幕間(1)祈り
ウルリーカとなったユリアを乗せた箱馬車が向かった方角を、オルヴァーは執務室の窓から見つめていた。
自分がどれくらいの時間、ここに立っているのか分からない。けれど窓辺から離れることが、オルヴァーにはできなかった。
ユリアを乗せたそれが、ここから見えるわけではない。馬車はかなり前に皇宮を出立し、帝都レブルを守る最後の外壁を抜け、ティガートの港へと向かって公路を進んでいるのだから。
だが、そうと分かっていても、オルヴァーはそちらを見ずにはいられなかったのだ。
今、彼の胸の内に押し寄せるは……悔恨とも後悔ともいえる思い。己が犯した事への、罪の意識がそうさせている。
何度も何度も考えた。
本当にこれで良かったのか?
もっと良い策があったのではないか?
何度も何度も己に問うた。
悩み、考え、色々な可能性を求めた。
だがその問いに対する答えは……やはり変わりはしなかった。ユリアを皇女の身代わりに仕立て、ファラフ王に嫁がせる以外には、ガルネリオの民が助かる道はないのだ。
例えそのせいで、ガルネリオの民であるユリアから笑みが消えても………。
「父上」
いつからそこに居たのか、扉を背にし、正装姿のラルスが立っていた。亡き妻に良く似た顔容は、我が息子ながら美しいと思う。ここ一年ほど前から、ラルスに対し婚約の申し込みが増えているのは、当然と言えば当然であるのだが、本人にまだその気がないので全て断わっていた。
「……ラルス」
すっかりその顔色を失ったラルスは、じっと恨めしげにこちらを見ている。何を言いたいのか……想像するのはとても容易い。
ハッと短く息を吐くと、低く……喉の奥から絞り出すように声をラルスは出した。それは苦しげで、酷く弱々しげであった。
「本当に……本当にこれで良かったのでしょうか? 本当にあれしか、方法はなかったのでしょうか?」
「言うな……」
ふるりと頭を振り、オルヴァーは窓から離れると長イスにその身を預けた。深々と息を吐き、顎を上げ、睨むように天井を見つめる。
「後悔――しておいでなのではありませんか? あの子に、本当の事を告げなかったことを……父上は悔いてらっしゃるのではありませんか?」
「黙れラルス」
押し殺したように、それだけをどうにか絞り出す。唇が震えそうになるのを堪え、オルヴァーは顔を窓の方へと向ける。見えるのは白い雲が浮かんだ、青く澄んだ美しい空だ。
「いいえ、いいえ、黙りません。この際です、ハッキリさせようじゃありませんか。父上、何故です? 何故なんです? 何故あの子一人を、この国の犠牲にしたのです? どうしてユリアが……ユリアだけが……ユリア……どうして……どうし……どうしてなんだっ!!」
ダン――と、足を踏み鳴らし自分を糾弾する息子に、オルヴァーは答えずただ静かに目を閉じた。
ラルスがここまで怒りをあらわにするのは、たいそう珍しい事である。見た目を裏切ることなく、ラルスは穏やかな性格をしている。だからといって無能なわけではない。貴族の子弟が通う帝国学院に最年少で首席合格し、卒業するまでずっと首席であった。
人望もあり、友人も知人も多く、本当に良くできた息子なのである。
幼い頃から落ち着いているせいか、実年齢よりも大人びており、感情をあらわにする事は滅多になかった。それは成長するとともに磨きがかかり、外交省に勤務するようになってからは完璧なものとなった。
だが今のラルスは、鉄壁の仮面を被ったいつもの彼ではない。
感情に任せ、父を詰る、ただの息子であった。
「どうして……どうしてこんな事を……。父上、貴方はあの子が可愛くはないのですか? 愛しくはないのですか? あの子は簡単に手放せるような、そんな、そんなちっぽけな存在だったのですか!?」
どうなんです?――と、問うラルスの声に、オルヴァーはゆっくりと目蓋を閉じると、蓋をした過去の記憶を引っ張り出して、幾重にも封をした蓋を再び開けた。
父サムエルが、娘のように可愛がった娼婦セルマ。
彼女を贔屓にしている客は数多おり、だが、皆、彼女の体を求めていたのではなかった。
客が彼女に求めていたものは、優しく穏やかな時間――心の癒しであった。
それを破ったのは、他の誰でもない。
オルヴァーだ。
「ラルス……私は彼女と約束したのだよ。一生、それをあの子には言わないと」
「ですが」
「約束……したのだよ。それを彼女が望んだのだ。何も望まず、何も欲しがらなかった彼女が、そうする事を私に望んだのだよ。ならば守らねばなるまい。何があろうとも、私はそれを守らねばならぬのだ。お前にはバレてしまったがな……」
「わ、私は……私はお爺様の遺品の中にあった日記を読んだからです。だから知ってしまった。もしお爺様の日記を読まなければ、今だって真実を知らないままだったでしょう。もし、あのまま知らなければ、私は……私は……」
大罪を犯していたでしょう――そう言ってラルスは目を瞑り、深く息を吐き出した。
「すまないラルス……すまない……」
「父上が私に謝罪される意味が解りません」
「すまない……」
フンと鼻を鳴らしラルスは、オルヴァーが先ほどまで居た窓の傍へと移動すると、窓の下に広がる景色を眺めた。そしてフッと息を吐き己が左手を上げると、視線を指先へと移し見つめる。まだ微かに残る温もりに、ツキリと胸の奥が痛んだ。
「ユリア……」
胸の前で左手を握りしめ目を閉じると、ラルスは心の中で何度も何度もそれを祈った。祈らずにはいられなかった。
私の大切なあの子が、異国で辛い目にあいませんように。
私の大切なあの子が、異国で泣き暮らすような事になりませんように。
私の大切なあの子を……私の愛しい異母妹を……神よ、神よ、どうかお守りください。