攫われ姫
※別作品「彼は私を愛さない」に出てきたトリスター家の話。こちらだけでも読めると思いますが「彼は私を〜」も読んでいただくとより楽しめるかもしれません。
悪名高きトリスター家の噂話は、どこの夜会に行っても必ず聞いた。良い噂話から眉唾ものの悪い噂話まで。でも私には全然関係のない話だと思っていた。
その私が、こんな風になるだなんて。きっとあのときの自分に教えても信じてもらえないだろう。…今でも時々疑ってしまうくらいなのだから。
適齢期を迎えた紳士淑女は、夜な夜なパーティに出て婚姻相手を探す。一番重要なのは、相手の家だ。自分の家の政敵と結婚するわけにはいかない。カタキ同士で恋に落ちるのはロマンあふれる物語の中だけだ。ダンス相手の男性の顔を見ながら年頃の乙女にしては枯れた思想で考えた。
そこそこ見た目が良いらしい私は壁の花になることなく、今日も数人の適当な男性に誘われ踊ったけれど、みんなどうもしっくりこない。どんな相手だろうと結局は政略込みの結婚になるのはわかっているが、一生に一度のことだもの。妥協はしたくなかった。
少しだけ乾いた喉を爽やかなシャンパンで潤して、疲れたから今日はもう帰ろうか。そう思った矢先、明るく賑わっていた会場がざわつきはじめた。それは良いもの、というよりは不気味なざわつき方で私は眉を寄せた。
しばらく様子を伺っていると、どうやら皆ある一点に視線を送っているらしい。私のいた場所では人が邪魔で見通せなかったので、少し移動して覗き込んだその先。
──そこには、魔の遣いかと思うほどおどろおどろしい雰囲気を持つ黒尽くめの若い男性が立っていた。
「…………っ!……」
あまりの雰囲気に声もなくその姿を凝視してしまったが、ふとこちらを見た男性の瞳を真正面から見てしまい思わず息を止めた。停止した思考にヒソヒソとした噂話が流れ込んでくる。
あれってつい先日、先代を罠にかけて追い落としたっていうあの方よね…
え、あの方がそうなの…私初めて姿を見たわ、恐ろしい悪魔みたいに眼光をギラギラさせててすごく怖いわ…
しっ!あまり大きな声で言ってはダメよ、あの方の気に触ることを言ったものは容赦なく消すって噂だもの…
まあ……見た目だけではなく、中身まで悪魔みたいなのね…
──そうか、あの人が有名な一族の……。
視線をそらせず、そらされないまま私はその人物を見ていた。たまたま一緒に来ていた兄がそんな私の様子に気づき慌てて正気に戻すまでそれは続いた。
あの夜会から二日ほどして、私の中では強いショックを受けた邂逅にも満たないあれの余韻がようやく落ち着いてきた頃だった。
再び私はあの時のような衝撃を受けることになる。
「ミレイラ……、お前に手紙が来ている」
普段は絶対に入ることのないお父様の仕事部屋に呼ばれ、言い知れぬ不安を感じながら訪れると開口一番にこう言われた。
「……どなたから、なのですか?」
深く眉間に皺を入れた父を見て、余程伝えにくいことか伝えたくないことだと察する。しかし、いつまでも黙っているつもりはないらしく一度のゆっくり目を閉じ、意を決した瞳で父は言った。
「トリスター家の、アルベルト殿からだ」
「…まあ、それは。一体どのようなご用件で…?」
我が家とトリスター家に繋がりはない。しかも宛先は私だ。信じられず聞いてみたものの、答えはもはや出ているも同然だった。
「婚姻の、申し入れだ」
やはり。そうではないかと思った。いや、むしろそうでしかないのだ。
私は、悪魔と見紛うトリスター家当主アルベルト様に、瞳が交わったあの夜会で見初められたらしい。
覚束ない足取りで執務室を出た私に縋り付いてきた母や私付きの侍女たちは、まるで物語の悪魔に連れ去られる姫のようだと私の置かれた立場を嘆いていた。
「どうして私の可愛いミレイラがそんな目に遭わなくてはならないの…!」
「お嬢様、なんておいたわしや…何もできない我々をお許しくださいませ」
「お母様にみんなも。そう嘆かないで。
この婚姻は我が家にとって素晴らしいことよ。内実はどうあれ、王家も一目置かれる良家と縁続きになるのですから」
「ああミレイラったらなんて良い子なの!でもあなたが犠牲になることなんてないのよ!」
「そうですよ、お嬢様」
「いいえ、これはもうきっと覆せはしないでしょう。相手はトリスター家なのです」
目的のためには手段を選ばないと言われているトリスター家は黒い噂が尽きない。そんな家に嫁ぐだなんて、いくら政略結婚が一般的でどのような相手だろうと受け入れられるよう教えられていても、猛烈な不安と恐怖を感じる。
けれど私の家はトリスター家より下であるし、何より成し遂げると決めたものを彼らは必ず成し遂げる一族だ。
逃れようもなく私は確実にトリスター家に嫁ぐことになるだろう。
しかし、父は少し不思議なことを言っていた。父が、というよりは父が伝えた手紙の内容が、というのが正確か。
『アルベルト殿は、婚姻を前提にお前とお付き合いをしたいそうだ』
それはまるで、小説で読んだ庶民たちの愛の告白のような…貴族の婚姻申し込みでこんな回りくどい表現はしない。父も同じように思ったらしく首を傾げていた。だが、いかにお伺いを立てるような手紙であっても、かの家は私の家とは比べ物にならないほど格上だ。その意向に私たちが逆らえないことに変わりはない。
後日、トリスター家の使いの馬車がやってきた。アルベルト様が私をお呼びらしい。詳しい話は御者も知らないらしく外出用のドレスを着て馬車に乗り込んだ。母は今生の別れのように咽び泣いていたけれど、私は施した化粧を崩せないこともあり涙を流すことはなかった。
しばらくかかると言われた馬車に揺られながら、私はあの深淵じみた瞳を思い出していた。
生まれてからあんなに暗く静かな瞳を私は見たことがない。飲み込まれそうで、とても怖いのに何故か目を奪われる吸引力を持ったあの瞳。不思議と美しささえ感じた。
唐突だが私はヒールという役割が結構好きだ。本が好きで色々なものを読むが、どの物語でも最終的に悪者を応援したくなるたちなのだ。勇猛果敢な正義のヒーローよりも悲劇的な悪役はじめ、根っからの悪役なんかも好きになってしまう。だって悪役は徹頭徹尾、悪なのだ。迷い悩み苦しんで成長していくヒーローは確かに格好いい。強大な悪に立ち向かう勇気だって素晴らしいと思う。だけど私はその人間らしい心の機微がどうにも苦手だった。何故か嘘くさく思えてならない。
でも悪は違う。ぶれることなくひたすらヒーローを叩き潰すために現れるのだ。そこに揺らぎも戸惑いもない。その盲目的な一途さだとか負けても負けてもへこたれない愚かさにも似たそれが私の心に刺さるのだ。だいたい善も悪も視点の違いで悪役から見ればヒーローこそが悪だ。でも悪役はヒーローには絶対に勝てない、そこが一番のポイント。報われない嫌われ者を好きになったっていいじゃない。
忌憚なく言ってしまえば私は悪役フリークで、もっと言えばアルベルト様みたいなリアル悪役男性は、ストライクゾーンど真ん中、ハート鷲掴みの大当たりなのだ!
噂だけはたくさん聞いていてどんな方なのだろうと夢想していたけれど、本当に想像通りの方だったわ。あんなに黒が似合う男性もまずいないだろう。
けれどそんな憧れの君が私を妻にと願うなんて、思ってもみなかった。だってかの家は、絶世の美女しか嫁げないと有名なのだから。
私もダンスの相手に欠かないくらいの容姿は持っているのだと、夜会に出て初めて知った。けれどそれはうちが安定した優良貴族だというのが大きいからだと思っていた。後ろにある家を見て、それから一緒に踊っても恥にならないだろう容姿の私をダンスに誘うのだと。
かの家にとってうちとの縁なんてたいしたことはないはずなのに。その上私の容姿はそこそこだ。だけれど、アルベルト様は私に婚姻の申し入れをしてきた。そればかりかお屋敷にお呼ばれまでされたのだ。
────つまり、私は今、ものすごくドキドキしている。
恐怖なんていう悲観的なものではなく、歓喜……そう喜びとワクワクで胸が高鳴っているのだ!
「あの夜会でお目見えしてからひと時たりとも忘れたことはなかった…。背筋も凍りそうなほど冷たい眼差し、不機嫌そうに固められた変わらない表情、不気味に艶めく御髪、身体を覆うには大きすぎる暗色のマント。どこからどう見ても立派な悪役風情!…たまらないわぁ」
誰もいないのをいい事に馬車の中で誰にも言えなかった高まりをひとりごちる。こんなこと誰にも言えない。お母様に話したらきっと卒倒してしまうだろう。それがわかっていて誰が言うのだろうか、私には言えなかった。
私はずっと淑女の仮面の下で、姫をさらってくれる悪魔を探していたのだ。
「お嬢様、トリスター家のお屋敷に到着いたしました…」
御者が恭しく告げる。そっと馬車の扉が開かれると、そこには──
「ア、ルベルト、さま…?」
ご当主自らお出迎えなんて。しかも私の方へ手を差し伸べている。まさかエスコートしてくださるの?…そんな。
動揺が顔に出ていたのだろう、眉間の皺を深くしてアルベルト様は言った。
「私の手を取るのは嫌だろうが、ずっとそのままという訳にもいかないだろう…手を取っていただけないか」
渋みのある深い声に惹かれるまま、マリオネットのように操られるがごとく私も自分の手を差し出していた。それを思いのほか優しい手つきで握られたことに驚きながら、意外なほど洗練された仕草でエスコートされて私は馬車を降りた。
手を引かれて入った屋敷はこの家の栄華と繁栄を表すように厳かな造りで、決して派手ではないのに手間と金が掛けられているのがわかるとても趣味のいいものだった。
悪徳貴族だなんて言われているから、成金趣味か魔物でも住んでいるのではないかというほど薄気味悪い屋敷かもしれない、と思っていた自分を殴りたい。
応接間のようなところに案内されるとアルベルト様はスマートに私をソファに座らせ控えていたメイドにさっと指示をすると自分も私の斜向かいのところにあるソファに座った。何故そんな微妙に離れた場所に座るのか疑問に思ったけれど、気になったのはそこだけではなかった。
「あの、今日はどのような要件で…」
「ああそうだったな、君には何も知らせずこちらに来てもらってすまなかった」
「い、いえ。それは構わないのですが…その」
「なんだろうか?聞きたいことは何でも聞いてくれ」
「え、えっと、じゃあ………、
わたくし、ミレイラと申します。この度はお屋敷にご招待いただきありがとうございます。わざわざお出迎えにエスコートまでしていただいて、とっても嬉しかったですわ」
何はともあれ私たちはこれが初めての顔合わせ、初めての会話。となればまずは自己紹介と招いてもらったことのお礼だろう。そう思った上での挨拶だったのだけど。
「き、み、は………」
魚のように口をパクパクさせて、それっきり何も言わなくなってしまったアルベルト様に、これじゃあ悪魔も形無しだわ、なんて思ったのは秘密。
───それからまあいろいろあって。
掻い摘んでいうと、アルベルト様もあの夜会で私に一目惚れしたのだとか、無条件に人に嫌われるから私にも嫌われているだろうとか、それなのに好意的な私にかなり戸惑ってタジタジになるアルベルト様とか、少しずつ逢瀬を重ねて相思相愛になろうかという時に、私が悪魔に本当に攫われたと勘違いした男が御伽話みたく助けに来たけれど私は自ら望んでアルベルト様のそばにいるのだとか、でもその男にアルベルト様が私を引き渡そうとしたのを泣いて怒ってやめさせたのだとか、それでようやく私の思いをアルベルト様が信じてくれたのだとか、まあいろいろありましたけれども。
無事に結婚できて私は今最高に幸せです。
例え世の中の人に、悪魔と攫われた姫だと未だに思われていたとしても、可愛い子供達と大好きな旦那様がいれば、なんの問題もないのよ!
実は「彼は私を〜」の主人公の両親の話だったりします。主人公は頑なに契約結婚を望んでいますが、その両親が実は恋愛結婚だった、というは面白いかなーと思いまして。
楽しんでいただければ幸いです。お読みいただきありがとうございました。




