07
提督館での滞在は、思っていた以上に長引いてしまった。思っていた以上に、ユリアの体調が良くなかったからだ。船酔いは医師が言っていたように、滞在四日目の朝には治ったのだが、危惧していた事が当たり現実となった。
疲れから、熱を出してしまったのだ。
しかも熱は、かなり高くまで上がった。体力が落ちてしまっている所に、さらなる追い撃ちをかけるような状態となった。
幼い頃からユリアは、疲れが溜まったり極度に緊張したりするとよく熱を出した。今回の原因はその両方だろうと思われる。
体の成長と共に、熱を出す回数が減っていた。なのでユリア自身、少々油断をしていたのだ。だが、もしかしたら、、熱が出るかもしれない――という予感はあった。けれど起き上がれないほどの高熱になるとは……。正直、思ってもいなかった。
明日には出発できると、少しだけ解いた荷を詰め直したのだが、これにより再び解く事になってしまった。エンマに悪い事をしてしまったと、ユリアは高熱にうなされながらも謝ったのだが、余計な事は考えないでくださいと怒られてしまった。
ヨーテの滞在は結局、延びに延びて十日となってしまった。
「もう少し休まれた方が良いのではありませんか?」
到着した時よりも、全体的にほっそりとした様子のユリアに、アリシアが心配そうに声をかける。まだ熱が下がりきっていない。医師はここであともう数日は安静にしていた方が良いと訴えたのだが、ガルネリオ側がそれを聞き入れようとはしなかった。これ以上遅らせる事はできないと、ネルンへ向かう事を決めてしまたのだ。
「エンマ、貴女もそう思うでしょう?」
アリシアの問いに、エンマはゆるりと首を振る。
「お気遣い、ありがとうございますアリシア様。ですがこれ以上、ファラフ王をお待たせするわけにはまいりませんので」
「でも……」
ちらり――と、アリシアはまだ青白い顔のウルリーカを見て、納得いかないといった様子で顔を顰めた。
「エンマ、ウルリーカ様はお顔の色が悪くていらっしゃるわ……だから……」
食い下がるアリシアに、エンマは表情を動かさず、淡々とした態度と言葉でそれを拒絶する。
「問題ありませんアリシア様。ネルンに着く頃には、ウルリーカ様の体調も、きっと良くなっているでしょうから」
そう言ってエンマは、アリシアを冷やかな目で見る。余計な口は挟むな――と、その目は語っていた。いくら帝国の皇女の侍女だからといって、さきほどからのエンマの態度はけして良いものではない。いくらなんでもアリシアに失礼だと、ユリアは「エンマ、控えなさい」と彼女を嗜めた。
「アリシア殿、エンマの言うとおりです。ネルンまで二日ほどあるそうですから、その間、今よりも体調は良くなるでしょう」
馬車に乗っているだけですから――と、ユリアはやんわりと口端を上げる。安静にしていれば良いのであるならば、ベッドの上でなくても問題はないのだろう。本音を言ってしまえば、ユリアもまだ少しここにいたい。だが、ファラフ王をこれ以上待たせてはいけないのは確かだ。事情が事情であるから、きっとあちらも「仕方がない」と思ってはくれているのだろうが、でも、やはり、これ以上は引き延ばせない。
「そんな、ウルリーカ様……」
「お世話になりました。ありがとう、アリシア殿。婚約者殿と仲良くね」
「……はい」
項垂れるアリシアを優しく抱き締め、ユリアはファラフ王家の紋章が入った箱馬車へと乗り込んだ。これはヨーテのビョルク港に着いた時に、ユリア達を待っていた物であるのだが、この時は提督館へと向かった。
療養中は提督館の車庫に入っていた馬車であるが、本日ようやくネルンへと向かう事となった。王の花嫁を迎えにきた騎士によると、帝国から麗しの皇女を迎えるからと、国一番の工房に作らせたのだとか……。しかもこれは簡素な物だそうで、王宮にはもう一台、王妃専用の煌びやかな馬車があるとの事だった。
小窓から、こちらを心配そうに見上げているアリシアに、もう一度微笑みかけて、ユリアはゆるりと手を振る。騎士の合図で、御者が馬の尻に軽く鞭を打つ。ガラリと音をさせ、アリシアを含む館の者達が見守る中、馬車は石畳の道を王都へ向けて走って行った。
自国の王の花嫁が提督館に滞在している事は、ヨーテ中に知れ渡っており、一目花嫁を見ようと沿道には多くの領民が集まっていた。ユリアはヴェールを被ると、小窓を開けて彼らに向かって手を振る。ヴェールを外すことはできないが、それでもユリアは口もとに笑みを浮かべ、沿道の人々が途切れるまで手を振り続けた。偽り、騙している自分を、どうか許して欲しいと願いながら。
ヨーテの関門所を抜けると、馬車はのどかな風景が広がる田園地帯をひたすら走る。
エンマの言うとおり、ネルンに着くまでには体調が今より良くなっているよう祈っていたユリアだったが、残念な事に、その日遅くに着いた宿屋での夕食を半分も食べることはできなかった。
やはり体調は、自分が思っている以上に良くはない。
朝よりも、体がダルイのは気のせいではないなかったようだ。
そんな彼女をエンマは、早々にベッドに入らせた。たっぷり寝れば明日には今日よりも、少しは具合が良くなっているでしょうからと、彼女は感情の読み取れない声でそう言って、優雅に一礼すると隣室へと引っ込んでしまった。
「気を使ってくれたのかな?」
半年前、初めて彼女に会った時は、その態度や言葉の端々にひどく冷たいものを感じていたユリアだったが、ここ最近――特にガルネリオを出国してからは、少しずつではあるものの軟化したように感じられる。
やはり住み慣れた場所を離れ、家族と離れ、すべてをガルネリオに置いてきたからなのだろう……今、彼女が知っているのは、ウルリーカとなったユリアだけなのだ。
「やっぱりエンマさんも寂しいのかな?」
ウルリーカとは乳姉妹だと言っていた。赤ん坊の時から一緒だったのだ。きっと本物のウルリーカの前では、あんな態度ではないのだろう。笑ったり、冗談を言ったりしているのだろう。
「エンマさんの笑った顔……私も見たいな……」
いつの日かそれを、自分は見ることができるのだろうか?――と、ユリアはそんなことを思いながら眠りについた。
◆◆◆◆◆◆
まだ少しだるい体ではあったが、それを気力で補って、ユリアは宿屋の主人や見送りに出てきてくれた人々に笑顔を向けた。やはりこんな時は、ヴェールを被らなくてはいけない事が役にたつ。顔色が悪いことを、気づかれなくて済むからだ。
馬車は休憩を二回とり、太陽が西に大きく傾いた頃に、ようやく王都ネルンに入った。今日は五日に一度ある、夜市開かれる日だとかで、中央広場には様々な露店が並んでいる。食べ物を売っている店が、比較的多いようで、小さな子供達が串に刺して飴色に焼いた肉や、衣をつけて油で上げた物などに、大きな口を開けて齧り付いていた。
ユリアはこのまま王宮に入るものと思っていた。
だが、向かった先は王宮ではなく、すぐ傍にある外国の賓客のための館――迎賓館であった。
出迎えた外務大臣の案内で、一番良い部屋に通されたユリアは、エンマと二人きりになったのを確認すると、そこで漸く被っていたヴェールを外す事ができた。
「まだ少し、顔色が良くないですね……」
「緊張しているからだと思います」
そう答えたユリアに、エンマはあからさまに眉根を寄せる。
「ウルリーカ様は、わたくしにそのような言い方はされません」
「エン……」
「ここはもう、ファラフの王都で……わたくし達はファラフ王の手の中にいる。よろしいですか? 貴女はガルネリオ帝国皇帝陛下の愛娘……ウルリーカ皇女殿下なのです。そのこと、お忘れなきよう……」
「……」
それはつまり、自分がユリアであること忘れろ――と言う事だ。
こうして自分と二人きりであっても、ウルリーカとして振る舞え――と言う事だ。
ユリアは目を閉じ、きゅっと唇を噛み締める。深呼吸を一度してから、ゆっくりと目蓋を上げてエンマを見た。その顔は、ついさっきまでのものとは違う。
「エンマ、疲れと汚れを落とします。早々に湯の用意をなさい」
「畏まりました……ウルリーカ様」
すっと腰を引き深く頭を垂れ、エンマは湯殿の用意をするために部屋を出て行った。
扉が静かに閉まると、ユリアは胸の前で右手を握り締める。
自分はもう、引き返す事ができない所まで来てしまったのだと、先ほどのエンマの言葉で痛いほどそれを感じた。
自分はもう、ユリアではないのだ――と。
「ラルス様……」
兄のように慕った青年と、もう二度と会う事は無いだろう。初めから、叶うはずのない恋だったのだ。自分は娼婦の母から生まれた子供で、父親が誰なのかも判らない。それに対しラルスは領主の息子で……跡取りで……帝都でも政に関わっている有力貴族なのだ。
「ラルス様……」
この世に生まれた落ちた時から、自分達の全ては違う。違い過ぎている。
「ラルス様……」
ずっと貴方が好きでした――そう口中で小さく呟いたユリアの瞳から、ポロリと涙が一粒零れ落ちた。