ヤンデレ包囲網
はぁ、とつかれた溜息を藤沢は聞き逃さなかった。
隣に座る田中は友人で、近頃疲れていそうだなとは思っていたが、露骨に溜息をついたのは初めてのことだったかもしれない。それでもあまり話したがろうとしない彼だ。黙っていてもおそらく助けを求めないだろう。そういう性分だと長い付き合いであるからこそ知っている。
やれやれと言いたげな苦笑で藤沢は質問してみた。田中は気のない様子で顔を上げると緩慢に口を開く。
「どうかした? ずいぶんお疲れだね」
「ん? ああ、まぁ……」
「昨日は眠れなかったの?」
「そういうわけじゃないんだけど、なんか……」
ふぅ、と重々しく息を吐き出す。
どうやらよほど大変な状況らしく、話すことに躊躇いが感じられる。他人に弱みを見せるのが嫌なのか、苦々しい顔で言うか言うまいかを悩んでいるようだ。
これは背を押した方がいいのだろう。藤沢は優しい声で問いかけた。
「言ってみなよ。解決できるかはわからないけど、言うだけで少しは軽くなるかもしれない」
「それ、よく聞くんだけどさぁ。いや、俺の勘違いかもしれないし、自意識過剰かもしれないし……」
「誰にも言ったりしないよ。僕が信用できない?」
「そんなことないけど」
「話してみて」
「うーん……」
優しい誘いであった。それが功を奏したのであろう。
おずおずと躊躇いを感じさせながらも田中が話し始めた。珍しい態度なのは間違いなくて、しかしだからこそ自分のことを話すのが嬉しくも感じられ、藤沢は彼を不安にさせないよう柔和な笑みを浮かべて耳を傾ける。
くしゃりと自分の髪を撫でて、俯きながら小さな声が発される。
屋上には風が吹いていた。頭上には青々とした空と大きな雲が一つだけある。遠くからは校舎や校庭ではしゃいでいるだろう生徒の声が聞こえていて、あまりにも距離があるせいか、近しいものだとは感じない。普段から人の姿がない屋上は彼らにとって避難所のようであり、秘密基地のようでもあって、学校において唯一安堵できる場所だったのは間違いなかった。
「最近、人間関係というかさ、ちょっと困るなって思うことが増えてて」
「うん」
「それこそクラスの連中は、お前はモテていいな、って言うんだけど、俺は別にそう感じてるわけじゃないし、そりゃモテたいって気持ちもあったけど……今がモテてるんだとしたら、想像と違うなって思ってさ」
「そんなにモテるっけ? 生活、変わらないと思ってたけど」
ううむと唸る彼は複雑な胸中を上手く言語で伝えられないらしく、少なからずフラストレーションを抱えているようだった。自分は何を言っているんだろうという恥ずかしさが感じられて、だけど本気で悩んでいるから聞いてほしい、そんな救いを求める態度でもある。
敢えて急かすことはしなかった。説明するためには言葉を整理する必要があるのだろうと彼の心中を慮り、景色でも見ながら呑気に待つ。
藤沢の態度は彼にとっては有難かったようで、少しずつ整理していたらしい。
頭を抱えるようで、顔を隠すかのようにも見える田中は自らの顔に触れつつ、難しい表情で語る。
ここまで苦悩する姿を見せたことがない。基本的にはかっこよくありたいなどと願望を持っていた男だ。他人に弱みを見せないのも、悩みを打ち明けないのも、合コン紛いの同級生の集いを避けていたのも自らのイメージのためだ。それが崩れる様というのは、悲しげであると同時に面白くもある。藤沢がにこにこしていたのはそんな彼を見つめていたからに他ならない。
「何人か居るわけだよ。俺の中の問題を生み出す人間が」
「なるほど。できれば詳しく聞きたいな」
「別にいいけど、ひょっとしたら俺の自意識過剰な妄想かもしれない」
「わかった。そのつもりで聞いておく」
まるで怖がるかのような素振りだった。多くを聞かずとも繰り返し念を押すその佇まいから、恐怖に似た何かを感じ、色濃い不安を見た気がする。
それでも、否、だからこそ藤沢はわくわくしていた。
弱っている人間を見て楽しむ趣味はないが、彼に関しては別のようだ。普段は独特の強がりを見せる彼が、予想不能な事態を前にして戸惑っている。強く見せようとしたはずの自分が崩れたことにより本当の自分が垣間見える。想像よりずっと楽しいことだ。
導くように先へ促すと、これもまた普段とは違うのだが、疑問すら持たず文句の一つも言わずに田中が口を動かして、人はこうも変わるものかと感心する。
「何から喋ればいいのか……」
「時系列順でいいんじゃないかな? まず何が起きて、次にどうなったのか。それを続けていけば僕だって理解できる」
「思い出すのも楽じゃないけど。最初は多分、一ヶ月前。俺、告白されたんだ」
「そうなの? 初めて聞いた」
「言ってなかったからな」
「相手は誰? どうやって?」
「一年の時に同じクラスだった松井。どうやってって、それが問題で」
一瞬口ごもりはしたが、覚悟を決めて続きを口にする。
藤沢の態度は飄々としていてまるで彼の話に興味がないかのよう。それが良い影響を与えたらしく、深く息を吐き出しながらもやめようとはしなかった。
「指輪と婚姻届を差し出されたんだよ。あなたしか居ないんだとか言って」
「いきなり? わお」
「笑いごとじゃないぞ。ほとんど話したこともないのに」
「話したことないの?」
「ゼロじゃないけど、割と普通の子だと思ってたのに、特に好かれてる感じもそこまでなかったから驚いてさ。なんでそんなことになったのかもわからないし」
「面白そうな話じゃないか。続けて」
藤沢は興味津々という態度で顔を覗き込んだ。田中は喜んではいなかったが諦めているのだろう。多くを言わずに本題のみに集中する。
「よく話しかけてはくれるんだよ。でもいつからだったか、俺が好きってことしか言わなくなって、ほとんど会話ができないんだ」
「付き合ってるの?」
「付き合ってないよ。最初がそれだったからびっくりして、とりあえず待ってくれって答えたんだけど、諦めてないみたいで」
「アプローチが続いてるんだね」
「まぁ、そう言えばいいのか……初めて会った時からだ。俺のどこが、どれくらい好きなのかってことを三十分くらい説明されて。で、途中で止めたらその後手紙にして送られてさ。十枚以上あるんだけど二枚目の時点で俺の細胞がどうとか書かれてるんだよ」
「全部読んだ?」
「読めるわけないだろ。全部読んだら多分気が狂う。正直一枚目の時点で俺のことを言ってるのか疑問に思ってたし、別人みたいに思ってるけど」
「それなら読めるじゃないか」
「心はもう折られたよ」
あまり嬉しくなさそうだ、と表情を見て思う。モテることは念願だったはずなのにと思いはしても言わなかったのは、おそらく反論が来るだろうと予想して、面倒なやり取りを省略するためだった。
一度話し出すと躊躇いはなくなったのか、意外にも流暢に会話が続く。よほど助けを求めていたのだろう。絞り出すような声が印象的だ。
「まぁでも可愛らしいものじゃないか。好かれてるんだからいいんじゃない?」
「お前、見てないからそう言えるんだよ……」
「いいじゃないか。他は?」
先を促すと話し足りないのか、少し渋る様子を見せたが、中断はしない。田中は思い出しながらぽつぽつと説明を続ける。
「他は……先輩の前園さん。俺を好きでいてくれてるんだと思うけど」
「モテてるじゃないか」
「俺の周りの人間が殺されそうになってる」
「おや?」
「どうして私が居るのに他の女と喋るんだって。付き合ってないし、告白もされてないんだぞ? そりゃ、お世話になってるし、仲良い自覚はあるけど、まさかそんな風に思われてるなんて思ってなかった」
予想外だったと語る彼は決して喜んでいる様子ではなかった。
再び溜息をこぼして、その状況を思い出しているようだ。
「普段は優しいんだけど女の子が絡むとおかしくなる。一番目の敵にされてるのが松井で、この前はいよいよ掴みかかりそうになってた」
「修羅場だね。止められた?」
「なんとかな。でも先輩を羽交い締めにしたら先輩は喜ぶし、松井が怒り出すしでまた喧嘩になりかけて、もう……ハァ」
「ああ、大変そうだね。そんなことが繰り返されてるわけだ」
田中は頷き、力のない様子だが同意する。
「なんかこう、俺の周りで妙に殺伐としてて……」
「ははぁ、それで疲れてるんだ」
「それだけじゃなくて、後輩も居てさ」
「まだ面白い話がありそうだね。どんな?」
「簡単に言えばストーカーだよ。ほら、あっち」
そう言って田中が屋上の入り口に目を向けて、つられるように藤沢が同じ地点へ視線を送ると、扉の陰に隠れる女生徒を見つけた。長い黒髪で眼鏡をかけた、地味そうな見た目の少女が二人に気付かれたことを知り、にこりと笑って手を振る。しかし近付いてこようとする気配は皆無だった。
彼女の存在と一言だけで状況を理解できた。
人は見かけによらないものか、それともイメージ通りなのか。判断に困るところだが藤沢はなるほどと呟いた。
「すごくわかりやすい説明だったよ」
「そうだろ。四六時中ああだから」
「その先輩には目をつけられてないの?」
「つけられてるよ。でも近付いてくることがほとんどないし、今のところ害が無さそうだから放置されてる」
「ふぅん。意外に優しい、のかな?」
「さあ。俺にはもうわからん」
藤沢は件の後輩を確認した後、遠くを見つめる田中に視線を戻した。ずいぶんと疲れた様子で考えるのも嫌だと言いたげだ。さほど長い期間だとは思わないが本人の体感では違うのかもしれない。
「告白されてから一ヶ月くらいでしょ? ずいぶんやつれたね」
「一ヶ月で激変したんだぞ。なんで俺がこんな目に遭うんだか……」
「女性にモテるっていうのはきっとそういうことさ。良いこともあるだろうけど悪いことだってついてくる。物事は何でも表裏一体だ」
「いやいや、俺の場合は明らかに特殊なケースだろ。内蔵まで愛してるって言い出すとかワイヤーで首絞めようとするとか一日中監視されてるとか、そんなのが普通の女の子だったら俺は女性不信か人間不信になる……」
田中ががっくりと肩を落とした時、藤沢は笑みを浮かべたまま、上機嫌そうに背中をぽんぽんと叩いてやる。何も言わなかったが彼は癒されていたようだ。話すだけで気が楽になったのは間違いなく、弱みを見せた今は気分が違う。
少なくとも味方が居る。その事実だけは理解できた。
「なんか突然状況が変わったからな。これからどうなるのかわからない」
「そうかな。僕は一つ良いことを思いついたよ」
「何?」
「状況を変える方法、知りたい?」
問いかけると素直に頷いた。藤沢はにんまり笑う。
「僕と付き合ってみたらどうかな?」
「は?」
「君は普通の女の子に飢えているし、女の子を上手く扱う術も、守ってくれる誰かも必要としてる。条件に合うのは僕だと思うよ。僕なら君のことをストーカーより深く知っているし、他人を傷つける犯罪者同然の行動は取らないし、そんな人を止められる。そして君にプロポーズした子と比べるわけじゃないけど、僕だって君のことが好きだ。何か問題はある?」
田中は困惑している表情だった。眉間に皺を寄せて言葉を失ってしまう。
そんな表情を見ても藤沢は気にせず続ける。
「気持ちはわからないでもない。こんな口調だから、君は僕を女として見ていなかったんだろう。別に構わないと思ってたけど失礼な話だ」
「それは、その……性別くらいは知ってた」
「一応はね。でも意識はしてなかった。忘れてるのと同じようなものだよ。改めて言っておくけど僕が君を好きになったのは小学生の頃だ。中学や高校から好きになった他の三人とは違う」
初めて告げられた言葉だった。
常々大事な友人だとは思っていたが藤沢の気持ちに気付いたことはなく、あまりにも予想外ですぐに呑み込むことができなかった。
困惑する田中に藤沢は肩をすくめて見せる。
「ちなみに、その三人の背を押したのは実は僕なんだけどね」
「はぁ?」
「同じ男を好きになった女同士、全てとは言わないけどある程度気持ちがわかるから無視できなくて。まさかそんなことになってるとは思わなかったけど」
「なんでそんなこと……」
「大きな理由としては、困っている君が見たかったから、かな」
くすくすと笑う顔は満足そうで、全ては彼女の思惑通りだった、そう気付いた田中は見るからに嫌そうな顔になる。
「お前、やっぱり性格が悪いな。それでにやにやしてたのか」
「いっそのこと四人全員と付き合ってみる? ハーレムって男の夢でしょ?」
「そんなことしたら死人が出る」
「僕が説得するよ。その方が面白くなりそうだから」
「お前は……」
呆れた田中は思わず閉口する。
一体何がしたいのやら。そう思って言葉もない。
彼が黙り込んでも藤沢は気分を害すどころか、ますます嬉しそうに、そっと手を伸ばして田中の頬に触れる。
「君を幸せにできるのは僕なんだよ。誰よりも、一番に」
「それ、喜んでいいのかな……」
「もちろん。その証拠に」
ちらりと振り返った藤沢に気を取られ、田中はその視線の先を確認した。
いつの間にか三人の少女が立っている。にこにこと嬉しそうな顔、納得していない不満そうな顔、どうなるのだろうと不安が垣間見える顔が並んでいる。
果たして喜んでいい状況なのだろうか。
理解に苦しんだ田中は、何度目かの重々しい溜息をついた。