17
剣と剣がぶつかり、金属音を響かせる。騎士達の訓練場では、所属や騎士位の上下区別なく、剣を合わせ実践さながらの訓練を行っていた。その中に、本来ならば“守られる側”である王の姿があった。
王となった今でも、エーヴェルトは時間があれば、できるだけ訓練に参加するよう心がけている。自国の周辺はあらかた平定したものの、それでも不穏な動きがないとは言い切れず、何時何が起こるか判らないのだ。そのため、何が起こっても対処できるよう、常日頃から体を鍛える必要があった。
エーヴェルトは自分一人が、安全な場所に居るような性分ではない。
戦になれば自ら馬に乗り、騎士や兵達と共に戦場を駆け抜ける。
繰り出された剣をかわし、槍を打ち払い、弓矢を叩き落す。命の危機を感じた事は、一度や二度ではない。だが、国のために命を懸けて戦う騎士や兵士達を、何もしないで見ているのは耐えられなかった。じっとなど、していられない。
だから許される限り、エーヴェルトは皆と共に戦う。
豪奢なイスに座り、ふんぞり返っている、そんな君主ではないのだ。
彼は守られているだけの王ではなく、皆を守る王でもあった。
いつもならば、近衛隊の隊長であるスタファンが相手をしてくれるのだが、彼はウルリーカの護衛に付いているため不在である。そのため今エーヴェルトの相手をしているのは、スタファンの部下である近衛隊所属の青年騎士だった。何故彼にしたかと言えば、単に顔に見覚えがあったからである。それだけの理由で、彼はエーヴェルトから指名された。
実践さながら――といっても、彼等が使っているのは訓練用の刃を潰している剣だ。本物を使った方がいいのかもしれないが、怪我をしては元も子もない。とはいえ、それでも当たれば青痣ができるほど痛いし、骨にひびが入ったり折れたりする事だってある。なので皆、やられまいと必死だ。
エーヴェルトの鋭い突きが腕を掠め、相手をしていた騎士の米神に嫌な汗が流れる。もう何合打ち合っているのか……三つ年上のこの騎士の息はすでにあがっており、肩が激しく上下していた。一方、エーヴェルトはといえば、顔色一つ変えず息も乱れていない。悔しいが、実力はエーヴェルトの方が上なのだ。だが彼も近衛である。近衛としての意地がある。絶対にボロ負けするわけにはいかない。
「っく……」
上から振り下ろされた剣を、どうにか気合いで受け止めた。体勢が少し崩れたが、後ろ足で踏ん張り堪える。そのまま勢いをつけて前に飛び出し、騎士はエーヴェルトの剣を跳ね返した。そしてすぐさま反撃にでる。エーヴェルトの脇腹目掛け、真っ直ぐ剣先を繰り出した。が、ヒラリと軽やかな動きで、彼の攻撃はかわされてしまい、「チッ」と小さく舌打ちをして剣を構え直す。エーヴェルトはぺろりと上唇を舐めると柄を握り直し、騎士に向かって不敵な笑みを浮かべた。
くる――そう思った刹那、エーヴェルトの怒涛の攻撃が始まった。必死に受け流すものの、反撃の隙はどこにもない。薄い笑みを浮かべながら剣を繰り出すエーヴェルトに、狂気のようなものを感じ、騎士の顔から血の気が失せてく。恐怖で、全身が震えるのを抑える事ができない。
「へ、陛下……も、もう……」
「もう? もうだと? 貴様、それでも精鋭部隊である近衛騎士か? これでは安心して命を預けることなどできないな」
ガキンと一段と大きな音がし、騎士の剣が宙を舞った。それは弧を描き、彼の後方へ落ちて地面に突き刺さる。勝負の行方を見守っていた他の騎士達から、「おおっ」と大きなどよめきが起こった。
「鍛錬不足だ。このままでは、降格もありえるぞ」
「も、申し訳ありませんっ!!」
騎士の喉許に切っ先を付け、エーヴェルトは顔を青くしている騎士団の鍛練長に鋭い視線をやると、鍛練長はピシッと踵同士をくっつけ姿勢を正した。
「解っているな?」
「はっ!!」
もちろんであります――と、きりりと表情を引き締めた鍛練長に、エーヴェルトは口端を僅かに上げる。
「ならいい。期待してるぞ」
「はっ!!」
エーヴェルトは訓練用の剣を、駆け寄ってきた騎士見習いの少年に渡すと、差し出された布で額に薄っすらと滲んだ汗を拭った。この後、兵士達の様子も見に行くという彼に、騎士団長はお供しますと申し出る。いくら城内とはいえ、護衛を一人もつけないのは拙い。そんな必要はない――と、エーヴェルトは断ろうと思ったが、そうしたところで結局は付いてくるのだから時間の無駄だ。エーヴェルトは小さく頷くと、布を騎士見習いの少年に返し、兵士棟のある方へと足を向ける。その場にいた騎士全員が胸に握った右手を押し当て、エーヴェルトに向かって騎士の礼をとった。
◆◆◆◆◆◆
「まあっ、これをわたくしに!?」
驚くウルリーカに、ラルスは柔らかな笑みを浮かべ「はい」と頷いた。
「この方が違和感なく、城下に溶け込めるかと思いまして……僭越かと思いましたが、こちらで用意をさせていただきました。気に入っていただけましたのなら、嬉しいのですが……」
「もちろんです、ラルス殿。まあ、なんて滑らかな肌触り……ありがとうございます」
では、こちらをお使いください――と、ラルスは隣室の扉を開ける。ブラウスとスカートの入った箱を持って、ウルリーカは足取りも軽く隣室へと向かった。そんな彼女の後ろ姿を見ながら、ソニエルがおもわず口を開く。
「お一人で、大丈夫なのですか?」
ピタ――と、ウルリーカの足が止まり、ラルスの顔が僅かに強張った。
「ウルリーカ様お一人で、着替えられるのですか?」
「あ、あの……」
失敗した――ウルリーカの顔から、サッと血の気が引いていく。ウルリーカは“皇女”だ。身の回りの事は、全て侍女がするものである。着替えも本人は立っていれば良いだけで……侍女らが着せてくれるのだ。“平民”であるユリアとは違う。
「ウルリーカ様?」
「あ、いえ。そう、でした。わたくし一人では、着替えは無理です」
「でしょうね。シェルストム君、きみ、誰か女性を呼んできなさい」
「はい」
少しお待ちください――と、ラルスは申し訳なさそうにウルリーカに微笑むと、踵を返し部屋から出て行った。室内にはソニエルと二人きり……じっとりと掌に嫌な汗が滲み、さり気なくそれをドレスで拭う。
「いけませんね、気を抜いては」
「……はい?」
「些細な失敗が、後々の大きな後悔になるという事を、シェルストム君もそうですが、きみも知っておいた方がいいですよ……ユリア」
「なっ!!」
ぶわっと肌が粟立った。背中に、酷く嫌な汗が流れ落ちる。じりりっと後退するウルリーカに対し、ソニエルは氷蒼の瞳を細め前進した。
「あ、貴方は一体……」
誰なの?――その問いに、ソニエルはやんわりと口端を持ち上げた。ウルリーカの稀有な色合いの瞳は、不安なくせにこちらを睨みつけている。その目がソニエルの大切な女性と重なった。あぁ――と、ソニエルの唇が小さく震えた。貴女はこの子の中にいる――と。
「ソニエル=ブラインですよ。といっても、この姓は三度目のものですけどね」
「三度、目?」
「ええ」
銀色の髪を掻き上げて、ソニエルは強張ったウルリーカの頬をそろりと撫でた。常日頃、侍女達に手入れされているからか、彼女の頬は思っていた以上に滑らかだった。
「一度目の姓はランツ。そして二度目はフロイデンタール」
「フロイ、デン、タール……」
「ええ」
聞いた事くらい、あるでしょう?――そう問うソニエルに、ウルリーカの頭の中がぐるぐると目まぐるしく回る。彼の言うとおり、確かにどこかで聞いた記憶があるのだ。それがどこであったか………。
「思い出せませんか? まあ、きみが生まれる前の話ですしね。知らないのは、当たり前かもしれません。ねぇユリア。今、シェルストム家の領地の一部が、パラツィオ公国だった事は……知っていますよね?」
「え、ええ……」
二十年前に帝国により滅ぼされた公国……帝妃ディルダの祖国だ。
「フロイデンタール家は、あの辺りを治めていた領主なのですよ」
「では……ソニエル殿は……」
「領主の息子――といっても母は正室ではなく側室でしたけどね。父には政略結婚で娶った妻がいたんです。でも父は、その妻を愛していなかった。父が愛していたのは、私の母でした」
義務として正妻との間に子供を二人もうけた後、それが女子だったのを理由にソニエルの父は彼の母を側室迎えた。フロイデンタール家の血筋を絶やさないため、男系家系の彼女ならば男子を生んでくれるだろうと、誰も反対できない理由を付けて側室にしたのだ。
「母も幼い頃から父が好きで、父を愛していたから、二人の間にはすぐに子供ができましたよ。立て続けに女子が三人もね。男子を期待していたから、もう一人側室を娶った方がいいのではないかと、父は周囲からかなり言われたそうです。でも、父はそれを拒否した。そしてようやく四人目に私が生まれたんです」
その後、もう一度懐妊したものの、その子は生まれることなく天に召されてしまったのだと、ソニエルは氷蒼の瞳を悲しげに細めた。
「男子は私しかいないから、私が世継ぎとなりました。だからフロイデンタールの姓を、私だけが名乗る事が許されたんです」
「貴方だけ?」
「そう。私だけ。姉達は許されなかった。まぁ……フロイデンタールになったのは、帝国に滅ぼされる半年前ですけどね」
スッと目を細め、ソニエルはウルリーカの髪をひと房手に取ると、それを指で梳き下ろした。
「私は嫡子として認められ公都に移るまで、姉達と一緒に領地で暮らしていたんです。母は領主代行の娘でしたから。母はね、とても美しい女性だったんですよ。きみより少し濃い色の髪をしていました。姉達も母に似て、とても美しかった。特に私のすぐ上の姉は、父と同じ色の瞳をしていたんです」
「お父様と?」
「ええ。フロイデンタール家は、大公家に一番近い血なのです。父の瞳の色は、ディルダ様と同じでした」
「帝妃様の……」
「ええ。きみと同じですよユリア。光の加減で琥珀色に見える、そんな稀有な瞳でした」
ソニエルの掌が目の前に近づき、ウルリーカは反射的に目を瞑った。彼の指先が、彼女の目蓋の上を優しく滑る。そして「あっ」と思った刹那、ウルリーカはソニエルに強く抱き締められていた。