02
エーヴェルトが後宮に渡るとの知らせが来たのは、前回から実に八日ぶりの事だった。
あの夜、エーヴェルトの本心を聞いてからというもの、ウルリーカの心はざわざわとしていて落ち着かない。
先日茶席に招待したテルエスの口より、彼女が彼の事を何とも思っていないとはっきりしたものの、何故かそのざわつきは治まらないでいた。
「もう少し香油をお塗りいたしましょうか?」
「いいえ。その必要はないわエンマ。エーヴェルト様は、きつい匂いはお嫌なの。ほんのりと香る程度がお好きなのよ」
「左様でございますか」
感情のない声でそう言って、エンマは香油の入った瓶を化粧台の上に戻すと、丁寧に髪を櫛で梳かして滑らかにする。そんな彼女の様子を鏡越しに窺いながら、ウルリーカは口を開いては閉じを繰り返した。彼女の視界の端にはデジレがおり、どうやって彼女を退出させるか、ウルリーカは考えをめぐらせた。
髪を梳かし終え、櫛を化粧台の引き出しにしまうと、エンマは「終わりました」と視線を僅かに床へ落とす。
「ありがとう……。デジレ、喉が渇いてしまったの。お茶をお願いできるかしら?」
「はい」
「陛下もお飲みになられるかもしれないから、カップは二つよ」
「はい」
畏まりましたと一礼しデジレが部屋を出て行くと、ウルリーカはホッと安堵の息をついた。そんな彼女にエンマが訝しげな視線を送る。
「ウルリーカ様、いかがなさいました?」
「エンマ、わたくし……」
そこで口を噤み、ウルリーカはふるふると首を振った。
「ガルネリオの皇帝陛下は、私が……皇帝皇女として、ファラフ王の子供を生むのを望んでいるのかしら?」
「……」
ぎくりとした。望んでいないからこそ、彼女にアレを飲ませているのだ。
「お子が……欲しいのですか?」
「王妃の役目の中に、それも入っていると思うけれど?」
「そう、ですね。ですがそれは、側室でもできる事でございます。現にファラフ王の生母は側室ですし、貴女様が産む必要はないかと思います」
「……」
「あれだけ王と寝台を共にしていても懐妊しないという事は、ウルリーカ様はお子ができ難いのかもしれません。それに近いうち、側室があがるようですから、それはそちらに任せれば良いかと思います」
「え?」
側室――その言葉に、一瞬、テルエスの顔が浮かんだ。だが、彼女には想う相手がいる。側室になれと言われても、あの性格では一笑してそれを断わるだろう。ならば誰があがるというのだろうか?
「ウルリーカ様」
冷ややかなその声に、弾かれたように顔を上げる。
「ウルリーカ様、丸薬はきちんと飲んでらっしゃいますよね?」
「え、ええ」
もちろんよ――と頷く彼女に、エンマは軽く眉根を寄せる。確かに小瓶の中のそれは、日に日に数が減っている。それは彼女が毎日飲んでいる証拠であり証明だ。だが、あれを飲み続けるとどうなるのか……それを知っているエンマの胸は痛み、心が悲鳴を上げる。
「ウルリーカ様、あの……」
ごくり――と、小さく喉が鳴る。万が一これを言った事が知られれば、ガルネリオにいる家族がどうなるか……やはりここは黙って口を噤んでいるべきだろう。だが、このままではウルリーカの体は………。
「エンマ?」
「あれは……」
「あれ?」
「あれ、は……」
ぐっと、エンマは喉を詰まらせる。強く両手を握って、ぎりっと奥歯を噛み締めた。覚悟は、できている。これを知り、詰られても罵られても、全てを受け入れるつもりだ。それだけの事を自分はしているのだから………。
ふっと肩に入り過ぎている力を抜き、エンマはゆっくりと口を開けた。だが、そこへ第三者の声が割って入る。
「あれは――何だ? エンマ」
バッと、エンマは勢いよく振り返った。シャツの襟元を緩め少し着崩しているエーヴェルトが、いつの間にかそこにいた。右手は腰に置かれ、左手には護身用の剣がある。藍色の瞳は険しく、エンマをきつく見据えていた。
「ヘ、陛下……」
「あれが何であると……お前は言うのだ」
「あ、あの……」
ゆらり――と、彼から揺らめく怒気を孕んだ空気に、エンマはすでに知られているのだと悟る。青褪め震える彼女を、ウルリーカが己が背に隠した。
「ウルリーカ?」
「エンマはわたくしの侍女です。彼女の落ち度は主人であるわたくしの落ち度……貴方が何に対し怒っていらっしゃるのかは存じませんが、エンマを罰するのであれば、わたくしも同じように罰してくださいませ」
「ウルリーカ様……」
「罪なき者を罰するなど、いくら俺でもするはずないだろう。下がれ、エンマ」
深々と頭を垂れて、エンマは足早にウルリーカの部屋から出て行った。エーヴェルトは持っていた剣を椅子の横に立てかけると、強張った表情のウルリーカの腕を掴み引き寄せる。己が腕の中に閉じ込めると、頬を撫で、頤に指を宛がい、クイっと顎を持ち上げ唇を重ねた。
「怒った顔も、お前は美しい」
「エーヴェ……」
名を言い終わる前に、また唇が塞がれる。深い今度のそれに、ウルリーカは懸命に応えた。エーヴェルトが満足するまで続いた口付けは、デジレがお茶を持って入ってきても中断されず、顔を真っ赤にした彼女が大慌てで出て行くのをウルリーカは視界の端に捉えており、唇が離れた瞬間キッとエーヴェルトを睨み上げた。
「デジレに見られてしまいました」
「問題ない。俺達は夫婦だ。口付けくらい日常事だろう」
「そうではなくて……」
顔を歪めるウルリーカに、エーヴェルトの藍色の瞳が細められる。
「さて、話しとやらを聞こうじゃないか。今ここで話すか? それとも……」
スッと顔を近づけ、耳朶にエーヴェルトの熱い息がかかり、ウルリーカの肩が小さく跳ねた。
「寝台の中で――にするか?」
さらりとウルリーカの背中を撫で上げ艶めいた声で囁くと、自然な手つきで彼女の腰に手を回し引き寄せた。頬を撫でられ顔を上げれば、エーヴェルトの秀麗な顔がすぐ目の前にあり、またもや唇を塞がれてしまう。今夜は一体どうしたのだろうかと、ウルリーカの頭の中は疑問符でいっぱいだ。
「どちらか選べ」
「もちろん“ここで”ですわ」
「それは残念」
ニッと口端を上げ、ムッとして自分を見上げるウルリーカの手を取ると、長椅子へと引っ張っていき座らせる。自分もその横に腰を下ろした。
「で、話したいこととは何だ?」
「はい。実は……」
打ち明けると決心したものの、だが、ウルリーカは迷っていた。本当に話して良いのだろうかと………。
「ウルリーカ?」
口を噤み黙ってしまった彼女を、訝しげに見ながら「早く言え」と催促する。ギュッと目を閉じ大きく息を吐き出すと、ウルリーカは体ごとエーヴェルトに向き直った。瞳を、真っ直ぐ彼へと向ける。
「わたくしが……わたくしが本当は、ガルネリオの皇帝皇女ではないのだと言ったら……貴方はどうなさいますか?」
「……お前が偽者だという証拠はあるのか?」
「そ、それは……」
「あるのならそれは、ガルネリオを攻める正当な理由になる。ファラフとしては大助かりだ」
ニヤリとするエーヴェルトに、ウルリーカは目を瞠る。やはり言ってはいけないかもしれないと、そう思い直したものの、やはり、もう、これ以上嘘をつき続けるのは苦しく悲しい。やはり告げるべきだろう。それにより罰が与えられるのであれば、自分一人だけでガルネリオの民には何もしないで欲しい――そうお願いしたら、彼は叶えてくれるだろうか………。
俯き口を閉ざしたウルリーカの髪を指に絡めると、エーヴェルトは彼女が何を思い考えているのか……予測できるだけに眉宇に皺ができる。
「ウルリーカ」
「……」
「お前はお前だ」
俺にはそれで充分だ――と、エーヴェルトは彼女の額に口付けると、そっと肩を抱き寄せ己が腕の中へと囲った。彼の纏う清廉な香水の香りに包まれ、ウルリーカの瞳から涙が溢れる。しゃくりあげるように泣く彼女の背中を労わるように撫でながら、エーヴェルトは何度も何度もそれを言った。お前はお前だ――と。