プロローグ ~ニート様へノ三顧之礼~
西暦207年春 古代中国・襄陽
「孔明どのっ!!!」
うららかな春の日差しの下、春眠を貪る俺の寝室に、地鳴りのような呼び声が響いてくる。
……コンミン?――孔明。
……ああ、俺のことか。
諸葛亮孔明に転生して三年。いまだにその名を呼ばれると咄嗟に反応できない。
どごんっ!!
ノックと呼ぶにはあまりにも強烈な一撃が門を震わせ、鳥たちが一斉に飛び立った。鼓膜をつんざくようなこの声の主は……張飛翼徳に違いない。
大蛇のような矛を手に、気に入らない相手は誰でもぶった斬る男。武勇こそ正義の戦乱の時代において、近隣の豪傑どもを震え上がらせる存在だ。
門の向こうには、青龍刀を携えた軍神・関羽雲長、そして王の血を継ぐ男、劉備玄徳もいるはずだ。大抵の者なら名を聞くだけでひれ伏す英雄三人が、俺の家の前を占拠している。
「これがいわゆる三顧の礼か」
史書によれば、諸葛亮孔明は、三度にわたる劉備の懇願に心動かされ、劉備軍への参戦を決意したという。
だが……。
正直、このまま寝たふりをしてやり過ごしたい。何せ、この門を開けた瞬間、ブラックどころか、血みどろの人生の幕が開けるのだ。
現世で就活全滅の俺とはいえ、こんな就職先は絶対イヤだ。
どぐわん!!
扉の音はなおも大きくなる。三顧の「礼」というか、もはや借金取りか討ち入りのレベルだ。
「アキラ……。出ないの?」
牀と呼ばれるベッドを中央で分ける薄布の向こうから、眠たそうな声がする。
「結月、起きてたんだ」
「あんだけ大きな声で叫ばれたら、そりゃね」
春風が吹き込み、仕切りの布がひらめいた。寝起きで乱れた栗色の髪と、潤んだ二重の大きな瞳に、思わず目を奪われる。
ふわっと、桃の花の香りが部屋に薫った気がした。
この世界で唯一、俺を孔明でなくアキラと呼ぶ、幼馴染の結月。歴史上は“月英”と呼ばれ、孔明の妻ということになっている。
だが、もちろん、現実には指一本触れられていない。幼馴染の壁を超えようとするたび、脳裏に浮かぶ男がいる。
「創ちゃんのこと、どうするの?」
まるで心を読んだかのように、結月はその名前を口にした。
――ドクン。
心臓が高鳴る。
期せずしてこの地に飛ばされた俺たちの唯一の目的は、失踪した俺の兄貴、如月創を探し出すことだった。だが、三年たった今も、僅かな痕跡さえも掴めていない。
後に三国時代と呼ばれるこの時代、民は飢餓や略奪に苦しみ、貴族であっても戦争に怯える日々が続いていた。俺たちも転生した直後は、怖くて敷地の外に一歩も出られなかった。
もし、結月が転生したのが、荊州の有力者、黄一族の娘・月英じゃなかったら、そして彼女が諸葛亮孔明と結婚していなかったら、俺たちはとっくに餓死か戦死していただろう。
その頃の孔明は軍師としては完全に無名な存在だった。誰にも仕えず、家で書を嗜み、時々農業に手を出す、言わば就職浪人だったからだ。
だが、若い頃の孔明は"臥龍"と呼ばれ、仲間うちではその戦略的才能を高く評価されていたらしい。
孔明の恩師、水鏡先生も、「天下を取るには、“臥龍”諸葛亮か“鳳雛”龐統のどちらかがいればいい」などと無責任なことを言い放っている。
きっと劉備たちも、その言葉を聞きつけたに違いない。
「人違いです!」と伏して謝りたいくらいだ。
――とはいえ。
「やっぱ、最後のチャンスだよな……これが」
転生してからの三年間、俺たちは黄一族のネットワークを使い、創を探し続けてきた。だが、成果はゼロに等しかった。
それも当然だろう。もし創が、俺たちみたいに誰かに転生しているなら、外見的には別人になっているはずだ。そんな相手を、ネットもない三国時代で見つけ出すのはほぼ不可能だ。
唯一の可能性は、諸葛亮孔明の名が天下に知れ渡り、名声を聞きつけた創が会いに来るというパターンだ。そして、その最後のチャンスが今、門前で待っている。
歴史の本には、さらっとこう書いている。
「呉王孫権を動かした劉備軍の軍師・諸葛亮孔明は、呉との連合軍を結成――。当時破竹の勢いだった曹操軍を撃破し、そこから魏・呉・蜀の三国時代が幕を開けた」
だが、就活の面接官さえ説得できなかった俺が、一国の王を動かすなんて、いくらなんでもハードルが高すぎる。
その上、敵は天才かつ暴虐で知られる、魏王・曹操だ。本家の孔明ならいざ知らず、転生者に過ぎないこの俺が曹操と戦うとしたら……正直、全てを捨てて逃げ出したくなる。
だが、それでも――。
俺にとっては、いつでも味方をしてくれた、たった一人の兄貴だ。
ふぁさっ。
その時、結月の掌が俺の髪に微かに触れた。
「ついていくよ。どこまでも一緒に」
俺の目をまっすぐに見て言う。
普段は俺の気持ちになんて気づかないくせに、何でこんな時だけ欲しい言葉をくれるのだろう。その眼差しに、少しだけ背中を押された気がした。
俺は、ベッドからゆっくりと身を起こす。
「行くぞ……。就活だ」
「了解!」
結月も笑顔で起き上がる。
外に出ると、残雪に反射した陽光が目に刺さり、一瞬視界が真っ白になった。白銀の光に包まれ、この地に飛ばされてきたあの日の記憶がフラッシュバックする。
そう、あれは……。