207年・襄陽~天下三分ノ計~
三国時代に転生してから今日までの三年間は、まさに生き延びるための戦いだった。
何せ、孔明家を支える三人――諸葛亮孔明、妻の月英、そして弟の諸葛均――がまるごと現代人に入れ替わってしまったのだ。
正確には、変わったのは意識だけで外見に変化はない。……が、いきなり言葉が喋れなくなった孔明と月英を、周囲の住民は当然不審に思い始める。
やがて俺たちは、人目を避けて諸葛家の農園に引きこもるようになった。
だが、その農地は痩せて収穫は少なく、しばしば飢饉に見舞われた。まずは生きるための食糧を確保することが最優先課題だった。
この時代、苦労して手に入れた種を畑にまいても、芽さえ出ないことは日常茶飯事だ。
ようやく芽が出た……と思ったら、雨や嵐が根こそぎ掘り返してしまう。残ったわずかな苗も、収穫前に日照りで枯れ果てる。その繰り返しだった。
天候を予測しようにも、天気予報なんてない。周りの人に聞こうにも、言葉が分からない。
――人生詰んだと、本気で思った。
そんな俺たちにとって唯一の救いだったのが、諸葛均に転生した十八歳の青年、孫龍の存在だった。
「え!日本語しゃべれんの?!」
それが、孫龍と交わした初めての会話だった。
「ちょっとだけっスけどね。あの公園、よく日本のヒトが来るんで練習してたんです」
「もしかして、周りの人がしゃべってることも分かる?」
「何か不思議な訛りですけど、まあ大体は」
言葉が分からず、不安のどん底に突き落とされていた俺たちにとっては、まさに天から垂れた一筋の糸のようだった。俺は生きるために必要な言葉を孫龍から学んだ。
だが、その後の俺たちを、言葉以上に救ってくれたのは、そのポジティブすぎる性格だった。
転生して数カ月経つと、いきなりこんなことを言い出した。
「いやー、始めはさすがにびっくりしましたけど……。よく考えたら、憧れの地に住めるなんて、なかなかラッキーな体験っすよね」
「憧れの地?ココが!?」
いまだに現実を受けとめ切れない俺たちにとって、羨ましいほどの前向きさだ。
「親父が趙雲子龍の大っファンだったんスよね。我が子の名前を、“子龍の子”って意味で“孫龍”ってつけるくらいですし。ま、あんまり尊敬し過ぎて、三歳くらいから槍の特訓させられてたんですけどね」
「そっか。だからあの時、子ども助けられたんだね」
結月が赤壁公園で目撃した、孫龍の凄まじい槍捌きもそれなら納得だ。
「あ、何ならちょっと練習してみます?ここらへん、夜盗とか出るらしいですし」
「え!マジで!?」
そんなノリで、孫龍による特訓が始まった。
戦闘が当たり前のこの世界において、平和ボケした国から来た俺たちは最弱の部類だった。……いや、“俺は”というべきだろう。
蝸牛のような上達速度の俺と違って、結月の成長は極めて早かった。空手の基礎があるだけあって、身のこなしとスピードが段違いだ。
「結月さん、ほんとセンスあるっす。特に動体視力が高いので、弓矢とか向いてるかもしれないっすね」孫龍が心底感心した様子で言う。
だが、結月が一番興味を持ったのは「武器」や「道具」そのものようだった。やはり、発明マニアの血が騒ぐのだろう。
ある時、「見て見て、作ってみたよ~」と持ってきたのは、引き金を引くと短い矢が発射できるクロスボウだった。弓矢や剣が――というよりも戦闘全般が――苦手な俺でも、これなら扱えそうだ。
そんな戦闘では完全に足手まといの俺にも、一つだけ特技があった。三国志ヲタの知識をフル活用して、軍略や戦略プランを考案することだ。
転生から一年。俺は、農園改革に取り掛かった。
まず様々な書物を読み漁り、昼には雲を、夜には星空を見つめ続け、天候のパターンを読み解く。経済学でいうところのマクロ環境分析だ。
次に土壌の特徴を把握し、最適な作物と植えるべき品種を選択した。その上で、農地に住む農民たちの個々の能力を把握し、一番適した作業を割り振る。更に、結月の改良した農具を導入し、生産性を向上させる。
つまり、いきあたりばったりだった農業に、計画、実行、チェック、改善というPDCAサイクルを導入したのだ。
始めは訝しんでいた農民たちも、収穫量が明らかに増えてからは積極的に取り組むようになる。その収穫が家族の命を支えているのだから当然だ。
だが、収穫が増えると略奪のターゲットとなる可能性も増す。次に俺たちが取り組んだのは、夜盗やコソ泥対策だった。始めは守衛を巡回させていたが、広範囲をカバーしようとなるとその分コストが嵩かさんでしまう。
そこで、麦の中に見張りトラップを仕掛け、引っかかると自動的に矢が発射される仕組みを導入した。トラップの位置を定期的に変えることで、夜盗の数は大分減った。
こうして、三年間、俺たちはどうにか生き延びてきた。ようやく生活の目途が立ち、待ち望んだ平穏な日々が近づいてきた頃――劉備一行が現れた。
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「軍師殿。それで、天下三分の計…とは?」
劉備が身を乗り出してくる。
「現在、曹操軍はほぼ無敵です。単独で打ち破れる軍はありません。ですがそれは、曹操が天下を取れることを意味しません。」
「天下を統治するためには、力のみならず、義が求められるからです。今、我らが住む荊州を治める劉表は病の身。隣り合う益州は劉璋という愚鈍な君主が治めています」
反応を伺うために、敢えて不遜な表現を使う。同じ「劉」の血を引く劉備は眉をひそめたが、関羽と張飛は頷いている。
「民からの不満は大きく、新たな王を待望する声が挙がっています。だからこそ、今こそ劉備様が王として立つ好機なのです」
「だが、曹操軍が攻めてきたら、ひとたまりもないではないか」
前回、徐州で曹操軍に手痛い敗北を喫した関羽が、今日初めて口を挟んだ。
「そのための呉との同盟です。呉の孫権も曹操率いる魏の台頭には深い危機感を覚えています。それぞれでは太刀打ちできないものの、劉備様と孫権が組み、ともに曹操に立ち向かえば勝機は見えてきます」
そのまま俺は、詳細な現状分析と、取るべき戦略についてのプレゼンを行う。
――正直、ここまでは、昔読んだ本からの丸パクリだ。
「それが、天下三分の計…か」
借り物の戦略とは知らない劉備は、いたく感動したようだった。しばらく宙を見つめ、やがて意を決したようにこちらを見つめ直す。
「諸葛亮孔明殿、是非わが軍の軍師として共に戦ってほしい」
張飛はいまだ釈然としない様子で、「言うだけなら、誰にでもできるじゃねえか」と呟いている。
――ここからが本番だ。歴史にない言葉を、俺は吐こうとしている。
「三つの条件があります」
緊張で震える口元を扇で隠しながら“三つの条件”を説明する。
説明が終わるや否や、意外なことに劉備はあっさりそれを承諾した。
「分かった。任せた!」
――え、いいの!?
俺は、思わず呟いた。正直もっと反対されると思ったのだが……。
笑顔の劉備の背後で、関羽が苦々しい表情を浮かべている。張飛に至っては怒りで震えている。何だか嫌な予感がする。
ここはさっさと三人にお帰り頂こう。
俺は急かし気味に三人を門までまで送る。
劉備が馬に乗り、胸を撫で下ろして門を閉めようとした瞬間――。
がしっ!!!
張飛の分厚い手が、閉まりかけた門を掴む。
「忘れ物をした。劉の義兄、先に行っていてくれ」
「え!?」
困惑する劉備の馬の尻を、張飛が蛇矛の柄で叩く。
「ヒン」と短く鳴いて、劉備を乗せた馬が走り出す。
何かを予感したのか、関羽も馬から下り、張飛の傍に立つ。
劉備の馬を見送った張飛は、俺を睨み付けてこう言った。
「さっきは黙ってきいてりゃ、調子に乗りやがって……。表出ろ」