06
ファラフの王都が正式にネルンへと移ったのは、エーヴェルトがファラフ王に即位してからである。王宮の一部は今も建築中であり、全てが終わるのは来年の夏頃の予定だ。わざわざ都を移す必要はないと言ったエーヴェルトを説き伏せたのはイクセルで、それはもちろん今後の事を考えてである。
元々ネルンはファラフの領土ではなく、戦によって奪った土地である。
ここを治めていた一族が使っていた城をそのまま使う手もあったのだが、イクセルの審美眼に適わなかったため、全て取り壊してしまった。それがいけなかたのか……建設費用が予想以上にかかり、それはイクセルの頭痛の種となった。
国庫に大きな負担をかけるほどではないが、華美を好まないエーヴェルトにとってそれは不快であり、月末にかかった建設費の報告をするたび、イクセルは彼に嫌味を言われている。
そして今まさにイクセルは、その報告書と新たに必要となった建築材の見積書を書いているところであった。
「なぁイクセル、陛下が居ないんだけど……お前知らないか?」
「……はぁ?」
がしがしと後頭部を掻く幼馴染みに、イクセルは傍にあったインク壺を投げつけた。
「うおっ! 危ねぇなイクセル、何すんだよ」
寸でのところでスタファンはそれをかわし、執務机の向こうから自分を睨んでいる宰相に抗議する。インク壺は壁に当たって割れてしまい、壁から床にかけてインクが飛び散ってしまった。
「スタファン、お前の仕事は何だ? あ? 近衛だろ? 国王の護衛だろう? そのお前がエーヴェの居場所を知らないなんて、職務怠慢じゃないのか? 今すぐクビにするぞ!!」
「あのなぁ、近衛って言ったって、四六時中陛下にくっついているわけじゃねぇんだよ。そんなの、お前だって知ってるじゃねぇか!!」
どかりと長イスに腰を下ろすと、スタファンはムッと唇を曲げた。自分を見るイクセルの冷やかな視線に負けじと、彼も鋭く挑むように不遜な態度な宰相を見やる。幼馴染みだからこそ許される態度であり、そうでなければスタファンは処罰されているだろう。
「ったく、もうすぐ使節団が到着するってのに……どこ行ったんだよ、ウチの王様は」
「……知るか」
「そういえば大使館の準備とかって、別口も来るんだっけか?」
「ああ」
「ふぅん……」
忙しないな――と、スタファンは深く息を吐き出した。
◆◆◆◆◆◆
ガルネリオ帝国から出るのは、これが初めてではない。だがラルスは、自分が酷く緊張している事に気がつき、自嘲の笑みを漏らした。周囲に誰も居ないから良いようなものの、もし、誰かに今のを見られたら……少々恥ずかしかったかもしれない。
「おおラルス、ここにいたのか」
「ハインツ殿……」
外務大臣補佐官のハインツは、少々寂しくなった頭を撫でながらラルスの横へとやって来ると、船縁に両手でしっかりと掴まり「船は苦手だ」と呟いた。確かににそうだとラルスも思う。頻繁に乗る機会があるのならまだしも、滅多に乗らない者にとって、船旅とは苦痛以外の何者でもない。
「先ほど船長に聞いたのだが、昼過ぎには入港できるようだね」
「はい。そのようです」
この二人、目的地は同じであるが、そこへ行く目的が違っている。ハインツは使節団の団長として、ファラフへと向かっているのだが、ラルスは大使館の準備のためであった。同じ船にしたのは、出向手続き等の手間が省けるという理由からだ。
「そういえばブライン殿はどうした? 出港してから、彼をあまり見てはいないような気がするのだが……今どこに居るのだね?」
ハインツは眉根を寄せ、もしかして船酔いで臥せっているのかと問うた。それに対し、ラルスはゆるりと首を振る。
「副大臣でしたら、食事の時以外は船室で寝ている事が多く、おそらく今もそうだと思います。この機会に寝不足を解消するのだと、そう言っておられました。船の揺れが心地良い睡眠をもたらしてくれるそうですよ」
苦笑するラルスにハインツは、「肝の据わった男だ」と呆れたように目を見開き、口をおもいっきりへの字に曲げた。
「さて、入港するまで私も部屋で休んでいるとしよう。特にする事もないしな」
「ええ。その方が宜しいでしょう。少々お顔の色が……」
「あぁ、軽い船酔いでな。しかしこれは、陸地に降りても当分は治まらんだろう」
今度は陸酔いだ――と、生唾をゴクリを飲み込んで、ハインツは船室の方へと戻っていった。その後ろ姿に、ラルスは軽く頭を下げると、さらりと前髪を搔き上げて、再び視線を海の方へと向けた。
もうすぐだ。
もうすぐなのだ。
もうすぐユリアに会える。
知りたい事は山のようにある。けれどまず一番最初に確認したいのは、元気でいるのかどうかだ。ユリアがウルリーカとしてファラフに嫁ぎ半年が過ぎた。その間、便りは一度もない。当然といえば当然なのだが……それはラルスを酷く不安にさせた。口には出さないものの、彼の父・オルヴァーも同様で……ソニエルから自分の補佐官として一緒にファラフへ行ってほしいと言われた時、ラルスは迷うことなく承諾した。
「ユリア……」
領地にいた頃の、あの華が綻ぶような笑顔を、帝都の皇宮に移ってからは一度も見る事はなかった。不安げに眉根を寄せ、唇を噛み締める顔ばかりで……ラルスがおどけて見せても、口端は軽く上がるものの瞳は笑ってはいなかった。
「ファラフの王宮でも、きみはそうなのだろうか……」
深く息を吐き、ラルスは視線を海から空へと移す。
海同様青く澄み渡った空に、海鳥が鳴きながら飛んでいる。それを眺めながらラルスは、己が背に翼が欲しい強く願った。翼があれば今すぐ飛んで行けるのに……あの子をファラフの王宮から救い出し、領地へと飛んで帰る事ができるのに―――と。
「ハッ、愚かな……」
ポツリとそう呟いたラルスの耳に、「何がだい?」と間延びした声が聞こえた。
「ブ、ブライン副大臣っ!!」
振り返るとそこには、銀色の髪を首の横で緩く一つに束ねたソニエルが立っており、ラルスの背中が冷やりとした。いくら波の音がするとはいえ、足音が聞こえないわけではなく……いくら思案に耽っていたとはいえ、誰かが自分に近づいてくればすぐに判る。だが、ラルスは声をかけられるまで、ソニエルの存在に気がつかなかったのだ。
「何をそんなに驚いているんだい、シェルストム君。おや? 向こうにうっすらと見えるのは陸地かな? この分だとあと少しで到着するというところだね。しかしあれだねぇシェルストム君。海路は退屈で仕方がないね。やはりここは、時間がかかっても陸路で行くべきだったよ」
欠伸を噛み殺し首の後ろを掻くと、ソニエルは船縁に背を預け「船じゃ娼館には寄れないからね」と肩を竦めた。本気なのか冗談なのか……ラルスの頬がひくりと軽く引き攣る。彼とて男だ。ソニエルの気持ちも解らなくはないのだが……それほど性欲が強いようには見えないので、ソニエルの言葉は意外なものだった。
「ねぇシェルストム君」
「はい」
「きみ、記憶力は良い?」
「は?」
何が言いたいのだと顔を顰めるラルスに、ソニエルは氷蒼の瞳を細め顔を少し近づける。
「この船に乗っている連中の顔……一人残らず覚えておきたまえ」
「は?」
「使節団のジジイどもだけじゃない。彼らの身の回りの世話をするために付いてきている下男や、この船の船員達……それに厨房にいる料理人もだ」
「ブ、ブライン副大臣、それは一体……」
目を見開いているラルスに、ソニエルは薄くひっそりと笑うと、顔をさらに彼に近づた。
「ネズミがね、紛れ込んでいるのだよ。この中に……」
楽しげに囁かれたそれに、ラルスの目がさらに大きく見開いた。
ヨーテの港に船が到着したのは、船長の言ったとおり昼を過ぎた頃だった。
出迎えた海軍提督レオナルド=ヘレニウスの館で軽めの昼食をとると、小一時間ほど休んだ後、一行は馬車にて王都ネルンへ向かった。
ヨーテからネルンへは二日ほどかかるのだが、宿場町に入るには人数が多過ぎるのと、かなり目立ってしまうため、ヘレニウスが手配してくれた場所――貴族や豪商の屋敷――に泊まった。
彼等がネルンに到着したのは、ヨーテを出た二日後の夕方前である。
王宮近くにある迎賓館へと入館すると、出迎えの騎士やその見習い達がおり、彼等の手を借りて次々と馬車から荷物が館内へと運ばれた。だが、そこから先は自分でやるしかないので、各自荷に付けられた札を見て、自分のかどうかを確認した後、割り当てられた部屋へと荷物を運んでいった。
夕食は使節団組と大使館組とに席を分けての食事であった。
ソニエルは明日からの予定を話しただけで、後は食べ終わるまで無言だったが、それは彼が口数の少ない男だから――ではない。疲れているからなのだが、ファラフの料理の味がどれも濃くてくどいせいでもあった。
ガルネリオ人には、ファラフの料理は塩辛いと聞いていた。なので覚悟はしていたが、出されたそれは確かに濃かったものの、食べられないほどではなった。だが、濃いものは濃いのだ。皆、半分近く残してしまった。
ユリアはいつもこんな物を食べているのか――と、ラルスは双眸を軽く伏せると、果実酒を一口飲む。リンゴの味のそれは、甘酸っぱくて美味しかった。そこでふと、祖母フレドリカご自慢のリンゴのパイを、ユリアに食べさせてあげたいと思った。祖母が唯一作れるもので、幼い頃より彼女はそれが大好きだったからだ。もちろんラルスも好きではあるが、成長すると共に、甘い物は好んで食さなくなった。
何とも言えない食事を終え部屋に戻ると、ラルスは上着を長椅子の背に放り、寝台の上でごろりと寝転がる。
深い青をした天蓋の布を見ながら、彼はソニエルが船上で自分に言った言葉の意味を考えた。
「ネズミとは……どういう事だ? 間諜という事か?」
彼の言う“ネズミ”とは、帝国の裏切り者なのか、それともファラフの裏切り者なのか、考えれば考えるほど頭の中が混乱してくる。そもそもソニエル自身、ラルスにはよく解らなかった。
「あの方は謎だらけだ」
ふうっと息を吐き出し、勢いをつけて起き上がると、明日着ていく服の手入れを始める。柔らかなブラシで埃を払い、汚れはないかと念入りに確認をした。
「ユリア……」
明日、彼女に会える――ラルスはブラシの柄を強く握り締めると、どうかガルネリオにいた頃のような笑顔を見せてほしいと願った。
このファラフで幸せであると、安心できるようなそんな心からの笑顔を………。