれず、人々は相変わらず毎日死んだ。動けるものも少なくなってきた時――私の耳にある話が飛び込んできた」
話が、核心に入ろうとしていた。
◆
こんなに苦しいのならば、いっそ死のう――。
一体誰が最初に口にしたのか。
そう言い出す人々が現れ始めた。
いや、それは飢饉が発生したときから、村人たちの心の底にあったのかもしれない。
どうせこの飢饉を生き残っても、田畑は全滅した。
明日蒔く野菜の種さえ食べ尽くしてしまって、残されていないのだ。
それに、飢饉がなくても、魔獣は、瘴気は、聖女の力を以ても抑えがたい程。
さらに聖女の任期が切れて、聖女がこの村を去った後は――村はまた元の木阿弥だ。
圧倒的な絶望が、人々の心に火をつけた。
まだ動けるものから、人々は粛々と自分を死に追いやり始めた。
凄まじい飢餓感に苛まれた人々にとって、それは唯一残された安寧への道だった。
このまま、生きたまま魔獣の餌になるよりは。
いつか家族や親しい人間の死肉を齧る屍鬼になるよりは。
今、罪のないままに死のう。
村は地獄へ通ずる道を歩みだした。
◆
「私は村人を何度も諌めた。自殺だけはダメだと、何度も諌めた。村人には私の言葉は届かなかった。聖女様、お願いだから死なせてくれと、彼らは枯れた涙を振り絞って私に言ったわ」
私は、無言でいるしかなかった。
「自殺してしまった魂は女神の怒りを受け、来世に転生ができなくなる。そのまま地獄に落とされ、未来永劫灼かれ続けることになる――そう何度も私は諭した。お願いだから希望を捨てないで――私は私も信じていない希望を何度も何度も口にした。そう言うしかない自分が堪らなく下衆に思えた。私は――偽りの希望を繰り返すだけの嘘つきに成り下がっていたわ」
アリシアは悲しそうに言った。
確かに、この国の創造の女神を崇拝する教会は、自殺を最も許されない禁忌としている。
たとえその選択が、それ以外に選択肢のない状況下にあっても、自殺はいけないと――そう、一方的に定めているのだった。
「……私は女神様を恨んだわ。私にも、村の人々にも、そうするよりほか選択肢がなかった。一方的に飢饉という運命を与えておいて、自殺は禁じる。そして私にはあまりに絶望的な希望を何度も口にさせる――あまりにも酷な仕打ちだと思った」
既に姉の心は、自制心は、己がしたことへの悔悟の念と、己への無力感で焼き切れていたのかもしれない。
間違いなく感情の話をしているのに、その声が奇妙に淡々としていたのが、私にそんな想像をさせた。
「何日も悩んだわ。もうただ教会の中で祈りを捧げていればいい状況はとっくに過ぎていた。私に――何が出来るか。そればかりを考えて過ごしていた。それで――私は決心した」
はっ、と私は息を呑んだ。
その想像にがたがたと身体が震え、私は闇に包まれたままのアリシアを見つめた。
「まさか、姉さん……」
私が言うと、姉は決然とした声で言った。
「ええ、その通りよ。私は聖女としてできることをしようと思った」
◆
もしどうしても自殺をやめないというのなら、私があなたを殺します――。
ある農家を訪った時、思わずアリシアは口にしてしまっていた。
自分の口から出た言葉が信じられなかった。
己の中で固まっていた静かな殺意に、戸惑い、震えすらしたという。
だがその言葉に、首に縄をかける寸前だったその村人は――笑顔で跪いてしまった。
聖女様、おらをお救いください――。
村人の最期の言葉が、それだった。
もう、その他の選択肢はなかった。
アリシアはその溢れる魔力で、その村人に僅かばかり残されていた生命力を奪い去り――そして、安楽死させた。
最初の凶行は、すぐに終わった。
それから、アリシアの決心は固まった。
村の家々を回り、動けるものは教会に集めた。
動けないものは――その場で家族に判断させた。
教会に集まった生き残りの前で、アリシアはこう告げた。
「もはやこれ以上、生きていたくはないと思う人は残りなさい。私が責任を持って――女神様の御下へ送ります。だから、どうぞ自ら死ぬことだけはおやめください」
その必死の言葉に、なんと村人たちの殆どが笑顔を浮かべたという。
死にたくない、そんなことを言い出す人間は一人としていなかった。
これで救われる。
村人の誰もの顔に、そんな安堵が滲んでいたという。
「聖女様」
「救いの聖女様」
「どうぞおらたちをお救いくだせぇまし」
「聖女様に殺されるなら本望です」
「苦しくて堪らない、どうぞお早く」
「これでやっと終わるんだ」
「聖女様はやっぱりおらたちをお救いくださる」
「ありがとうごぜぇます、聖女様」
「聖女様」
「聖女様」
「聖女様」――。
村人たちは、次々と眠るように死んでいった――。
◆
アリシアはすべてを語り終えた。
私は――と言うと、何も言う事ができなかった。
ただ、私の心の中に立ち上ったのは――奇妙な納得だった。
ヴァロア村の凶行は、間違いなく聖女アリシアが起こしたことなのだと。
それだけは、私の心にはっきりと沈んだ。
「……聖女など、最初からいないのよ、ノエル」
アリシアは漠然とした疲れが残る声でそう言った。
「ただ女神様に祈っていれば傷が癒えて苦難が歓喜に変わる――そんなことは有り得ない。聖女は多少魔力を持っていても、本当の天変地異が起これば無力な人でしかない。問題は――そこで何を為すかなのよ」
アリシアは無念そうに、だが、やはり後悔などなさそうな声で言った。
「私のしたことは、きっと許されることではない。けれど、私は間違ったことをしたとは思っていない。いいえ、最初から誰も間違えることなどできなかった。最初からそれ以外に正しい道などなかったのだから」
言い訳ではない、事実を追認するだけの声でアリシアは言った。
おそらく、それは凶行の最中、何度も何度も齟齬がないか、アリシアが確認したに違いないことだった。
あのとき、アリシアが聖女として村にもたらすべき「救い」は、安楽の死よりなかったのだと――。
「聖女の使命はその祈りで人々を護ること。でも護りきれなかった時は? この世界に護りきれるはずもない人が存在しているという事実は? そんなことは最初から想定されていない。想定されていなかったから――私は聖女としてそうするしかなかった」
アリシアは無念さが滲む声で言った。
それでも――私にはわかった。
きっとこの事件は、誰も悪くないのだということを。
アリシアも、村人も、誰一人悪くはない。
ただ、正解がない問題だった――それだけのことなのだと。
「ノエル、これが私がヴァロア村でしたことの全てよ。これを口外するもしないもあなたの自由。ただ、私が自由になろうとなるまいと――もう二度と、聖女には戻るつもりはない。もしこの事を発表するなら、それだけは言っておいて」
長い長い話を語り終える口調で、アリシアは言った。
少し疲れたように、闇の中のアリシアが私を見たような気がした。
姉さん――。
私は、ずきずきと痛む心で、闇に包まれた姉を見た。
二年前、姉が見て、経験し、創り出した地獄のことを思った。
姉は、昔から自分のことは二の次の、異常なほどに優しい人だった。
その優しさが、その慈愛が、聖女の任の重さが、彼女を人殺しにしてしまった。
その事実は、一体どうやって姉の中で折り合っているのだろう。
そしてこれを知った人々は、姉を、聖女アリシアをどのように見るのだろう。
そう考えると、私はどうしても溢れてくる悲しさを止めることが出来なかった。
「こっちに来て、ノエル」
アリシアの静かな声に、私はやや迷ってから、歩を進めた。
漆黒の闇に危うく照らし出された顔を見ても、どこにも窶れや疲労はなかった。
否――最後に見た三年前から時が止まっているかのように、アリシアは全く変わっていなかった。
私は、椅子に拘束されたままの膝に頭を乗せた。
昔、甘えん坊で弱虫だった私は、よくこうして姉に甘えていた。
アリシアは私が泣き止むまで、頭を撫でてくれていた。
そう、アリシアは昔から優しかった。
それはそれは、異常なほどに――。
もし、と私は思った。
口を閉ざしていたアリシアに代わり、今私が聞いたことを発表して、アリシアが晴れて拘束を解かれる事があったとしても。
もう二度と、アリシアは元のアリシアには戻れないのだろう。
どんな理由があったにせよ、六百人の人命を奪った罪の重さは、生涯彼女を呪い続ける。
聖女という称号が――彼女を聖女とは正反対の、悪魔にしてしまったのだから。
「お姉様、ごめんなさい……」
私が言うと、声が震えた。
止まっていた涙が、私の頬を再び伝い出した。
「私があんな事を言わなかったら、お姉様を、聖女として身代わりに差し出さなかったら……」
私があの村で悪魔になっていた。
その事を思うと、私は気が狂いそうなほどの後悔の念が湧き上がってきた。
実は、聖女としての聖なる魔力は、彼女の妹である私にも流れていた。
けれど、幼い頃から身体が弱く、引っ込み思案だった私は――聖女になることを望まなかった。
そして姉は、アリシアは、どこまでも優しい人だった。
だから、妹の代わりに自分が聖女になると言ったのだ。
もしあの時、私が聖女になると言ったら。
姉が、私の代わりに手を挙げなかったら。
アリシアは――悪魔にならずに済んだのに。
きっと、私もその一人なのだ。
聖女であったアリシアを悪魔にしてしまったのは――私のせいでもあるのだ。
その後悔は、後から後から涙となって頬を伝った。
「泣かないで、ノエル」
アリシアは、私よりも悲しそうに言った。
どうして、この人はこんなに優しいのだろう。
身代わりで差し出された身なのに、どうしてなおも私を気遣うのだろう。
「……お姉様、私、お姉様の代わりに聖女になることを決めました」
はっ、と、アリシアが少し驚いたような声を出した。
「もちろん、周りには反対されるかも知れない。そう約束できるかどうかもわからない。でもあのとき、姉さんが私の代わりに聖女になってくれなかったら、きっと私がここに繋がれていた。そうでしょう? もう――私は聖女から逃げません」
「ノエル……」
「私、絶対にお姉様のしたことを無駄にしたくない。お姉様の判断が正しかったかはわからないけど――お姉様が手にかけた村人たちみたいな人をもうこの世に生みたくない。だから――お姉様の跡を継いで、私が聖女になりますわ」
私が言うと、アリシアは優しい声で言った。
「あなたがそう言うなら、私は止めない。きっとあなたなら大丈夫よ、ノエル」
もう逃げない。
聖女がたとえ聖女ではなく、悪魔の軛だったとしても。
祈りの届かない人々がこの世に生まれ続けるとしても。
私はきっと、もう二度と聖女から逃げない。
その静かな決意を胸に抱きながら、私はアリシアの膝の上で眠るように目を閉じた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
私事ではありますが、只今『がんばれ農協聖女』という作品を書いておりまして、それの「何かあった未来」版となります。
聖女ものを複数書いてるうちに「聖女って何やねん」と思い始めたら止まらなくなりまして。
もう聖女と聞いただけで笑いが止まらないような体質になってしまいました。
そんな中、ポッと思いついたやつを短編にしてみました。
面白かった、と思っていただけましたら、どうぞ下の評価から『★★★★★』とかで評価よろしくお願い致します。
【VS】
もしお時間ありましたら、これら作品を強力によろしくお願いいたします↓
どうかお願いです。こちらも読んでやってください。
『【連載版】がんばれ農協聖女 ~聖女としての地位を妹に譲れと言われた農強公爵令嬢と、聖女としての地位を譲られて王太子と婚約した双子の妹の話~』
https://ncode.syosetu.com/n6253gv/
『魔力がないなら風呂に入ればいいじゃない! ~魔力ゼロで追放された癒やしの聖女は、チートスキル【絶対温泉感覚:略して絶対温感】と天然かけ流し温泉で人々を癒やし倒します~ 』
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『悪役令嬢・オブ・ザ・デッド』
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