11
曲に合わせ踊る二人は、無言で見つめ合う。
言葉を交わそうにも……周囲には人が大勢いるため、怪しまれないよう言葉を選んで話さなければならない。
先に口を開いたのはラルスだった。
「ウルリーカ様、こちらでの生活は如何ですか? もう慣れましたか? 熱など、だしていませんか?」
労わるような声音に、ウルリーカは「やはりラルス様はお優しい……」と心の中で思い、じわりと目頭が熱くなったので、慌ててそれを隠すように双眸を伏せ少し俯いた。
「大丈夫です、ラルス殿。ここでの生活にも、もう随分と慣れました。皆、良くしてくれます」
「……左様でございますか」
ならばようございました――と、ラルスはやんわりと微笑む。だがその目が、本当は笑っていないという事を、誰が気付いていただろうか。
「陛下との仲も睦まじく、安堵いたしました」
「……」
握られた右手に力がこもるのを感じ、ウルリーカはパッと顔を上げラルスを見た。彼の顔を見た瞬間、ウルリーカの唇が小さく戦慄く。自分を見下ろすラルスの瞳が、今にも泣きそうだったからだ。
けれど何故、ラルスがこんな顔をするのか……ウルリーカには解らなかった。ただ自分の所為で、彼がこんな顔をしている事だけは解った。
「ラルス様……」
おもわずそう呟いてしまった。その瞬間、痛いくらい強く右手を握られた。
「ウルリーカ様」
低く、感情を抑えるようにそう呼ばれ、ウルリーカはハッと我に返る。そして自分がガルネリオ皇女であり、ファラフ国王妃である事を思い出した。
「ラルス殿、こちらでの滞在予定は、どれくらいになりそうですか?」
「はい。おそらくではありますが、一月もないかと……」
「一月もない……」
「はい。今回は大使館を建てるために土地を購入し、建物の設計なのどをどうするか決めるだけでして、それらが終われば私は一度ガルネリオに戻ります。経過報告をしなくてはいけませんので。次にこちらに来る時は、おそらく大使館ができてからかと……。その時は、大使補佐官として参ります」
「そうですか……」
一月あるかないか……たったそれだけの滞在で、ラルスはガルネリオに戻ってしまう。次に彼がここに来るのは、どれくらい先になるのか……ウルリーカの胸がツキンと痛んだ。雪が降る前か、それとも………。
「もう少し、こちらに居てくださるのかと思っていましたが……」
「ウルリーカ様」
彼がファラフ滞在中、何回会う事ができるだろうかと考える。後宮に住むウルリーカが、私用で外に出るにはエーヴェルトの許可が必要だ。正当な理由がなければ、きっと出してはもらえないだろう。そうなると、ガルネリオ大使の補佐官として赴任してくるまで、ラルスとはもう会えないかもしれない。
「あの、ラルス殿……わたくし……」
「ウルリーカ様?」
思いつめた様子の彼女に、ラルスの眉根が寄る。
「わたくし……わたくしは……」
己が胸の奥底にあるそれが無くならない限り、いつまで経っても自分はウルリーカに成りきれない。ウルリーカに成るためには……ユリアである自分を完全に消すためには……ラルスにそれを伝えなくてはいけないと、彼がこちらに来る事が判ったあの日から思っていた。
けれども今それを、ここで言うわけにはいかない。
多くの者達が自分達の様子を窺い……多くの者達が自分達の会話に耳を傍立てているのだから………。
「ウルリーカ様?」
怪訝そうに自分を見るラルスに、ウルリーカは唇を噛み締めゆるりと首を振った。
「なんでもありません。あぁ、曲が終りましたね」
「……」
すっと体を離し、ウルリーカは軽く膝を折る。ラルスも胸に右手を当て、小さく頭を垂れた。
◆◆◆◆◆◆
踊る人々の輪の中で、ウルリーカとラルスがいるのを、エーヴェルトは常に視界の隅に捉えていた。二人は何か話しているらしく、唇が小さく動いている。もし彼に読唇術ができれば、何を話しているのか判るかもしれない。だが、それができたとしても、この距離ではとうてい無理な話だ。
「へぇ~上手いね、彼」
「……」
感心したようなその声に、エーヴェルトは僅かに眉を跳ね上げた。
「エーヴェとは大違いだ」
くつくつと愉快げに喉を鳴らし、イクセルは足を組んで玉座に座っている無表情なイトコへ、意地悪な視線を彼の斜め後ろから向けた。
「どうせ俺は下手だよ」
「別にきみが下手だなんて、一言も言ってないだろう? エーヴェ」
「言葉にせずとも、その顔が言っている。イクセル、その薄ら笑いを止めろ。不快だ」
イスの横へと立ったイクセルを、エーヴェルトはチラリと見ると、フンと鼻を鳴らして面白くなさそうに顔を歪めた。
「う、薄ら笑いって……酷いなぁエーヴェ」
これが私の地顔だよ――と、イクセルは肩を竦めた。
「そうそう、例のアレなんだけど……」
スッと腰を落とし、イクセルはエーヴェルトの耳もとに顔を寄せる。腰同様、声の音量も彼は落とした。
「やはりきみの睨んだとおりだったよ、エーヴェルト。アレにはセダリ草の“葉”ではなく“根”が使われていた。特殊な液に、反応したそうだ」
「……」
セダリ草の葉と根では、同じ植物でもその作用が違う。葉は煎じれば便の通じをよくする作用のある薬となるが、その根には強い毒素があり、子を堕胎するために使われている。
「前もって飲んでおけば、子ができたとしても、そうと解らないうちに流れてしまうからね」
「アレはガルネリオの薬師が作ったと言っていた。体の疲れを取るための丸薬だと……」
「小賢しいなぁ。これって、ニクラスの指示だと思うかい?」
「さあな」
「ガルネリオの帝位継承第一位は彼女だが、嫁いだ今、ニクラスの異母弟にそれは移った。けれど彼女に子供が生まれれば、もちろんその子へとそれが移る。そしてその子が皇帝となれば……ガルネリオはファラフの支配下になったも同じだ。だからどうしても阻止したいのだろうけれど……解せないな」
「イクセル?」
「ニクラスはウルリーカを溺愛していたはずだ。セダリの根が含んだものを長く常用していれば、彼女の体がどうなるか……知らないのだろうか?」
「……」
肘掛の先を強く握ったエーヴェルトの目に、曲が終りこちらへと戻ってくるウルリーカの姿が見えた。彼は双眸を細めると、彼女の方を見たまま「別の物と替えてあるだろうな」と、小声でイクセルに確認をする。その答えはもちろん「是」だ。
「すり替えておいたよ。色と形の似ている、体に害のない胃腸薬にね」
味もほとんど同じだと笑ったイクセルに、エーヴェルトはそろりと睫毛を下ろすと、小さく安堵の息を吐いた。それを見て、イクセルの瞳が楽しげに細まり、エーヴェルトの視線の先へと顔を向ける。だが、ふとその顔が曇った。艶やかで美しい髪を結い上げ、王妃の証しである冠を載せたウルリーカは、化粧をしているというのに顔色がとても悪かったからだ。どうやらエーヴェルトもそれに気が付いたらしく、僅かに身を前へと乗り出した。
さらさらと衣擦れの音をさせ、ウルリーカが俯きい加減で玉座の階段を上がる。そして顔を上げ、エーヴェルトを見ると、困ったように首を少し傾けた。
「疲れたか?」
「……はい。あの、退席してもよろしいでしょうか?」
「ああ。構わない。スタファン」
「はっ!」
傍に控えていたスタファンは素早く前へ出ると、スッと右手をウルリーカへと差し出した。
「後宮までお送りいたします」
「ありがとうございます」
その手に左手を乗せると、ウルリーカはエーヴェルトに小さく頭を下げ、そのまま大広間を退出していった。その後ろ姿を黙って見送りながら、エーヴェルトは自分と同じように彼女を見ているイクセルに問う。
「テルエスの件、どうなっている?」
「嫌だなエーヴェ。きみ、私を誰だと思っているんだい」
「……愚問だったな。すまないイクセル」
「解ればよろしい」
にやりと口端を上げ、イクセルはエーヴェルトの肩に手を置くと、軽く二度彼の肩を叩いた。
長い廊下をスタファンにエスコートされながら、ウルリーカは後宮へと向かっていた。上部が半円になっている窓の向こうには、美しい星空が広がり、白く淡い光を纏った月が浮んでいる。彼女は足を止めると、暫しその美しい光景に心奪われた。
「今宵も美しい月ですね」
「そうですね。ですが妃殿下の美しさに比べれば、月などまだまだです」
「まぁ……。スタファン殿ったら、そうやっていつも女性を口説いていらっしゃるのですね。流石は宰相殿の幼馴染みです。宰相殿同様、お口が上手くていらっしゃる」
くすりと笑ったウルリーカに、スタファンは慌てて頭を振った。
「ち、違います!!」
「スタファン殿?」
「口先だけの薄情野郎なんかと、私を一緒にしないでください」
「?」
何をそんなに全力で否定する必要があるのだろうかと、ウルリーカは理解できず首を小さく傾けた。自分に向けられた視線が、酷く訝しげなものだと気がついたスタファンは、慌ててこほりと咳払いをした。
「陛下だって、妃殿下を美しいと思っておいでです」
「……そうでしょうか?」
「そうです。感情をあまり表に出しませんから、判らないかもしれませんが……」
そこまで言って、スタファンは視線を床へと落とした。
「スタファン殿?」
「昔は……ああではなかったんです。陛下は……エーヴェルト殿下は……」
グッと唇を噛み、スタファンは「行きましょう」とウルリーカを促し再び歩き出す。
「私の父は前王の側近で、その関係で私はエーヴェルト様の侍童をしていました。イクセルとは母親同士が友人で、奴とは赤ん坊の頃からの付き合いなのです。イクセルの母親がエーヴェルト様の母君の姉だという事を、妃殿下もご存知ですよね?」
「ええ」
「子供の頃から優秀だったイクセルは、エーヴェルト様の勉強相手にと、王宮に上がっていまして……そこへ私が加わったんです。私は侍童というよりも、学友に近い扱いを受けていました。ですから勉強も剣術も、一緒に授業を受けていたのです」
歴史の勉強が一番退屈だったと、スタファンは歴史学の教師の顔を思い出し、心底嫌そうな顔をした。
「悪戯も沢山しました。その度、エーヴェルト様の乳母にうんと叱られて……シュガルトの王宮の庭に、とても大きくて太い木があるのですが、三人並んでよくそこに吊るされましたよ」
「は?……木に、吊るされた?」
ウルリーカの瞳は大きく見開き、信じられないといった風にスタファンを見る。少し恥ずかしそうに笑うと、本当なんですと彼女の考えを否定した。騎士階級出身のあの乳母は、シュガルトの宮廷内で最強の女性なのです――と。
「エーヴェルト様があんな風に、感情を見せなくなったのは……立太子式をした直後からでした」
そこで口を噤み、スタファンは足を止めると、左手の指先を顎へと当てた。
「スタファン殿?」
黙ってしまったスタファンに、ウルリーカは不安げに眉根を寄せる。王太子となったエーヴェルトに、何があったというのだろうか?
「ウルリーカ様」
「はい」
ゆっくりと視線をウルリーカへと移したスタファンは、真剣な面持ちで彼女を見つめた。
「エーヴェルト様を……貴女はどう思っていますか?」
「どう……とは?」
ごくり――と、小さく息を飲む。
「好きか否か――という事です」
「スタファン殿……」
「ウルリーカ様……もしや貴女はその心に、別の男を住まわせておいでか?」
「……」
己が腕に置かれたウルリーカの指先が、ピクリと小さく跳ねた事を、有能な近衛騎士は見逃さなかった。