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Ordinary Days  作者: 早瀬 薫
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第九章

 「じゃ、また明日」と約束して帰った筈なのに、その後一週間経っても二週間経っても小夜子は図書館に現れなかった。彼女から送られてきたメールによると、二次試験の実技考査に必要になるデッサンがあまりにも難しく手間取っているらしい。僕もそろそろ図書館通いに飽きてきたところなので、土日の忙しい時だけ姉の店を手伝うことにした。僕の通う学校は公立だったせいか、アルバイトもバイクの免許取得も禁止になっている。アルバイトは家庭の経済的事情によっては許すと生徒手帳に書かれてあったので、もし万が一ばれた時には「家が貧乏だから」という理由で通すつもりだった。しかし、僕がアルバイトをする理由は他にもあった。僕がうっかり姉にプレゼントの中身について「あんな恥ずかしい物だと思わなかった」と申し立てたからだった。彼女は「そんなら金返せ」と一言言った。受験生にアルバイトをやらせるなんて、なんちゅう姉だと思ったが仕方がない。僕に残された選択肢は一つしかない。

 午前十時開店に合わせて、僕は初めて姉と一緒に電車通勤した。店に着いた途端、姉は奥からエプロンを持ってきて、僕に「付けろ」と言った。顔から火が出るくらい恥ずかしかった。学校の調理実習ではもちろんエプロンを付けたことはあるが、外で、しかも人前でエプロンを付けて「いらっしゃいませ」なんて言ったことはいまだかつて一度も無い。サッカー部のみんながこの格好を見たらなんと言うだろう? とりあえず目立たないように隅っこにでもいようと思っていたのに、姉は僕を店頭に近いレジに立たせた。

「あら、新米さん?」

 僕の他に雇われているパートのおばちゃんが出勤してきた。

「いえ、池田さん、私の弟なの。今週と来週の土日だけ来るから宜しくお願いします」

と姉は僕を前に押し出し、お辞儀をさせようと僕の後頭部を手で押した。

「宜しくお願いします」

「今、夏休みだから忙しいでしょ。観光客でいっぱいになるのよ。本当に助かったわ。分からないことがあったら何でも訊いてね」

「はい」

 店は小さい店舗だったが、美術館に隣接するショッピングモールの中に入っていたので、池田さんが言ったように思った以上に忙しく、午後七時に店を閉める頃にはくたくたになった。姉は来年からは商品開発部に転属になるらしいが、こんなことを毎日やっている姉と池田さんをなんとなく尊敬した。池田さんは店を閉めるなり「さあ、ご飯作らなきゃ」と急いで帰って行った。

「池田さんって偉いでしょ。私はあんなこと、絶対出来ない」

と姉が言った。僕も、「そうだね。世の中のお母さんて、ほんとに偉い」と言った。

 次の日の日曜日、店の混雑は物凄いものになっていた。それをなんとかこなし、へとへとになってウィークデーは図書館で勉強を続けた。その次の週も同じことを繰り返した。変化があったのは、バイト三日目の昼間のことである。昼食時になり、客が飲食店へと流れ出し、雑貨店の中の客の数がまばらになってきた頃だった。僕はほとんど客の顔を見ずにレジ打ちをやっていたので、人が近付いてくるのに気付かず、不意に声を掛けられて飛び上がった。

「頑張ってんじゃん」

「?」

 そろそろと顔を上げ、声を掛けた人間の顔を見ると弟の爾だった。

「お前、何しに来たんだ?」

「いやー、姉ちゃんから聞いてたから、見に来ようと思ってさ」

 爾はニヤニヤ笑って、僕のエプロン姿を上から下までジロジロと眺め回している。

「来なくていいよ」

「エプロン、意外と似合うね」

「ほっとけ」

 ふと爾の後ろから、見たことあるような無いような顔をした少女が恥ずかしそうに現れた。

「こんにちは」

「こ、こんにちは」

「兄ちゃん、俺の彼女」

「え、うそ……」

「嘘じゃないよ」

「お前、ガリ勉一筋の硬派じゃなかったのか? お前にこんな可愛い彼女がいたなんて!」

「言ってなかったっけ? 一ヶ月前から付き合ってるんだ」

「……あ、あの、姉がいつもお世話になってます」

「……?」

「兄ちゃん、こちら、汐見古都子さん」

「……汐見? もしかして、小夜子の……」

「ええ、妹です」

 どおりで見たことあるような顔立ちだった。顔の造作はほとんど同じだったが、古都子のほうが、少し背が高いようだった。それにしても、兄弟というものは女の子の好みまで似るものなんだろうか。しかし、小夜子は自分の妹の彼氏が爾だったなどと、一言も僕に喋ったことがなかった。メールでそのことを問うと、妹に彼氏が出来たことは知っていたが、まさか黎の弟だとは思わなかったので、自分も驚いたと返事があった。


 雑貨店勤務最終日の夕方、僕はふと気になって池田さんに時給がいくらか訊いてみた。池田さんの場合、五年勤務で時給九百二十円だということだった。休憩を除くと彼女は一日八時間労働で、日給が七千三百六十円だった。僕はうかつにも、一日働くとそんなに金が貰えるということを考えたことが無かった。四日で五千二百円なんて幾らなんでも安すぎるではないか、ただ働きもいいとこだ。池田さんの最初の時給は八百円からスタートだったそうだから、僕の給料は本来なら八百円×八×四=二万五千六百円の筈だった。それなのに、姉には僕に給料を渡そうという気配がまったく無い。僕はシャッターを閉めて帰ろうとする姉に「はい」と手を伸ばした。勿論、給料を貰うためである。姉は僕の掌をパシッと叩くと「そんなもんあるか」と言った。「詐欺!」と人目をはばからず大声で叫ぶと姉は血相抱え、「分かった、分かった、家に帰ったらあげるから」と言って僕の口を塞いだ。結局、僕が受け取った金は、小夜子へのプレゼントの金額五千二百円と四日間の昼食代(僕はてっきり姉の奢りだと思っていた)を引いた一万六千四百円だった。僕は一万円札を机の抽斗にしまい、残りを財布の中に押し込んだ。


第十章に続く

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