01
豪奢なイスにふんぞり返るように座っているガルネリオ帝国皇帝ニクラスは、目の前に立つ内務大臣オルヴァー=シェルストムを、嫌なものでも見るような目で見下ろしていた。
「しつこいぞオルヴァー。余は皇女を蛮族になど嫁がせぬ。皇女が可哀想ではないか」
「ですが陛下……そうしなければこの国は……」
その先の言葉を濁すオルヴァーに、ニクラスの口端の片方がピクッと跳ねる。仄暗い光を含んだ焦げ茶色の瞳を眇め、皇帝のみ持つことを許されている聖杖で、彼は美しく磨かれた床をドンドンドンと乱暴に三回突いた。
「オルヴァー、そちはガルネリオの兵が負けると言いたいのか? 自国の兵達を、そちは軽んじるのかっ!?」
唾を飛ばしながらがなるニクラスに、顔を僅かに顰めたオルヴァーではあったが、すぐに表情を消し、常である感情の読み取れない顔で、数段上の玉座でこちらを睨む皇帝を見上げた。
「そうではありません。事実を――わたくしは事実を申し上げているだけでございます陛下。ファラフは今一番勢いのある国。しかも、彼らは戦に長けております。今は停戦状態ゆえ、かの国も国境近くにて留まってはおりますが、再び戦が始まればおそらく三日ほどで、この帝都レブルに攻め入ってくるでしょう。そうなってしまったら最後、もう引き返すことはできません。帝都の民を巻き込んでの戦いになりましょうぞ。そもそも、これまでの彼らの戦いぶりが、常のそれではないのを、陛下は御存知であられるか? まるで児戯のごとく、こちらをからかうような戦ぶりでございます。その証拠にファラフ側の被害は、我が国の半分にもなっておりません。半分の、さらに半分になるかならないか程度なのです」
「な、なんと……」
「陛下……彼らが本気になれば、一日もかからずに、このレブルは陥落するでしょう。何故だかお解りになりますか?」
ゆるりと首を振ったニクラスに、オルヴァーは灰色の瞳を細める。
「長きに渡る安寧に慣れ過ぎた我が国の軍事力は、悲しいかな……低下しきっているからでございます。それに比べてファラフは……恐ろしいほど強大な力を有しております。かの国は、始まりは国とすら呼べない小さな集まりでしかなかったものの、力のみで周辺を屈服させていきました。先王の時代にファラフは国となり、そして現王によって強大な軍事力を有する大国へとのし上がっていった。そんな彼等に、我々が敵うと、本気で思っておいでなのですか?」
「オルヴァー……だ、だが……」
「お解りですか陛下? 貴方は全てを失うことになるのです。地位も、名誉も、この国さえも」
それでもよろしければ、同盟は破棄いたしましょう――そう言ったオルヴァーに、ニクラスはぐにゃりと顔を歪ませた。
「……そちは娘を持たぬゆえ、そのようなことが言えるのだ」
「……」
憮然とした様子のニクラスに対し、オルヴァーは半眼を伏せる。確かに娘はいない。彼には息子のラルスだけであった。
「それではウルリーカ様の……」
輿入れを――と言いかけたオルヴァーの、唇がその動きを止めた。いつからそこにいたのか……儚げなではあるものの、その中に凛とした気品を持ち合わせた女性が、玉座の傍にある扉の前に立っていたのだ。
「帝妃、様……」
「内務大臣、やはりその件……飲まずに済ますことは、絶対にできないのでしょうか?」
美しい顔を曇らせた皇帝の妃ディルダは、さらりと衣擦れの音をさせながら玉座の階段を上がると、憮然とした表情の夫の脇へと立つ。顔を強張らせているオルヴァーへと、彼女は物憂げな瞳を向けた。
「帝妃様……それは無理でございます。皇女様が輿入れし婚姻関係を結ぶことにより、外敵からこのガルネリオを守ってくれるのですから」
「それは解っています内務大臣。ですが……その……実の娘であるのに、このような事を言うのは気が進まないのですが……。ウルリーカの“噂”を、貴方は知っていますか?」
「噂……」
何の事かと首を捻るが、だがすぐにオルヴァーは、ディルダの言う“噂”が何であるのかを思い出した。巷では、ウルリーカは母ディルダに負けず劣らず美しい――という“噂”が流れていて、しかもそれが定着してしまっているのだ。当然これは他国にも流れているわけで……ファラフ側も知っているはずである。だからこそ、彼等は皇女の輿入れを条件に入れてきたのだ。美しい皇女ウルリーカの、ファラフ国王エーヴェルトへの輿入れを。
「帝妃様……もしや……もしやウルリーカ様は……」
嫌な予感がする。オルヴァーは表情こそ変えなかったものの、背中に生ぬるい汗が流れた。
「皇女は妃にではなく、オルヴァー……余にそっくりなのじゃ」
「……」
「余にの、瓜二つじゃ」
くふりと笑ってニクラスは、ウルリーカをここへ連れてくるよう控えていた侍従に言いつける。ほどなくして、ヴェールを被った皇女が広間へとやってきた。ニクラスは自分の傍にくるよう手招きをすると、皇女ウルリーカは父皇帝のいる玉座の横へと立った。
「お父様、何か御用ですの?」
「おお、余の可愛いウルリーカや。そちの顔を皆に見せてやりなさい」
「あら、よろしいのですか?」
「事情があってな、そうしなければならないのだよ」
分かりましたわ――そう言って、ウルリーカの指がヴェールにかけられ、するりとそれを引き落とした。
オルヴァーを始め、その場にいた者全員が息を飲む。ニクラスの言ったとおり……ウルリーカは母ではなく、父にそっくりだったのだ。しかも美しいという言葉が当て嵌まらないだけでなく、顔の半分に酷く醜い火傷の痕があったのだ。
唯一、皇女が美しい母と同じであったのは、瞳の色だけである。光の加減で琥珀色になる、不思議な色合いの瞳だけであった。
「もし……この子をファラフ王に嫁がせたとしても、あちらはこの子を偽者だと言うかもしれません。ウルリーカ本人だと言っても、おそらく信じてはくれないでしょう。それにこの痕……」
そろり――と、ディルダは娘の火傷の痕に触れる。八年前の火事で負ったものだ。その時の事を思い出し、ディルダの瞳にじわりと涙が浮かぶ。何故なら、出火の原因は他の誰でもない……彼女の不注意からだったからだ。
「お母様?」
「何でもありませんよウルリーカ。さぁ、貴女はもう部屋にお戻りなさい。エンマ、エンマ」
名を呼ばれ、ウルリーカの侍女がスッと前へでる。彼女にウルリーカを連れて行かせると、ディルダは驚きを隠せないでいるオルヴァーに弱々しく微笑んだ。
「内務大臣……これで解ったでしょう? それでもあの子を、貴方はファラフへやりますか? かの国から、反感を買うのではありませんか? もしかしたらそれを理由に、再び戦を仕掛けてくるかもしれません」
「帝妃様……」
「それに本物のウルリーカだと納得してもらえても、おそらくアレでは……あの子は、あちらであまり良い扱いを受けないでしょう。そうなると、もしガルネリオが他国に攻められても……ファラフは助けてはくれますまい」
それでもあの子を嫁がせるのか――と、ディルダはオルヴァーを真っ直ぐ見つめた。
◆◆◆◆◆◆
「困ったことよ……」
ゆるりと頭を振り、オルヴァーは執務机の上に広げたその書面をちらりと見やる。先日ファラフ側から出された同盟の条件の数々が書かれたそれは、以前こちらが出した一方的なものではなく、ガルネリオへの配慮も充分されているものだった。よくよく読めば、当然のことながらファラフ側に有利だ。だがガルネリオに過剰なまでの損失があるわけではない。
完璧だ――彼はそう思った。だが、ただ一つだけ……無茶なものがある。
「ウルリーカ様の輿入れ、か……」
ぐっと顎を引き深々と溜息をつく。これさえなければ、今日にでも同盟の調印をしているだろう。
「父上……」
心配そうに己を見る息子ラルスに、彼は辛うじて口端を上げた。だが、ラルスはきつく眉根を寄せ、唇をぐにゃりと曲げる。
「そんな顔をするなラルス。色男が台無しだぞ」
「父上……私の顔の造作など、どうでもいいことです。それよりも例の件……どうなさるおつもりですか?」
「……どうしたものか」
ガルネリオ皇帝の愛娘が、“噂”通りの美姫であったならば問題はなかった。そうであって欲しかった。
「彼女を皇帝皇女だと言っても、帝妃様の言われるように、ファラフ側は納得しないだろう」
謀られたと怒って、国境に留めてある軍を進めてくるのは確実である。そしてあっという間に、ガルネリオはファラフに奪われてしまうだろう。そうなったらこの国の民はどうなる? 財産だけではなく、生きる希望をも失うことになるだろう。それだけは絶対に避けねばならない。皇帝のためではなく、この国の民のために………。
「領地に戻る」
「は? 領地に戻るって……」
今この時期に何故?――そう問うラルスに、オルヴァーは表情を引き締め、その理由を話した。それを聞き、そんな事が許されるのですかと、息子は不安げな顔で父を見る。
「許されはしまい。だがなラルス……この際、奇麗事を言ってなどいられないのだよ。この国を守るため……ガルネリオの民を守るため……残された道はもうそれしかないのだ」
「で、ですが……ですが父上、それでは……」
「陛下の首一つで、この国が守れるのであれば、我々はすぐにでもそれを実行しただろう。だがそうではない。ウルリーカ様を……陛下の愛娘である“美しい皇帝皇女ウルリーカ様”を差し出さなければ、この国も……この国の民達も……何も……何も守れないのだ」
「父上……」
オルヴァーは息子の肩に手を置くと、ぎゅっと強く掴んだ。この事を陛下に伝えてくると、彼は苦渋な表情のまま執務室を出て行く。そんな父の後ろ姿を、ラルスは遣る瀬無い気持ちで見送った。
パタリ――と、扉が音をたてて閉まると、室内にはラルスだけとなった。
「ですが……ですが父上……守るべきはずの民を犠牲にするのはおかしい……おかしいです……」
強く拳を握り締め、彼はそっと目を閉じた。領地に住むあの少女は、きっとこの話を承諾するだろう。最初から彼女に、拒否権などないのだから。
「あぁ……」
これがどんなに重く厳しいものか……それを解っていながら父は、彼女にこれ以上ないであろう苦汁を強いるのだ。この国のために――と………………。
「本当は嫌なのに……それでもきみは行くのだろうね……」
静かに息を吐き出すと、ラルスはゆっくりと目蓋を上げた。彼の青味がかった灰色の瞳に浮かぶのは、今ここにはいない、誰よりも大切な少女の姿……。戦慄く唇でその少女の名を呟くと、ラルスは両手を強く握り、拳を震わせながら唇を強く噛み締めた。