幕間(6)再会
夫の帰館を知らせに来た侍女は、彼が“客”を伴っている事をアリシアに告げた。
「まあ、お客様を?」
「はい」
「誰かしら? わたくしの知っている方かしらね?」
「あ、はい。その……」
わたくしは初めて見る方でした――と、侍女は申し訳なさそうに眉尻を下げた。アリシアは眉を顰めるものの、彼が連れて来たのだから待たせてはいけないと、急いで玄関へと向かった。
「お帰りなさい、クラエス」
「アリシア」
パッとこちらへ顔を向け、クラエスは「ただいま」と柔らかく口角を上げる。それを見たアリシアも、ふわりと優しい笑みを浮かべた。が、彼の向こうにいる人物を見た瞬間、その笑みは瞬時に固まり、これでもかとばかりに目が大きく見開かれた。
「アリシア殿……」
光の加減の所為か、細められた瞳は琥珀色をしている。そんな稀有な瞳の色を持っているのは、この国には一人しかいない。アリシアの名を呼ぶ声も、化粧を落とせば実年齢よりも幼く見えるその顔も、数ヶ月前にここで別れた時よりも、かなり大人びたものになっていた。そして、あの時以上に美しく、凛とした気品が備わっている。王妃としての日々が、彼女に自信を持たせ変えたのだろうか。それとも………。
「お久しゅうございます。ウルリーカ様」
恭しく頭を垂れるアリシアに、ウルリーカは目もとを和らげる。そんな彼女の背には、エーヴェルトの手が添えられており、アリシアは自分の考えが正しいと確信した。エーヴェルトが、彼女を変えたのだ。エーヴェルトが、彼女を美しくさせたのだ。
視察で王が来る事は知らされていた。だが、何故彼女がここにいるのか……アリシアはちらりと夫を見る。その視線と疑問に気がついたクラエスは、エーヴェルトがこちらに視察にくるのと、ガルネリオの大使館関係者が帰国するのとが、ちょうど日にちが被っていたのでウルリーカと共に見送りに来た――と、妻に説明した。
「レオナルドに挨拶していかなくては、明日からの視察に支障がでるからな」
クッと喉を鳴らし、エーヴェルトは肩を竦めた。アリシアの父であり、この港町ヨーテを治める海軍の提督であるレオナルドは、幼いエーヴェルトに剣などの手解きをした“師”でもある。海軍に所属してはいるものの、彼は剣も弓も優れており、それを見込まれての指南役だった。エーヴェルトが成人を迎えた直後にその任は解かれ、以後、海軍に戻り辣腕を振るった結果、歴代最年少で提督に任命されたのだ。
「義父上は?」
「さっきまで軍の方達と話し合っていたけど……」
もう終わったんじゃないかしら?――アリシアは小さく首を傾げる。レオナルドは自身配下の幹部達と、来月行われる航海演習の事で、ここ連日朝早くから夜遅くまで話し合っていた。
「それじゃあ書斎かな?」
「多分ね」
呼んできましょうか?――との問いに、クラエスはゆるりと頭を振った。そして自分が行ってくるので、アリシアには国王夫妻を居間へお連れするよう頼む。それに待ったをかけたのはエーヴェルトだった。レオナルドに話があるので、自分もクラエスと一緒に書斎へ行くからと、アリシアにウルリーカの相手を頼んだ。
「ウルリーカ様、よろしければ庭に出ませんか?」
「ええ」
客がいると知らされた地点で、すでに茶の用意をするよう指示は出してある。男二人が階段を上がっていくのを見送って、アリシアはウルリーカを庭へと案内した。
提督館は高台にあり、庭は海側に面している為、港が一望できる。眼下に広がる光景を、ウルリーカは目もとを和らげ見渡した。
「なんて美しいんでしょう。空と海の青に白と赤茶……本当に素晴らしわ」
「ありがとうございます」
ヨーテでは昔から“建物の壁は白”“屋根は赤茶”と法によって決められていた。
これは十数代前の領主により定められたもので、大層美意識の高い人だったらしく、海から町を見た時に己が治める町が美しく見えるよう、海と空の“青”に一番良い色合いを考え決めたのだが、定着するまで二十数年もかかってしまった。裕福な家ではすぐに塗り変える事ができたが、あまり裕福な家はそうではないからだ。そしてこの法律が“自己満足”である事を、領主も重々承知していた。それ故、色の塗り変えを急がせなかったのだ。その考えは次代にも伝えられており、領主の後を継いだ息子も領民達に無理強いはしなかった。
二人が東屋に落ち着くと、侍女がお茶を運んできた。
「大使館の建設の方は、だいぶ進んでいるのでしょうか?」
「そうと聞いております。随分と腕の良い職人が集まっているとかで……ソニエル殿が喜んでいました」
ふふと笑ったウルリーカに、アリシアもつられてふふっと笑う。そんな彼女の左薬指に光る指輪を見て、ウルリーカが「ああ」と小さく呟いた。
「結婚されたのでしたね……おめでとうございます」
「ありがとうございます」
薄っすらと頬を染め、アリシアは嬉しそうに微笑んだ。婚約者だったクラエスとは、本格的な夏がくる前に夫婦となった。婚約期間が二年近くあったものの心変わりする事もなく、想いが通い合った時の頃の様に今も互いを想っている。無意識に下腹部に手を遣ったアリシアに、もしかしてと意味ありげな目でみれば、彼女は小さく頷いた。
「クラエス殿には……もう?」
「はい。とても喜んでくれました」
その時の事を思い出したのだろう……アリシアは幸せそうに微笑んだ。
「クラエス殿は良い父親になるでしょうね」
「ありがとございます。でも、女の子だったら過保護になりそうで、ちょっと心配ですわ」
「まあ……」
目を瞬かせウルリーカは、それが充分ありえる事であると同意した。クラエスが娘を甘やかす姿が、容易に想像できるからだ。
だが、それがエーヴェルトとなるとそうではない。
彼が子供と遊んだり甘やかしたりする姿を、ウルリーカは想像できなかった。
ふと思う。
この先、自分達にも子供ができるだろう。
その時、エーヴェルトは喜んでくれるのだろうか?
愛してくれるのだろうか?
もしかしたら、関心すら持ってくれないかもしれない。
だとしたら、無事子供が生まれたとしても、父親に顧みられる事のない子供は、はたして幸せなのだろうか………。
「ウルリーカ様?」
表情が翳ったウルリーカに、アリシアは心配そうに声をかけたものの、聞こえていないのか……ウルリーカは反応しない。ふと、彼女の手が当てられている場所に目がいった。ハッとなり、アリシアは己が失態を悔やんだ。ウルリーカに解任の徴がないのを理由に、側室を後宮にあげようとする動きがある――と、父親から聞いていた。しかもその中心となっているのが、エーヴェルトの実母であるグンネルだという事も………。
アリシアは立ち上がると、ウルリーカの横へと場所を移した。そこでようやく、彼女の目がアリシアを映す。そっと、彼女はウルリーカの左手を取り、両手で優しく包み込んだ。
「アリシア殿?」
「大丈夫です」
「え?」
「陛下は、側室をとるような方ではありません。大丈夫です」
ぎゅっと、アリシアの両手に力がこもる。
確信はない。
確証もない。
けれどアリシアには、エーヴェルトが側室を迎えるとは考えられないのだ。
だが、やはりいつまでたっても子供ができなければ、いくらエーヴェルトにその気がなくとも、側室を受け入れなくてはならない状況になるだろう。もしそうなった時、彼女の立場はどうなるか……ましてや側室に子供が先にできたら………。
アリシアは己の考えを振り払うように頭を振ると、新年の祝賀会にはクラエスと共に自分が出席する事を伝えた。大丈夫なのかと心配するウルリーカに、大丈夫ですと答える。悪阻が始まっている頃なのではないかと問えば、そこまで考えていなかったのか……それとも悪阻そのものを知らないのか……アリシアは首をかしげた。
兄弟姉妹のいない彼女が、それを知らない可能性がなくもない……ウルリーカは眉を顰め、アリシアに悪阻について知っているのかどうか確認する。案の定、知らないと返ってきた。軽く米神を押さえると、ウルリーカは表情を引き締め、アリシアにどういった症状がでるのか……事細かく説明をした。まさかこんな所で、黒蝶館の娼婦達から聞いた事が役に立つとは思ってもみなかった。
「ですから、無理はしないでくださいね」
「はい。そういたします」
しっかり頷いたアリシアに安心し、ウルリーカはやんわりと微笑む。エーヴェルトがクラエスと共にやって来るまで、二人はお喋りに花を咲かせた。