幕間(5)最強の女性
ラルス達の帰国を見送る為、ウルリーカはエーヴェルトと共にヨーテへと馬車で向かった。表向きは造船所の視察であるので、彼等を見送った後、ウルリーカも造船所へと一緒に行くつもりだ。
ヨーテまでは丸二日程かかるため、その途中、どこかで一泊しなくてはならない。きっと宿にでも泊まるのだろうと思っていたウルリーカだったが、二人を乗せた馬車が止まったのは、とある下級貴族の館であった。
「ヨンナ、今回も世話になる」
年の頃は五十を過ぎたくらいか……自分達を出迎えた女性に、エーヴェルトは柔らかな笑みを浮かべた。ヨンナと呼ばれたその女性も、ほっこりとした笑みを浮かべる。そしてそのままウルリーカへと、彼女の顔が向けられた。
「王妃様でいらっしゃいますね。おめもじ叶い、恐悦至極に存じます。わたくしはヨンナ=カッセルでございます。八年前までエーヴェルト様の侍女をしておりました」
侍女の頃の名残か……きっちりと礼をとるヨンナに、ウルリーカは小さく頷いた。
「ヨンナ、ロニーは息災か?」
「はい。元気過ぎるくらいですわ」
彼女の夫は貴族であるものの、どちらかといえば画家として有名で、館にいるよりも国内を放浪している事の方が多い。得意としているのは風景画だが、依頼があれば人物画も描くそうで、エーヴェルトも成人した際、彼に肖像画を描いてもらった。
「今はどこに?」
「おそらくシュガルトかと……」
「ほう」
懐かしいな――と、エーヴェルトは目を細める。こちらに都を移してからは、シュガルトへは一度も行っていなかった。あの満天の、今にも降ってきそうな美しい星空を、ウルリーカにも見せてやりたい。きっと喜ぶだろう。けれど政務が忙し過ぎて、すぐには時間がとれそうにない。
夕食を三人でとり、珍しく酒に酔ったエーヴェルトが長イスに寝そべり眠ってしまうと、ヨンナは毛布を持ってきてそっと掛けてやった。
「ふふ。随分と表情が豊かになられましたわ。これも王妃様のおかげですね」
そう言ってヨンナは、幼い子にするようにエーヴェルトの髪をそろりと撫でた。
「ヨンナ殿は、いつからエーヴェルト様の侍女に?」
「エーヴェルト様が生まれる少し前でございます。子供を育てた経験を買われてのことで、最初は乳母としてシュガルトの城に上がりました」
ヨンナには息子が三人いる。現在、長男は父に代わって当主の仕事をしており、次男は役人として王宮に出仕している。そして末っ子は騎士団に属しており、巡回騎士として国内を回っていた。
「エーヴェルト様とイクセル様……それにスタファン様。皆様やんちゃ坊主で、本当に手を焼きましたわ」
その頃を思い出したのか、ヨンナはくすくすと笑った。ウルリーカはある事を思い出し、もしやとそれを彼女に問う。
「あの……シュガルト城の中庭の木に、三人を吊るした乳母――というのは……ヨンナ殿なのですね」
「まあ、どうしてその事を、御存知なのですか?」
「スタファン殿から聞きました」
あらまあ――と、ヨンナはころころと笑い声をたてた。よく笑う女性だ。
「懐かしいですわ。陛下から厳しくして良いとお許しがでていたものですから、過ぎた悪戯を罰するにはアレしか方法がなかったのです」
「はあ……」
今でもあの木は、あの場所にありますのよ――と、ヨンナは懐かしそうに目を細める。彼女の息子達も子供の頃、派手な悪戯をしたり、他者を傷つけるような事をすると、拳骨をくらい庭の木に一晩吊るされた。一見おっとりしてそうに見えるヨンナだが、実はそうではないのだ。人は見かけによらないと、ウルリーカはヨンナを見てつくづくそう思った。
◆◆◆◆◆◆
「眠ったのか?」
そろりと後ろから肩を撫でられ囁かれたウルリーカは、眠気のせいで意識が薄くなっていたものの、なんとか目蓋を上げて体を反転させた。目の前にエーヴェルト顔があり、どうやら湯を使ってきたらしく、彼から石鹸の香りがほんわりとした。
「目蓋が落ちそうだぞ」
くつりと笑いエーヴェルトは、半分ほど目蓋が閉じているウルリーカの、つるりとした額にやんわりと唇を当てる。
「馬車での移動とはいえ、流石に座りっぱなしでは疲れただろう。明日も早い。今宵はゆっくりと休むといい」
おやすみ――と、エーヴェルトの声と吐息が耳朶をくすぐる。ウルリーカはくすぐったそうに首を引っ込めると、エーヴェルトの胸に頬を擦り寄せた。再び意識が薄れていく。
「ああ、そうえいば……」
あふっと小さな欠伸をして、ウルリーカはさらに身を寄せる。エーヴェルトの手がトントンと、ウルリーカの背中を優しくあやすように叩く。
「以前……」
「ん?」
「以前、スタファン殿に……聞いた、のですが……。悪戯をしては、木に、吊るされたそうですね」
ピキッ――と、エーヴェルトの体が強張る。すでに半分ほど眠りの国にいってしまっているウルリーカは、それに少しも気がつかない。
「シュガルトの……王宮の……中庭にある大きな木、に」
スタファンめ、余計なことを――と、エーヴェルトは心中で毒づく。子供時代の話をされても大丈夫なのだが、木に吊るされた事だけは知られたくなかった。恥ずかしいからだ。
だが知られてしまったからには、それを否定する事はしないし、隠すこともはぐらかすこともしない。何故なら過去は変わらないし、変えられないし、事実は事実でしかないからだ。
「ああ。何度もある。ヨンナは最強の女性なんだ」
そうは見えないけどな――と、エーヴェルトは苦々しい声だ。
「今でも俺は、彼女に頭が上がらない――って、寝たか」
深い溜息をひとつついて、エーヴェルトは完全に眠ってまったウルリーカを抱き直すと、彼女の髪から香る甘い匂いか嗅ぎながら静かに両の目蓋を閉じた。