02
ガルネリオの西南にあるシェルストム家の領地ステルイェードの三分の一は、約二十数年前までパラツィオ公国の一部だった。その当時の地名はヤーレであり、今でも地区名として残っている。
公国の一部――といっても、ヤーレは公都からかなり遠く、ガルネリオとの国境近くにあった。そのため、パラツィオよりもガルネリオの風習が色濃く、言い伝えによれば、数百年前まではガルネリオの地であったらしい。
国境に近いという事もあり、昔からここには宿屋が多く建ち並んでいた。
宿屋――といっても、食事と睡眠をとれる所だけではない。妖艶な女性を置いている所もあった。それは所謂“娼館”と呼ばれる店であり、旅人だけではなく、地元の男達に甘い夢を見せてくれる場所でもある。
属する国と領主と地名が変わった今でも、それだけは公国時代から変わらなかった。
「ユリア、ユリア、どこにいるんだい?」
「エドラおばさん、ここです。ここー!」
どこだい?――と、目を細め周囲を見る娼館【黒蝶館】の女将エドラは、大きな木の、かなり高い位置の枝に跨っている少女を見つけ、ひいいいいーっと特大の悲鳴をあげた。
「な、ななな何やってんだいアンタは!? 早く下りな、下りてきなっ! そんな所から落ちたら、すり傷だけじゃすまないんだよ。解ってんのかいユリアっ!!」
青褪めるエドラに、ユリアはにこりと笑顔を向ける。
「平気よ、エドラおばさん。私、木登りは得意だもの。今まで一度も落ちた事ないの、おばさんだって知ってるでしょう?」
「ああ、ああ、そりゃあ知ってるよ。知ってますよ。けどさ、実際こうしてアンタが木の上にいるのを見ちまうと、平気でなんかいられないんだよ」
そう言って心配そうに顔を歪めるエドラに対し、心配させている張本人はケロリとしたもので、大丈夫ですよ~と地上のエドラに向かって大きく手を振る。そんな少女の態度に、エドラは瞬時に形相を変え、大きく息を吸い込むと、彼女は腹の底から声を出して叫んだ。
「こっの、バカ娘ぇぇぇーっ! な~にが大丈夫だ。ふざけんるんじゃないよ!! アンタが大丈夫でもね、あたしが大丈夫じゃないんだよ。心臓がね、止まっちまいそうなんだよ。ったく、つべこべ言ってないで、とっととそこから下りてきなっ!!」
尻を叩かれたいのかい――最後のそれに、ユリアはぶるると震え上がる。幼い頃、悪戯をして尻を叩かれたことが何度かあった。その時の記憶が瞬時に蘇り、おもわず自分の尻を庇うように手で触れた。この年であれをやられるのは冗談じゃないと、ユリアは慌てて木から地面へと下りる。それを見て、ようやく安堵の息をついたエドラであるが、すぐにキリッと表情を引き締めると、両手を後ろへ回し尻を隠しているユリアの両頬をぎゅうっと抓った。
「まったく、年頃の娘が何やってるんだい」
「い、いひゃい……おばひゃん、いひゃいよ」
「二度とするんじゃないよ? 解ったね?」
「わ、かりまひたぁ」
ごめんなさいと謝るユリアに、エドラはぶふふんと鼻を鳴らす。
「解りゃあいいんだよ。解りゃあさ」
パッと手を離し、恨めしそうな瞳で自分を見ているユリアに、今日、領主が館に戻ってくる事を教えてやった。その瞬間、怒られて暗かった表情が、花が綻んだ様にパーッと明るくなる。その愛らしさは、エドラにとって妹のような存在だったユリアの母を思い出させるのに充分だった。
「しかも今回は若様も一緒だってさ。随分と久しぶりの帰館じゃないか、良かったねぇユリア。ホラ、こっちの手伝いはもういいから、さっさと館にお戻りな」
「ありがとう、エドラおばさん!」
スカートの腰の辺りを摘まみ上げ、ユリアは勢いよく走り出す。その後ろ姿を、エドラは苦笑しながら見送って、伝票整理をするために館内へと戻った。今はまだ、太陽が真上になる少し前だ。館内はシーンと静まり返っている。ここは昼夜が逆転しているため、娼婦達はまだ寝ている時間だ。
「おや? 女将お一人ですか?」
先代の頃から仕えてくれている金庫番の老人は、エドラ一人だけが戻ってきたのを見て、ひょいっと片眉を上げた。
「ああ。領主様と若様がお戻りになるって連絡を受けたから、ユリアは領主館に帰したよ」
「左様でしたか」
「さてと、さっさと片付けちまわないといけないね」
娼館の女将の仕事は、他人が思っているほど暇ではない。色々とやらねばならない事があり、本当に忙しいのである。先代の姿を見て解ってはいたのだが、女将の座を引き継いでみて、自分が思っていた以上の忙しさ、大変さに、先代――己が母の凄さを実感した。お茶を淹れてきますね――と、老人が部屋を出ていくと、彼女はぐるぐると大きく両腕を回し、両頬を軽く叩いて気合を入れて、代々の女将が座ってきた飴色のイスに腰を下ろした。
◆◆◆◆◆◆
「領主様! ラルス様!」
緩やかな坂を、膝の辺りまでスカートの裾をたくし上げ駆け下りてくる少女に、オルヴァーもラルスも一瞬ギョッとしたが、すぐに柔らかく口角を上げて目もとを緩めた。
「やれやれ……お婆様の努力も、あれでは報われませんね。お可哀想に」
「ああ、そのようだ。母上も気の毒に」
くつりと喉を鳴らし、オルヴァーは手綱を馬番の老人に渡すと、ラルスも同じように、自分が乗ってきた馬をもう一人の馬番に預けた。
「あれを母上が見たら、さぞかし嘆かれるであろう」
「ですね。私もそう思います。お婆様はあの子を実の孫娘のように可愛がり、領主代理として忙しい日々を過ごしながらも、時間を割いてあの子を教育されておいででしたから……さぞかしがっかりなさるでしょう」
「で、あるな」
本来、領地の管理は領主の仕事である。だが、領主の大半が帝都にて重要な役職についているため、領地ではなく帝都に住んでいた。彼らが領地に戻るのは年に数回であり、それ故、領主の妻が夫の役目を担うのが通常であった。だがオルヴァーの妻は十七年前にこの世を去っており、その後、彼は独身を通しているため、彼の母であるフレドリカが息子に代わって領内の采配を揮っていた。
フレドリカの夫――オルヴァーの父親で前シェルストム家当主サムエルのお気に入りだったのが、ユリアの母でありヤーレ地区でも一、二を争う人気の娼館【黒蝶館】の娼婦セルマであった。父と娘ほど年の離れている二人の間に、男女の関係はない。それはサムエルがその時既に、男としての機能を失っていたからだ。だからこそフレドリカは、夫が彼女の元に通うことを許し、夫の娼館通いを容認していた。
ある日、セルマからフレドリカに手紙が届いた。内容は季節の挨拶から始まり、サムエルがどう自分との時間を過ごしているかが書かれており、けして奥方様に後ろめたい行為はしていないと、サムエルの潔白を訴えるものであった。どうやら、彼女を快く思っていない誰かから、フレドリカが激怒しているとでも吹き込まれたのだろう。信じてもらいたいという、必死な思いを感じ取ることができた。
本来ならば、こんなものに返事を書く必要はない。だが、美しく流れるような文字と、深い教養がある事を感じさせる文面に、フレドリカはいたく感心した。そして娼婦らしからぬ娼婦セルマに興味を持ち、夫と彼女の関係に関して、潔白である事は自分も知っている旨を書いて送った。
これを機に二人の手紙の遣り取りが始まったのだが、顔を合わせたことが一度も無いままセルマは亡くなってしまった。たかだか一娼婦の葬儀に、領主夫人が参列するわけにはいかず、フレドリカは夫から見せてもらった絵姿でしか彼女を知らない。だが、サムエルを通じて彼女達の間には、友情のようなものが芽生えていたのは紛れもない事実であり、儚げに微笑むセルマのそれを胸に抱き、フレドリカは涙を流し彼女の死を悼んだ。
娼婦であるセルマの馴染み客は、当然のことながらサムエルだけではない。そのため、彼女が身篭った時も、誰もそれが自分の子だとは思わなかった。もちろんサムエルもその一人だ。
華奢なうえ、あまり体が丈夫ではなかったセルマは、お産に耐え切れなかった。彼女は己が命と引き換えに、自分と同じ髪と瞳の色を宿す女児を産んだ。それがユリアである。
父親が確定できないうえ、母を亡くしたユリアを娼館で育てる責任も義務もない。亡母が借金を残したままであったならば、残された子を娼館で育て、十六になったら客を取らせて娼婦にし、母親の借金を回収するのだがセルマに借金はなく、ユリアを孤児のための施設に預けるのが妥当であった。当時の女将も、それがユリアのためだと思い手続きをしようとしていたのだが、彼女の一人娘であるエドラの強い願いと意思により、ユリアはエドラの手で育てられることとなった。
年を重ねるごとに、母セルマに面差しが似てくるユリアを、「一番最初に買いたい」と申し出る客が現れ始めたのは、ユリアが初潮を迎える二年ほど前である。その頃にはエドラが【黒蝶館】の女将となっており、娼館を仕切っていたのだが、いくら彼女が「ユリアは娼婦にしない」と言っても、申し出る客は後を絶たなかった。
日に日に増える申し出に、このままでは自分の知らないところで、無理矢理“女”にされてしまうかもしれない――という懸念が生まれ、エドラは早く対策をとらねばと焦った。泣く事と眠る事しかできない赤ん坊の頃から、エドラはユリアを育てているのだ。己が娘も同然なのである。理由もなく、娘を娼館に売る親がどこにいるというのだ。そんな親はどこにもいやしない。皆、生きるために、泣く泣く娘を手放すのだ。
意を決し、エドラは領主館を訪れた。サムエルは既に亡くなっており、息子のオルヴァーが領主となっていたのだが……彼は偶然にも、前夜帝都から戻ってきていたのだ。エドラは二人に、ユリアを買いたいと言う男達がいる事を話した。
セルマに対し特別な思いがあったフレドリカは、それならば――と、自分の許へ寄こすよう彼女に言った。自分の身の回りの事をさせながら、どこに出しても恥ずかしくない教養と作法を身につけさせましょう――と、そう申し出てくれたのだ。オルヴァーは母が決めた事に自分が反対する理由はないと言って、ユリアが領主館に住むことを承諾してくれた。善は急げと、翌日にはユリアは領主館へと移り、それは現在にまで至っている。
約束を守り、フレドリカは時間を作っては彼女に色々な事を教えた。それこそ貴族の娘にも劣らないほどの教養と作法を、ユリアは彼女からみっちりと教えられ、そしてそれを身につけたはずなのだが……坂を駆け下りてくるあの格好ときたら溜息ものである。きっとあれを見たら、フレドリカは激怒するだろう。年頃の娘が、白い脚を曝け出すなどもってのほかだ――と。そして最低でも一刻ほどは、ユリアへお説教がなされるのは確実だ。
「お帰りなさいませ」
「うん。ただいまユリア。ねぇ、今のをお婆様が見たら、うんと叱られてしまうって解っているのかな?」
くすくす笑ってラルスは、バツの悪そうな顔をしたユリアの頬に優しく唇を寄せてから、「お婆様には黙っていてあげるよ」と囁いた。
「髪を伸ばしているの? 前に見た時よりも、随分と長くなったね。似合っているよ」
彼女の薄い金糸の髪を指で梳き、ラルスは眩しげに双眸を細める。
「もうすぐ十七ですもの、髪くらい伸ばします。そういうお年頃なんですよ。それにねラルス様。ラルス様と最後に会ったのは、一昨年だってこと……覚えてますか? そりゃあ髪だって伸びてますよ」
「はは、そうだったね。ごめんごめん。仕事が忙しくてね、なかなか帰ってこられなかったんだよ」
「どうだか。帝都には、綺麗なヒトが沢山いるって、黒蝶館のお姐さん達から聞いてます。だからなのでしょう?」
嘘はいけませんよ――と、ユリアは拗ねたようにぷうっと頬を膨らませた。そんな彼女の頬を、ラルスはツンツンと突っつく。
「十七になるのだろう? お年頃なのだろう? それなのにそんな顔しちゃダメだよユリア」
「……」
にやりと口端を上げたラルスに、ユリアは更に頬を膨らませる。そんな彼女が可愛くて、もっとからかってやろうかと口を開きかけたラルスを止めたのは、それまで二人の様子を静観していたオルヴァーであった。
「ラルス、久々に会えて嬉しいのは解るが、ユリアをからかうのはいい加減よしなさい。ユリア、早速で悪いが、お茶を淹れて私の書斎まで持ってきておくれ」
「はい、領主様」
すぐにお持ちいたします――と、彼女はちょこんと軽く膝を折ると、屋敷の裏手……使用人の出入り口へと向かって走っていった。その元気な後ろ姿が見えなくなるまで、オルヴァーとラルスは黙って彼女を見つめていたが、その表情は険しく……そして苦渋に満ちていた。
「父上……父上やはり……」
「言うなラルス。言わないでくれ。これしか……もうこれしか、我々には残されていないのだ」
「ですが……」
唇を噛み締め、悔しさに震える息子を抱き寄せて、オルヴァーは天を仰ぎ空を見上げた。白い雲の浮かぶ青い空には、鳥が数羽……大きく羽を広げ気持ち良さそうに飛んでいる。彼等は何ものにも囚われず、どこまでも自由なのだ。羨ましいことよ――と、呟いた声音はあまりにも小さく、ラルスには聞こえなかった。
空を飛ぶ鳥を見ながら、オルヴァーは心の中で今は亡きその人を想い、これから己がやろうとしている事を謝罪する。
あの子一人に重荷を背負わせる事を、どうか許してください――と………………。