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Ordinary Days  作者: 早瀬 薫
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第十二章

 ある日の図書館からの帰り、ふと思い付き、小夜子と毎日のように通っていたコンビニに久しぶりに立ち寄ってみた。小夜子が入院してからというもの、このコンビニから自然と足が遠のいていた。コンビニの玄関をくぐると、店主が「あれ? 黎君久しぶり!」と声を掛けてきた。このコンビニは兄弟四人共々お世話になっているせいか、店主は僕のことをよく知っていた。僕も当たり障りのないように、笑顔を作って軽く会釈した。何も買わないのもなと思っておにぎりの陳列棚の前で物色していると新製品らしき物があり、それを買おうかどうしようかと逡巡していると、「ああ、それ、意外といけるよ」と後ろから見知らぬ人間に声を掛けられた。びっくりして振り返ると、酔っ払って酒臭く目の据わったおっさんが立っていた。おっさんの持っている籠の中には数本の缶酎ハイと酒の肴が入っていた。このおっさんはこんなに酔っ払ってるのにまだ飲むつもりなんだなと僕は一瞬で判断した。しかし、ボサボサ頭の毛玉だらけのよれよれ上下スウェットスーツの情けない格好に違和感があるものの、どこか身近な人のような気がしていて、よく考えたら、このおっさんの声に聞き覚えがあることに気付いた。

「た、た、田辺先生!」

 そう僕が叫ぶと、彼はびっくりして僕の顔を数秒凝視した。

 数分後、近くの公園のブランコに、僕は田辺先生と並んで座っていた。田辺先生はまだ午後八時前だというのに相当酔っ払っていた。彼の身に何かあったのだろうか……。

「あ、気にせんでええよ。今日な、産休に入る光森先生の送別会があったんよ。いや、あるはずやったんやけどな、流れてしもてな、それでしょうがないから、独身仲間の定国先生と二人で飯屋に飯を食いに行ったんやけどな、アイツ下戸やけん、すぐに飯の時間が終わるんや。それでワシは飲み足りんから、家に帰ってから、また酒を買いに来たわけ」

「ふーん、そうだったんですか。先生のそんな格好見たのは初めてだったから、何かあったのかと思いました」

「えー、そうか? ワシ、休みの日はこんなもんやで」

「そ、そうなんですね」

「それで、桧垣はどうするんや?」

「は? 何をですか?」

「大学や! 教育学部志望やと言うとったやろ?」

「はい」

「ワシと同じ大学にすれば後輩やな」

「え、先生、関東の大学だったんですか?」

「そうや。何か文句あるか?」

「い、いや別に」

「ま、ワシは教育やのうて、理学部やったけどな。それで、ほれ、あの子はどうなっとるんや?」

「あの子って?」

「あの子に決まっとるがな」

「は?」

「ほれ、えーと、し、し、し……」

「汐見さんですか?」

「そうそう! それそれ!」

「それそれって、人のことを物みたいに……」

「あ、すまん。彼女、今長期欠席しとるしな。それで、あの子はどうするんや?」

「美大受験を考えてるみたいですよ」

「そうか。それでお前らはその、付きおうとんのか?」

「あのー、田辺先生って、そんな先生でしたっけ?」

「すまん、すまん。酔っぱらいのおっさんやから、許しといて」

「は、はい」

「あのな、これだけははっきり言うておく! 後悔するようなことをしたらいかんぞ!」

「はぁ? 何をですか?」

「その汐見さんのことや」

「はい」

「ワシな、恥ずかしながら大学二年生で生まれて初めて恋愛をしてな、所謂、初恋というやつやな。二十歳で初恋やなんて笑われるかもしれんけどな。二十歳で初恋というのはそれこそ壮大な恋愛やったで。寝ても覚めても彼女のことばっかり考えとったもん。元々関東の大学に憧れはあったんやけど、就職もこっちでしたんは、それがあったからなんや。その彼女な、夏休みでワシが松山に帰省するとな、広島に祖父ちゃんがおるらしいて、青春一八切符を買うて広島まで鈍行で来て一泊してから、そっからフェリーに乗って松山まで会いに来てくれとったんよ。凄いええ子でなぁ。帰るときなんか、そりゃ辛かったよ。電車や飛行機やったら、見送りに行っても一瞬で目の前から消えるやろ。そやけど、フェリーは違う。フェリーやからスピードが遅いんや。そやけん、いつまでもいつまでも見えとるんや。そしたら、ワシも何でか知らんけど、涙が出てしもてな、彼女もデッキに立ちつくしていつまでも泣いとった。一ヶ月したら、また東京で会えるのにな。ほんま阿保やとは思うけど。あの光景は、今でも忘れられんのや」

「ふーん、なんだか良い話ですね」

「一時はな、頭に血が上って、大学を辞めて結婚しようとしてたんよ」

「えーっ!」

「でもな、卒論の先生にな、『お前は馬鹿か! 結婚するならまず卒業してからにしろ! 仕事もない奴が結婚なんか考えるな!』と一蹴されたんや」

「そ、そりゃそうでしょうね……」

「それで、ワシもこっちで就職したわけ」

「それが正解ですね」

「それでな、桧垣は絶対汐見を離すなよ!っちゅう話や」

「なんですか、それ?」

「ワシな、何でか知らんけど、あんだけ盛り上がってたのに、急に自分に自信が無くなってしもてな、ワシみたいな田舎もんが彼女みたいな都会的な美人と釣り合わんのやないかと思えてきてたし、実際彼女も冷たくなってきてたような気がして、それで結局別れてしもたんや。丸ノ内に用事があって出掛けたとき、彼女が仕事仲間と歩いとるところを見かけたことがあってな。彼女の横におった男は、ほんまにスマートで洗練された奴やった。そいつを見た後、ウィンドウに映った薄汚いジャージの上下を着た自分の情けない格好見たら落ち込んだよ。ちょうどその時、インドの日本人学校の教員をやることになって、彼女に付いて来てくれとよう言わんかったんや。第一線で活躍しとった彼女に仕事を辞めてくれなんて、どう考えても言えんかった」

「……」

「今はもう、結婚しとるらしい」

「そう、なんですか……」

「それが分かったんが、実はつい最近の話なんや。この間、偶然、大学の同級生の女子にばったり会うて、彼女がそう言うとった。幸せになったんならそれでええと思わないかんと思った。そやけど、彼女、いらんことも言うてな……」

「え? いらんことって?」

「『田辺君が振ったから、彼女一時期すごく荒れてた。うつ病みたいになってたし、あんなに純粋で誠実な男性、今も出逢ったことないって。田辺君、自分が田舎もんだってしょっちゅう卑下してたけど、それが何なの? 田舎もんみんながそうじゃないことくらい分かってるけど、田舎もん=誠実だとしたら、女は田舎もん大歓迎なの! なんで迎えに行かなかったのよ! ずっと待ってたのに!』と言われたんよ」

「……」

「そやからな、桧垣、お前らまだ高校生やけど、ほんまに心底好きな人の手は、絶対に離したらいかん。しようもないことでグチグチ喧嘩したり悩んだりして、それが原因で別れるとかしたらいかんのや。汐見さんは、ほんまにええ子や。見とったら分かる。あほんだらの仙波が授業中に筆箱の中身を盛大に床にぶち撒いても、必死になって拾ってやっとったやろ? お前もええ子や。お前も拾とった。ええ子同士は気が合うに決まっとる。迷った時は、自分の胸に手を当ててよう聞いてみるんや。これを自分がしたら後悔するかどうか。今やないで。後で後悔するかどうかか肝心や。後で後悔すると思たら後悔せんよう今しとけばええんや。恋愛だけやのうて、色んなことを決める時にな」

 その話の後暫く二人でブランコを漕いでいたが、途中ブランコを止めては、田辺先生は缶酎ハイを開け、「ほれ、お前もどうや?」と勧めてくれるのだが、「あ、そうやった、未成年やからいかんな」と言って突き出した手を引っ込めた。そんなことを数回繰り返して、遂に缶酎ハイが無くなり、先生は「ほな、さいなら」と言って帰って行った。

 今、何があったんだろう? 僕は本当に学校の先生と話をしていたんだろうかとは思うのだが、あの無様な格好の憔悴しきった男性は紛れもなく田辺先生で、彼は、教え子に自分の過ちを繰り返してほしくない一心であんな風に一生懸命語ってくれたんだろうと思う。最愛の彼女への懺悔も含めて。明日になったら、今、話したことはすっかり忘れているのかもしれないけれど……。なんだか遠ざかっていく田辺先生の背中が凄く小さく見えて悲しかった。

 実際翌朝、学校の校門のところで田辺先生に会ったけれど、昨晩のことはすっかり記憶から消去されているようだった。僕は先生のその様子を見て、拍子抜けするというより、なんだか妙に安堵していた。


第十三章に続く

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