08
長椅子に座り刺繍をしていた手を止めると、ウルリーカは小さく息を吐き出した。膝の上にそれを置くと、右手で額に触れる。
「やっぱりあるわね……」
ここ最近、身体の調子が思わしくない。常にだるく、いつもより体温が高いのだ。
「風邪かしら?」
ガルネリオよりもファラフの方が冬の到来は早く、また、寒さも厳しい。彼女が育ったシェルストム家の領地は南方にあり、帝都レブルと比べてかなり温かかった。その為、今まで風邪をひいたのは、数えるほどしかない。
ここ数日の間に、気温がぐっと低くなっている。だから自分でも気がつかないうちに、風邪をひいてしまったのかもしれない――と、ウルリーカは額に手を宛てたまま、ふうっと細く息をついた。
「王妃様、お茶をお持ちいたしました」
「ありがとうデジレ」
ラルス達が帰国してから既に半月が過ぎ、窓の外に広がる庭は、全体的に茶色が目立つようになっていた。
「もうそろそろ冬支度を始める頃かしら?」
「そうですね」
こくりと温かなお茶を一口飲んで、ウルリーカはホウッと息をつくと、先ほど届いたテーブルの上のそれを見た。
王母であり姑であるグンネルから、またもや昼食への招待状が届いたのだ。一人であの母娘と対峙するには、気力も体力もなくてはならない。今現在の自分の状況を鑑みれば、今回ばかりは断わりたいのだが……断わったら何を言われるかと思うと、断わる事などできない。昼食の予定は明後日なのだが、たいそう気が重いウルリーカである。
「失礼致します」
蜂蜜がたっぷりかかったパンケーキが、ウルリーカの前に置かれた。数種類の粉と卵、それに牛の乳を混ぜて焼いたそれは、ふんわりとしていてとても美味しい。子供と女性に人気があり、朝食や中間食として食べる場合が多いものの、男性にはあまり好まれていない。だが混ぜる粉の種類を変え、乳ではなく水で溶いた生地を薄く広げて焼き、ピリッと辛味のある味付けをした鶏や豚の肉を、細切りにして焼いた物を巻いて食べる方は大層好まれている。
「この時期に採れる蜂蜜は、かなり貴重だとか……」
ちらりとエンマはデジレに視線を送る。それを受け彼女は、季節ごとに採れる蜂蜜の種類をウルリーカに説明した。
「確かに今の時季は、花もそれほど咲かないものね……」
大切に食べなくてはいけないわね――と、ウルリーカはナイフで切ったそれを一切れフォークで刺し、己が口へと運んだ。ぷうんと蜂蜜の濃厚な味と香りが口内に広がり、ウルリーカの眉宇に皺が寄る。彼女はフォークを皿に置くと両手で口もと押さえた。
「ウルリーカ様?」
「王妃様?」
いきなりの事にエンマとデジレが目を見開き、すぐさまウルリーカの傍へと寄る。彼女の額には脂汗が浮かび、瞳は落ち着きなく揺れ、突然こみあがった吐き気に動揺を隠せない。我慢できず、ウルリーカは立ち上がり庭へと飛び出した。
「王妃様っ!!」
二人が後を追うと、ドレスが汚れるのも構わず地面にしゃがみ、げぼげぼと咳き込んでいるウルリーカの背中をエンマが擦る。水をもらってきますと、デジレが踵を返し走っていった。
「ウルリーカ様……もしや」
差し出されたハンカチで口もとを拭う手が止まり、ウルリーカの琥珀がかった瞳がエンマの黒い瞳へと向けられた。
「まさか……」
最後に月のモノがきたのはいつだったか……記憶を手繰りハッとなった。エンマの顔が色を失い、大きく目が見開かれた。アレを彼女が飲んでいない事を、エンマはイクセルに尋問された時に知った。故にエンマは、この日が来るのを覚悟していた。それと同時に、この日が来るのを恐れていた。
「わたくし、子が……」
「っ!!」
慌ててウルリーカの口を塞ぎ、サッと周囲に素早く視線を走らせる。人影は見えないが、用心に越したことはない。
「ウルリーカ様、この事はまだ誰にも言ってはいけません」
小さな声でそう言ったエンマに、ウルリーカは「どうして?」と目だけで訴える。
「帝国の手の者が、この後宮に潜んでいる可能性がないとは言えないからです。ですからどうか、いま少し口を噤んでいてください」
もちろんデジレにもです――と、エンマは低く……けれど鋭い声でそう言った。
「デジレにもって……どうして、エンマ?」
納得がいかない様子のウルリーカに、エンマは眉根を引き寄せ首を振った。
「彼女が本当に味方かどうか……まだ確証がないのです。ですからウルリーカ様、ここは私の言う事を聞き入れてください」
陛下には自分から話しておくと、エンマはウルリーカに室内へ戻るよう促し、彼女が長椅子に座るのを確認してから窓を閉めた。ちょうどそこへデジレが水を持って戻ってきた。
「王妃様、大丈夫ですか?」
「え、ええ。ちょっとお昼を食べ過ぎたみたい……心配かけてしまったわね。ごめんなさい」
良かったと、デジレがホッとしたように笑ったので、ウルリーカもやんわりと微笑んだ。デジレだけは他の侍女と違い、最初からウルリーカに優しかった。仕えるのは不本意だと、声に出して言わなくても、態度の端々に見え隠れする他の侍女達……けれどデジレは最初から、帝国からの花嫁に仕える事を喜んでいた。
そんな彼女をエンマは疑っている。
理解できない――と、ウルリーカは喉まででかかったが、あまりにもエンマの顔が真剣だった為、それをグッと飲みこみ頷くに止めた。
その夜、エンマから昼に報告を受けたエーヴェルトは、早々に執務を切り上げ後宮へと向かった。
用心のため侍女らを下がらせ、彼は一人で室内へと入る。長椅子に横たわるように体勢を崩して座っているウルリーカの、その顔色が悪いと、エーヴェルトはきつく眉根を寄せた。
「エーヴェルト様」
いつ入ってきたのか……彼が入ってきた事に気がつかなかったウルリーカは、立ち上がろうと慌てて上体を起こす。が、エーヴェルトがそれを制した。
「そのままでいろ」
足早に彼女の傍へと行くと、しゃがんで片膝を床に付く。
「顔色が悪い」
無理はするな――労わるような声音が嬉しくて、緩みそうになる口もとを慌てて引き締め頷いた。そんな彼女をエーヴェルトは、軽々と抱き上げて寝台へと運んだ。静かに下ろし、彼女の頬にそっと手を置くと、もう一度「無理はするな」と念を押す。安静とまでは言わないが、大人しくしていろ――と。
「あの、エーヴェルト様。明後日なのですが、わたくし、お義母様に昼食に招待されているのです」
「母上に?」
視線を逸らしていたウルリーカには見えなかったが、ピクリとエーヴェルトの頬が引かれた。おそらくその昼食には、マルグレットも一緒だろう……二人してウルリーカをねちねちと甚振るつもりだ。実の母妹ではあるが、胸糞悪い事この上ない。
「それは俺が行こう」
「え? ですがエーヴェルト様。政務の方は大丈夫なのですか?」
心配げに問うウルリーカに、エーヴェルトは「問題ない」と機嫌良く口端を上げた。
今宵は私室で眠るから――と、出て行こうと身体を反転させたエーヴェルトの、濃紺色の上着の裾がクイっと引っ張られ、彼は顔だけをそちらへと向けた。
「どうした?」
泣きそうな顔で自分を見上げるウルリーカに、柔らかく目を細めたエーヴェルトは、身体の向きも変え手を伸ばし彼女の頬に触れる。すぐにほっそりとした指が、頬に触れていた彼の手に重ねられた。キュッと唇を噛み締め眉根を引き寄せたウルリーカに、何か重大な事を自分に告げようとしているのだと察し、エーヴェルトは表情を引き締める。
「エーヴェルト様……わたくしは……」
「ん」
「わたくしは……」
重ねられた手の指に力がこもる。エーヴェルトは己が手と彼女の手を入れ替え、包み込むようにその細い指を握った。
「あなたに……あなたに隠している事があるのです」
「隠している事?」
「はい」
目を閉じ、大きく一度息を吐き出す。
心臓の音がうるさい。
ウルリーカはゆっくりと目を開けると、藍色の瞳を真っ直ぐに見た。
「わたくしは……いえ、私は……ガルネリオ帝国皇帝皇女ではありません。帝国側が仕立てた皇女様の身代わりなのです」
絞り出すように、喉の奥から出された声は、緊張のあまり掠れていた。
だがハッキリと、自分が偽者であると告げた。
告げる事ができた。
心が、軽くなったような気がした。