第八章
八月三日の午前九時、僕達は図書館の前で待ち合わせた。今日は珍しく僕のほうが先に図書館に到着していた。道の向こうから自転車を漕いでやって来た小夜子は、「遅れてごめん」と言い、自転車を駐輪場へ止めようとした。僕は「今日は違うんだ」と言い、「自転車で俺について来い」と言った瞬間、彼女が僕の自転車の荷台に飛び乗った。荷台に飛び乗ったかと思うと僕の胴に手を回してしがみついた。小夜子にそんなことをされたのは初めてのことだったので、急に心臓が早鐘を打ち出した。しかし、やっぱり見栄っ張りの僕は、素知らぬ風を装った。
「今日ぐらい、いいじゃん」
「ま、いいか。でもお前重いなあ。体重何キロあるんだ?」
「余計なこと訊くな! これでも痩せたんだからね」
「や、やめろ」
小夜子は後ろから僕のほっぺたをパチパチと叩いた。
僕達家族は、僕が小学四年生まで都内に居を構えていたが、父が介護士の資格を取ったことをきっかけに、かねてから両親の希望であった海の見える千葉の海岸沿いの小さな町に引っ越して来ていた。本当は、何やら二人の若い頃の思い出のあるらしい夕景の綺麗な安房崎近辺の神奈川に住みたかったらしいが、経済状況が許さなかったらしい。首都圏なのにのんびりした田園風景があちこちに残る千葉は、両親にとって念願の永住の地になったようだった。
図書館から自転車を漕ぐこと一時間、ようやく目的地に到着した。夏の容赦なく照りつける太陽光線を浴び、しかも後ろに小夜子を乗せての自転車旅行は、僕の体力を完全に奪い去っていた。いつもなら三十分で済むところ一時間もかかっている。小夜子は「飲む?」と言ってペットボトルのミネラルウォーターを僕にくれた。僕は五百ミリリットルを一気に飲み干した。
着いた場所は、海岸を真下に臨む小高い丘の上にある公園だった。僕は一番見晴らしの良い公園の突端に小夜子を連れて行くと、海を背にして彼女をベンチに座らせた。
「こんなんじゃ、海が見えないじゃん」
「いいから、いいから」
僕はカウントダウンすると、小夜子の身体の向きを海側に向けた。
「え、何?」
海を見ても何も無い。
「海じゃなくて下、下、海岸」
そこには、僕が昨日の夜、家をこっそり抜け出し、一時間掛けて流木と石で作った小夜子へのメッセージがある筈だった。しかし、波にさらわれたのか、その辺のクソガキが荒らして行ったのか、所々文字が欠けている。僕は慌てた。僕は彼女に「待ってろ」と言うと急いで海岸に下りて行き、欠けた字を埋め始めた。まったくもう、昔から肝心な時に僕はいつもこうだ。遠足や運動会の前日には必ず熱を出した。三十分経っても出来ないので、退屈した小夜子はいつの間にか公園から降りて来ていて、横で僕を手伝っている。彼女は完成した文字を大声で読み始めた。
タンジョウビオメデトウ サヨコ スキダ
僕は顔が真っ赤になった。最後の三文字は入れた覚えが無かった。彼女は裸足になりキャーキャー言いながら走り始めた。海水浴に来ていた人達は、何事かと僕達を振り返った。
「いいなあ、みんな。こんなんだったら、水着持って来るんだった」
小夜子は、周りを見回しながらうらやましそうに言った。
「そうだね、今度そうしよう」
「うん」
缶ジュースを飲み終えた後、僕は小夜子にプレゼントを渡した。姉の澪がみつくろったものだ。姉が家に持ち帰った時、すでに綺麗にラッピングされてリボンが掛けられてあったので、中を確認するのを忘れていた。彼女は包みを剥がして箱の中を覗くと「ありがとう!」と言った。それはピンクとライトグリーンのペアのマグカップと揃いのケーキ皿二枚だった。しかもマグカップと皿の縁には、一センチ弱のハート型のレリーフが線を描くように並んでいた。それが目に入った途端、顔から火が出るかと思った。僕は、文房具か何かだとてっきり思っていたし、まさかのハートマークだとは! くそ、姉貴の奴、こんなもん選びやがって! 死ぬほど恥ずかしかったが、小夜子は案外普通に喜んでいた。がしかし、カップを手に取りまじまじと見つめると、「なんだか女の子が選んだようなデザインだね」と言った。
僕はリュックの中からもう一つの包みを取り出すと「こっちのほうが本番だから」と小夜子に渡した。僕が編集録音したCD、「ロックンロール・愛の名曲集」だった。お決まりのビートルズ、ローリングストーンズから始まりダレン・ヘイズ、ワン・ダイレクション、アヴリル・ラヴィーンと来て最後はクイーンである。クイーンというと最近ではテレビドラマの主題曲やコマーシャルに頻繁に使われているし、オリンピックではお決まりのように「We Are The Champions」が使われていて、「一昔前に比べると知らない人はいないくらいに有名になってしまった」と何故だか残念そうな口調で父が言っていた。名曲が多いからなんだろうが、小夜子もクイーンくらいは知っていて、なんだかオペラみたいで好きだと言っていた。けれども僕が選んだ曲は、シングルカットにもなっていない、通でなければ知らない曲「You Take My Breath Away」だった。リードボーカル、フレディ・マーキュリーの男性ソプラノの美しい声と彼の弾くピアノの旋律が印象的な曲だった。これぞ、ラブソングの王道だった。
あまりの暑さにバテそうだったが、その日は一日海岸で過ごした。昼は海の家で焼きそばとかき氷を食った。午後からは木陰に入り、持ってきた英単語のドリルや日本史の資料集から問題を出し合った。たまに休憩を兼ねて、裸足で海に入って遊んだ。
夕方になると海水浴で賑わっていた海辺も人影が疎らになった。僕は小夜子と二人、並んで砂浜に座り、青から紫に変化していく水平線を言葉も無くただ眺めていた。
「うちの両親も若い時、こんな風に二人で海を眺めていたんだってさ。それで、海見たさに都内から越してきたんだよ」
「へえ、ロマンティックだね」
「ロマンティックと言うより阿呆なんじゃない? ただそれだけのために越してきたようなもんだから」
「ううん、そんなことないよ」
「そうかなぁ」
「ねぇ、この間、少女漫画を貸したら、面白いと言ってたでしょ。今度また、黎に貸してあげようと思ってるヤツがあるんだけど、その作品の中に、こんな詩のフレーズがあるの。『寄せる真実、返す偽り。寄せる偽り、返す真実』。私、波を見るたびにこの言葉を思い出すんだ。私は、『返す真実』でいたいなと思う。どんなに嘘が押し寄せて来ても、私は真心を返し続けたいって」
「……そうだな。僕もそう思う」
僕は、小夜子の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
帰りは行きより大変なことになった。いくら日が沈んだとはいえ、真夏の夜はまだまだ暑く、一日中外にいたせいで体力が限界に来ていた。仕方が無いので、小夜子は「へなちょこ」と言って荷台から飛び降り、僕の横を歩いた。図書館に着いた時、午後八時を回っていた。辺りはもう真っ暗だった。
「腹減ったなあ」
「ほんと、お腹空いた。さあ、帰ろ帰ろ」
「じゃ、また明日」
「うん、今日はありがとう」
「大したこと無いさ」
と言って自転車に飛び乗り帰ろうとした時、小夜子はサッと僕に駆け寄り、頬にキスをした。呆然とする僕を残し、小夜子は「バイバイ」と言って、何事も無かったように帰って行った。
第九章に続く