04
城内をぷらぷらと歩きながら、イクセルは窓の外枠に積もった雪を見て心底嫌そうな顔をした。そっと窓を押し遣った彼の視界に映るのは、どこまでも白く染められた王都の街並み……。屋根に積もったそれは、昨年よりも厚みがあるような感じがし、掻いた雪は通行の邪魔にならない場所に、山のように高く積み上げられている。それを見て、イクセルの端整な顔が僅かではあるが歪められた。
「今年はやけに降る。こうなると、雪が融けるのも遅くなるかもしれないな。皇女の輿入れは、約束よりも遅くなるかもしれない……」
ガルネリオ皇帝皇女ウルリーカの輿入れに関し、ガルネリオ側が唯一主張を曲げなかったのは皇女の輿入れの日である。ファラフ側は雪が降る前にと提案したのだが、ガルネリオ側は雪融けが済む頃にと言って、頑として首を縦には振らなかったのだ。
「一人娘だから少しでも長く手許に置きたい気持ちは……まあ、解らないわけではないけどね」
ガルネリオ皇帝ニクラスの、娘への溺愛ぶりは度を越しているらしく、いきなり引き離すのではなく、もう少し猶予を与えてはもらえないか――と、ガルネリオの使者は深々と頭を下げた。娘を嫁がせる父親の気持ちを考慮してくださいと………。
そうやって親子の情に訴えられては、流石にダメだとは言えず、結局この件に関してはファラフ側が折れる形となった。
イクセルとて非情な男ではない。だが、自身にはまだ子がいないので、そのあたりはよく解らないというのが本音だ。なので最初はそれを突っぱねようとしたが、同じ年頃の娘を持つ側近達の自分を見る目が「使者殿の言うとおりですよ」と無言の圧力をイクセルにかけており……仕方なく引き下がった感は否めない。
だが、もしも自分がニクラスと同じ立場になったら?――と考えると、まあ、答えは自然と出るものだ。
灰色の空から真っ白な雪が、はらはらと降ってくるのを眺めていると、足音がこちらへと近づいてくるのに気がついた。ここは人気のない廊下だ。事実、今ここにいるのはイクセルだけであり、彼に恨みを持つ者が襲撃するのにもってこいの状況である。
足音は段々大きくなっていく。こちらへと近づいている証拠だ。
だが、イクセルが腰の剣に手を遣る事はなかった。
何故なら音の主は、彼が良く知る人物だからだ。
そもそも、刺客や襲撃者は、足音をたてて近づいてはこない。
「おいイクセル。お前、こんな所で何をしているんだ?」
相変わらず無駄に良い声だと、イクセルは内心でそう思いつつも、口にも顔にもそれは出さずに声の主へと顔を向けた。
「やあスタファン。何をしているのかって……お前、見て解らないのか? 散歩だよ。さ・ん・ぽ。で、ここで休憩してたわけ。今日は何故かする事がなくてね、退屈過ぎて気が狂いそうなんだよ」
「はあ?」
何を言っているんだお前は?――と、スタファンの眉宇にしわが寄る。
「だからと言って、真っ昼間から娼館に行くわけにはいかないだろう? だから仕方なく、こうして王宮内を散歩して、気分を変えようとしているんだよ」
くすりと笑って、イクセルは軽く肩を竦めた。
「散歩って……あぁそうかよ」
「そうだよ。ホント、暇なのって嫌だね」
大仰に溜息をつく幼馴染みを、スタファンは胡散臭いものを見るような目で見た。する事がない――など、それは絶対に嘘だ。どうせまたサボっているのだろうと、彼はピクピクと頬を引き攣らせる。彼が有能なのは解っている。そうでなければ、若い王の補佐でもある宰相になど抜擢されない。
だが彼は、どうもやる気にムラがあるというか……飽きっぽいというか……気まぐれな所がある。それが悪い点であった。
「そ、そういえばイクセル。後宮の方の準備は進んでいるのか?」
「八割方は終わっているよ」
ファラフは一夫一婦制ではあるものの、王族はそれに当て嵌まらない。
子孫を残すため、後宮を設けるしきたりだ。
あくまでもしきたりであって、実際、側室を迎えるかとなると話は別である。後宮は金の無駄である事は、誰もが充分過ぎるほど解っているからだ。
だが、それこそ国と呼ばれる形になる前からの、それは習慣でありしきたりであったから、すぐに変えられるものではなかった。例えエーヴェルト自身が不要と言っても、だ。
後宮には、もう一つ役割がある。
建物の半分が、王族の未婚女性達の住居となっているのだ。
何故かと言いうと、婚姻前に間違いが起こるのを防ぐためである。
現在、後宮にはエーヴェルトの実母と実妹が住んでいる。彼女達がいるのは、後宮の右側……王族の住居部分とされている棟であり、王妃や側室の住む東側の棟とは別であった。
こちらに王宮を造る際、後宮も一緒に建てたのだが、王族側の棟の部屋にしか内装作業を行わなかった。何故かと言うと、すぐに王妃や側室を迎えるつもりはないというエーヴェルトの言葉により、そちらが後回しにされたからだ。
だが基本的なものは最初にきちんと済ませてあるので、今、ウルリーカを迎えるにあたり遣らなくてはいけない事は、王妃の部屋に相応しい家具や装飾品を作らせ搬入したり、必要な小物等を用意しそれを収めたりと、大掛かりなものではなく細々としたものであった。
ただし、それは趣味の良さを問われるのものであり、だからこそイクセルは、かなりの時間をかけて準備をしているのだ。
「そうか。あの、さ……」
「ん?」
「陛下は……その、後宮に多くの女性を住まわせるのだろうか?」
「さあ、どうだろうね」
スタファンらしくない、奥歯に物が挟まったような物言いに、イクセルは顔を顰め首をかしげた。
「もし、もしそうなら、その中にあの方も……」
その先は言い難いのか……口を閉ざし黙ってしまったスタファンに、イクセルの眉宇に皺が寄せられる。
「……スタファン、お前、そんな事を気にしていたのか?」
「あ、いや……その……」
言葉を濁す幼馴染みに、彼はこっそり苦笑する。剣に関しては誰よりも素晴らしい腕前を持つ彼が、女性の事になるとダメダメになるのだから情けない。だがここは幼馴染みのよしみで、イクセルは彼が求めている答えを教えてあげることにした。いつまでもそれを気にして、任務に支障をきたしては洒落にならないからだ。
「大丈夫だよスタファン。エーヴェはむやみやたらと側室をとるような、そんな下劣な男じゃない。それはお前だって解っているだろう? 私よりもお前の方が、傍にいる時間が長いのだから。不安がるな、安心していろ」
「あ、ああ……。そう、だな。うん。そうだよな。陛下はそんな方じゃない」
スタファンが想いを寄せている女性は、つい四ヶ月ほど前まで数人いた妃候補の一人だった。だが、ガルネリオの皇女に決まったお陰で、彼にもチャンスが巡ってきたのだ。
だがここ最近になって、今度は誰が最初に側室となるか――という話が、ひっそりとだが持ち上がっていた。それが彼の耳にも入ったのだろう……余計な事を吹き込むお節介は、いつの世にもそこらじゅうにいるのだ。
「それにスタファン、エーヴェが娶るのはガルネリオの皇女だ。それなのに、早々に側室をあげるなんて、そんな愚かな事ができると思うか? できないだろう? せいぜい一年……いや、二年かな。二年経っても子供ができなかったら、側室を上げろと爺共が騒ぎ出すのは安易に予想できる。だからその前に手を打て。グズグズするなスタファン。それにハッキリ言ってしまうと、子供を作ってもらうまでは、こちらとしても側室を認めるわけにはいかないんだよ」
「何故だ?」
「ガルネリオ皇家の血を引く子供が、我々には必要なんだ。男だろうと女だろうと、そんなものはどちらでも構わない。とにかく皇女には、さっさとエーヴェの子を孕んでもらわないとね。でなきゃ私の悪い虫が、また出てきてしまうよ」
「あー……そう、だな」
イクセルの悪い虫とは、ガルネリオをさっさと潰し、ファラフの領土とし支配下に置くという事だ。
「あと三ヶ月か……長いな。ああ、さっさと止んで、さっさと融けないだろうか、この雪は」
再び激しく降り始めた雪を見ながら、イクセルはうんざりしたように大きな溜息をついた。
◆◆◆◆◆◆
「ああ、ご、ごめんなさいラルス様っ!!」
「い、いいよユリア。大丈夫だ」
「でも」
これで何度目になるだろうか……ユリアはまたしてもラルスの足をおもいっきり踏みつけてしまった。
「少し休もうか。エンマ、お茶をもらえるかな?」
「畏まりました」
ラルスに腕を引かれイスに座ると、ユリアはがっくりと肩を落とす。皇女としての教養――といっても、彼の祖母であるフレデリカから、行儀作法等は教わっていたので、そちらの方はすぐに上達をした。かの国の言語であるファラフ語の方も、読み書きを覚えるのに時間はかからなかった。何事も順調に、怖いくらいするすると、ユリアは上手にこなし身につけていったのだ。
だが、唯一彼女が苦戦しているものがあった。
それは何かと言えば、貴婦人には必須であるダンスである。
ラルスが根気良く教えてくれるものの、こればかりは早々に上達してはくれない。それでもゆっくりではあるが、一応は上達してきているのだ。その証拠に、ラルスの足を踏む回数が最初の頃と比べて、グンと回数が減っている。だが、まだまだなのだ。
「本当にごめんなさい……」
「大丈夫だよ。気にしないでユリア」
「でも……」
眉根を寄せるユリアに、ラルスは優しく微笑む。彼はそろりと彼女の頬を撫でて、もう一度「気にしないで」と囁いた。
そんなラルスの行為に、きゅうっと締め付けられるような甘い疼きを胸に感じ、ユリアはパッと体を反転させた。少し熱を帯びたであろう頬を、見られないようラルスに背を向ける。
そんな彼女の態度を変に思うことなく、ラルスは優雅に脚を組み替えると窓の方へと視線を遣った。
視線の先――窓の外では相変わらず白い雪が降り続いていて、ラルスはそれを眺めながら、このまま春が来なければ良いのにと思った。
もちろんそんな事を、口に出すわけにはいかないのだけれど………。
「今年は雪の日が多いね。この様子なら、雪融けは例年よりかなり遅くなるだろう」
柔らかく、だが、どこか不安げなその声に、ユリアはこくりと小さく頷いた。パチパチと、暖炉の薪が爆ぜる音がやけにうるさく感じる。そう感じるのは、暖炉以外はとても静かだからだ。
ユリアは顔を窓の方へと視線を遣ると、胸の前で右手を強く握り締めた。本当にそうなれば良い……そうなればその分、ファラフへ行く日も先へと延びるのだから。
「そう、ですね……。ですが、雪は、雪は必ず融けますから……」
「……ん、そうだね。雪は必ず融けるね」
「はい……必ず……」
「うん」
そっと目を瞑り、ラルスは静かに息を吐く。
本当は声を大にして叫びたかった。
きみ一人が、この国の犠牲になる必要はないのだと。