06
ユリアを乗せた馬車は帝都レブルを出ると、海に面した港町ヴァストーラのティガット港へと向かい、そこで帝国船に乗り換えてファラフに向かった。
海路を選んだのは時間短縮のためである。今の時期、船ならば三日ほどでファラフの港町ヨーテに到着するからだ。
だが、陸路だとそうはいかない。山を二つほど越えなくてはならないため、時間と日数がやたらとかかってしまう。それ故、陸路ではなく海路なのだ。
初めて見る大きな帆船に、ユリアは目を丸くし気持ちが高揚したものの、出航して暫く経つと酷い船酔いが彼女を苦しめた。それはファラフの海の玄関口であるヨーテのビョルク港に到着するまで延々と続き……その結果、下船してすぐ気を失ってしまった。
予定ではここで馬車に乗り換え、そのまま真っ直ぐファラフの王都ネルンへと向かうはずであった。だが、それどころではなくなり、ファラフ側が用意してくれた箱馬車はその行き先を変更し、ここヨーテを統括する提督の館へと大急ぎで向かった。先触れとして、出迎えの騎士の中から一人を館にやったので、ユリア達が到着した時には部屋も整えられ、医師も必要な物も全て揃えられていた。しかも医師は女性である。ガルネリオでは有りえない事だった。医師は男の職業とされており、女性はなれないからだ。
「皇女様、お加減は如何ですか?」
トレイに水差しとグラスを乗せ、ここヨーテを任されているファラフ海軍提督レオナルドの一人娘――アリシアが、ユリアにあてがわれた客間の寝室に入ってきた。侍女はいない。彼女一人である。
緩く波打つ栗色の髪を年頃の娘らしく頭の高い位置に結い上げ、瞳と同じ色の石がついた髪飾りを挿しているアリシアは、特別美しい、魅力的で艶やかな女性――ではない。十人並み以上ではあるものの、彼女くらいの容姿ならば、帝都には掃いて捨てるほどいるだろう。だがそれでも、アリシアであれば求婚者は多くあったのではないだろうか?――と、ユリアは思う。彼女は誰もが好感を抱くような、そんな柔らかな雰囲気を持っているのだ。遊びの恋を楽しむ相手としては、彼女は不向きである。本気の恋の相手でなくてはダメだ。
彼女に初めて会った時から、ユリアは帝都で見てきた貴族令嬢達とアリシアはどこか違ているような気がした。それが何であるのか……この三日間で知る事ができた。
要は、飾らない性格なのだ。
生まれや身分などで、他人を括ったり態度を変えたりしない。誰に対してみアリシアは、平等に、対等に、裏表なく接する。騙そうとか、脚を引っ張ろうとか、貶めようとか、そんな意地の悪い事をするような人ではないのだ。
その辺が、帝都の貴族令嬢達と大きく違っている。
ウルリーカとして何度か、令嬢達をお茶会に招待したのだが、にこにこと麗しい笑みを浮かべながら、棘のある言葉をさり気なく吐き、互いに腹の探り合いをしているのだ。恐ろしいったらなかった。
お茶会が終わるとドッと疲れが押し寄せ、暫く魂が抜けようにボーっとしてしまうユリアだったが、そんな時はエンマも黙っており、心が安らぐ効果のある花茶を淹れてくれたりした。
「だいぶ良くなりました。ありがとう。アリシア殿、貴女には面倒をかけしてしまって……ごめんなさいね」
「いえ、そんな……。王宮の方には既に連絡をしてありますので、どうぞゆっくりとお休みくださいませ」
提督館に入ったユリアは、体調が思うように回復せず、暫く留まり休ませてもらう事になった。いくら船に乗るのが初めてとはいえ、まさかこんな事になるとは思っていなかった。それはエンマも同じだったようで、ユリアほどではないがこちらかなり顔色が悪い。けれど皇女付きの侍女としての矜持なのか、彼女はお仕着せの侍女服をきっちり着込み、背筋を伸ばし部屋の扉近くに控えている。
「エンマ、貴女も部屋で休みなさい」
「ですが皇女様……」
「わたくしと同じように顔色の悪い貴女を見ていると、余計に具合が悪くなります」
役目に忠実なエンマのことだ、ユリアが余計な事を言わないよう見張っているのだろう……。だが、朝よりも顔色が良くないのは確かだ。彼女もまた、今までの疲れが出たのだろう。
「……はい。それでは失礼して、わたくしも少し休ませていただきます。何かございましたら、すぐにお呼びください」
「ええ」
エンマは軽く頭を下げると、ふらふらと覚束ない足取りで出ていった。室内に残ったのはウルリーカであるユリアと、提督の一人娘のアリシアだけだ。彼女はユリアよりも二つ年上の十九歳で、夏には婿を迎える事が決まっている。相手は彼女の父の、信頼厚い部下の青年だそうだ。
「ウルリーカ様は確か、わたくしより一つ年上と伺っておりましたが……」
その言葉にユリアはぎくりとし、おもわず体を強張らせた。
本物のウルリーカは二十歳……ユリアより三歳も上である。化粧で上手く誤魔化してはいるものの、それを落とせば当然のことながら、ユリアは本来の年の顔となるのだ。今がまさにそうである。
「こうして化粧を落とされていますと……実際のお年よりも若く見えるのですね」
「あ、あの……」
怪しまれているのではないか――ユリアの背中に嫌な汗が流れる。知らず、上掛けを握り締めていた。
「羨ましいですわ。わたくしなどいつも、年よりも上に見られることが多くて……」
それが悩みなんですの――と、アリシアは深々と溜息をつき、ユリアに「秘訣は何ですの?」と真顔で訊ねてきた。
秘訣――といわれても、本当に若いのだから答えようがない。
軽く眉根を寄せるユリアに、アリシアはハッとなり慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません。ウルリーカ様は体調が良くないというのに……わたくしったら……」
羞恥に頬を染めるアリシアを、自分よりも年上ではあるが、ユリアは素直で可愛らしいと思った。
「本当に申し訳ありませんでした」
「いいえ」
ゆっくりお休みくださいませ――と、アリシアは寝室から出ていった。静かに閉められた扉に小さく息を吐く。漸く一人になれたユリアは、安堵し胸を撫で下ろした。アリシアと二人だけになり、疑われやしないかと酷く緊張していたのだ。その証拠に掌が、汗でしっとりと湿っている。
「とにかく今は眠らなくちゃ……」
薬さえ効けば、船酔いは明日には治るだろうと医師が言っていた。本来はこんなにも長くならないものであるそうだが、おそらくこれまでの疲れが一緒に出てしまったのではないかと思われる。ウルリーカになるために、やらなくてはいけない事が有り過ぎて、毎日目が回るような忙しさだったのだ。疲れない方がおかしい。
ユリアは静かに目を閉じると、遠くに聞こえる波の音に耳を傾ける。シェルストム家の領地は内地であるため、池や川や湖はあるけれど海はない。今回生まれて初めて、ユリアは海というものを見たのだ。散々な船旅ではあったが、それでも海の碧さと空の青さは美しく、ユリアに強い衝撃を与えた。
「そうえいば昔、エドラおばさんが言ってたな……波の音を聞いていると気持ちが落ち着くって……。信じてなかったけど、本当なのかも……」
それはまるで子守歌のようで……いつしかユリアは安らかな寝息をたてていた。
◆◆◆◆◆◆
あがってきた報告書に、エーヴェルトは睫毛一本動かす事はなかった。初めて船に乗れば、こうなるのは当たり前だからだ。
「船酔い、か。辛いよね、あれって。可哀想に……まだ苦しいんだろうな」
「……」
本当にそう思っていても、イクセルが言うと、なんとも実のない言葉に聞こえる。エーヴェルトはフッと息を吐き出しカップに手を伸ばした。
「数日はヨーテで足止めか。うん。ここは一つ、見舞いの品でも贈ってあげたらどうだい?」
「は?」
「印象をさ、良くしといた方がいいんじゃないのかな? ほら、きみって私と違って無表情気味だし、いつも第一印象最悪だろう? だからさ、少し点数を稼いでおいた方が、ここは良いと思うんだよね」
にっこりと笑うイクセルに、エーヴェルトは呆れたように短く息を吐き出した。
「……バカバカしい。そもそもウルリーカは、妻と言う名の人質に過ぎない。そんな相手に何故印象を良くし、点数を稼いでおかなくてはいけないんだ?」
不快気に眉根を寄せるエーヴェルトに、呆れたようにイクセルは肩を竦めた。婚約者である彼女に気持ちがないとはいえ、それくらいするのは男として当然の事なのだから。それをバカバカしいとは……バカはお前だと、イクセルは口中で小さく吐き出した。
国を大きくする事に関しては熱心だが、女性に対しては呆れるほど淡白過ぎる。その証拠にエーヴェルトは、今まで特定の誰か(もちろん女性だ)に、何かを贈った事はなく、よくよく思い返してみれば、恋人と呼べる相手も彼には今まで一人もいない。
世の中には、娼館という物が存在するため、そちらの方は解消されている。
だが、二十三にもなって、今まで一度も恋愛をした事がないというのは……“問題有り”なのではないだろうか?
「あ、ほら、ダメだよそんな顔をしたら。イイオトコの仏頂面っていうのは、それはそれは怖いんだから。そんな顔をしたら、ウルリーカちゃんが怯えちゃうじゃないか」
「ちゃんって……イクセル、お前なぁ」
「それにしてもあの“噂”……嘘じゃなかったようだね。ここにもそう書いてあるよ。“噂”は本当でした――って。楽しみだねぇエーヴェ」
ふふふと嬉しそうに笑うイクセルに対し、エーヴェルトは目を眇めカップへと視線を移した。
「別にどうだっていいさ。夫婦といったって、本当にそうなるわけではないのだから」
心の繋がりがなければ夫婦とは言えない――と、エーヴェルトは吐き捨てるようにそう言って、すっかり冷たくなってしまったカップの中の紅茶を飲み干した。
そんなイトコにイクセルは呆れたように肩を竦める。これでは早々に、側室をあげる事になるかもしれない。そして本当にそうなったとしたら、まず最初に側室にあがるのは、間違いなく彼女だろう。王妃になってもおかしくはない家柄なのだから……。
けれど彼女が側室となったら、自分の幼馴染みの気持ちはどうなるのか?
スタファンが泣く事にならなければいいけれど――と、イクセルは心の隅でそう思い願った。