05
お気に入りのカップでお茶を飲みながら、テルエスは庭の東屋で絵を描いていた。ブローム家の庭には、彼女の亡くなった母が愛した小ぶりな薔薇が咲いており、可憐なそれをテルエスを描いているところだ。
幼い頃より、テルエスは絵を描くのが好きだった。周囲が気をつけていなければ、食事もとらずにずっと描いている。集中力があるのは良い事ではあるが、さすがに食事抜きは宜しくない。故に、ブローム家の侍女達は、彼女が絵を描き始めると、できるだけこまめに様子を見にいくよう侍女頭から言われている。先ほども古参の侍女が軽食を東屋に運んできて、強制的それを食べさせた。今、東屋のテーブルの上には、すっかり冷めてしまった紅茶の入った茶器と、貝殻のような形の焼き菓子が乗った盆が置かれている。
「やあ、楽しそうだねテルエス」
不意に名前を呼ばれ、テルエスは絵紙から顔を上げた。いつもの漆黒の衣装ではなく、青色の服を着ていたたので、誰だか判断するまで少し時間がかかってしまった。
「まあ、イクセル様ではありませんか!?」
お久しぶりです――と、テルエスは立ち上がると、東屋の三段階段を踏まずに地面へと飛び降りた。それを見てイクセルは苦笑する。こんな姿を彼の幼馴染みが見たら、どう思うのだろうか? 百年の恋も冷めてしまうかもしれない。
「父でしたら、まだ戻っておりませんが?」
軽く首を傾げ、テルエスはイクセルを見上げる。
「たまたま近くを通ったものだから、きみの顔でも見て帰ろうかと思ってね。元気そうで良かった」
柔らかな笑みを浮かべイクセルは、彼女の右手を掬い上げると甲に軽く口づけた。
「イクセル様も、お元気そうで何よりです」
以前、彼女が彼を見た時は、寝不足からか顔色があまり良くなかった。ちょうどその頃、帝国との同盟のために色々とやっていたからだ。
「立ち話もなんですから、どうぞあちらへ」
「ああ」
イクセルは促され、東屋へと上がると、大理石のイスに腰を下ろす。柔らかなクッションが置かれているので、硬さも冷たさも感じない。ちょうど良いすわり心地だ。
お茶を持ってきてもらうと、テルエスが体を半分捻ったところへ、屋敷の方から侍女頭がやってきた。どうやら彼が来た事を門番から知らせれていたようで、白髪をきっちりと結い上げた彼女が手に持っているのは、新しいお茶が入った茶器の乗った盆であった。
「いらっしゃいませ、宰相様」
「やあ、久しぶりだねヨハンナ。もしかしてそれの中味は薔薇茶かい? だとしたら嬉しいんだけど」
「さあ、どうでございましょう」
うふふと笑いながら、ヨハンナはテーブルの上に盆を置くと、カップに茶をトポポと注ぐ。赤茶色のそれから仄かに香るのは、イクセルが最も好む薔薇の香りであった。
「あぁ、いい香りだ。ヨハンナは私の好みを良く解っているね。さすがだ」
「ありがとうございます」
失礼いたします――と、軽く一礼してから、ヨハンナは洗練された動作で東屋から屋敷へと戻っていった。彼女の姿が見えなくなると、それまでイクセルの口もとに浮かんでいた笑みが消えた。
「テルエス」
「はい」
「その後、どうだい?」
「……」
探るようなイクセルの表情に、テルエスは苦笑する。彼がやって来たのはたまたまではなく、それが訊きたくてわざわざ彼女の所へやって来たのだ。
「特にこれといって……」
「そう。それならいい」
何かあったら、すぐに知らせておくれ――と、イクセルは表情を引き締める。テルエスもまた神妙な面持ちで頷いた。面倒事は起きてほしくないし、巻き込まれたくも無い。ちょっとでもその予兆があったならば、それを全力で回避するのが一番だ。
「ところでイクセル様、陛下と妃殿下のご様子はどうですの? 父が申すには、だいぶお二人の距離も縮まってきたとか……」
「んーだと良いんだけどねぇ……。彼女には悪いが、エーヴェが後宮に行くのは、牽制の意味合いが強いかな」
愛からではないんだよ――と、イクセルは軽く眉根を寄せた。それを聞き、その意味を充分過ぎるほど解っているテルエスの眉間にも、深い皺が刻まれる。
女ならば誰しも、相手から愛され、そして望まれた結婚をしたい。
だが、エーヴェルトとウルリーカのそれは違う。
「国と国との結婚だからね、二人の間にそれを望むのは難しいだろう。しかもエーヴェは彼女を、妻ではなく“帝国が裏切らないための人質”として見ている部分がかなりある」
ふるりと頭を振るイクセルに、テルエスも悲しげに溜息をついた。
「仕方がないのかもしれませんが、ですがわたくしは、陛下ならばと思っておりました」
陛下ならば、政略結婚でも相手を幸せにしてくれる――と。
「そうだね……」
テルエスにも言える事なのだ。貴族の婚姻は、個人の想いでどうこうなるものではない。家と家との繋がりのためだけに婚姻を結ぶのだ。愛からではない。
だが、そこに愛情が芽生え、幸せな家庭を築く場合もある。
けれどそれは稀だ。
大半が早々に子供をもうけ、その後は互いに愛人を作り、会話も触れ合いも無い夫婦となる。
そのどちらが幸せか……本当に幸せなのは、想い想われての婚姻で間違い無い。だが、政略結婚となると、やはり前者なのだろう。
自分はどうなるのか、それはテルエスにも判らない。父親からは何も言われていないが、いずれ夫を迎える事になるだろう。兄弟姉妹がいないのだから。それが想う相手であればとは思うが、そう世の中甘くは無い。
一つ、心に決めている事がある。
例え政略結婚だとしても、例え夫が愛人を作ろうとも、自分は夫だけでいよう――と。
愛されなくても、愛せなくても、夫として相手を支えよう――と。
「あぁそういえば……帝国から使節団が来ると、父から聞きましたが」
「面倒な事にね。来ちゃうんだよ」
大使館をファラフに置くために、その関係者も一緒に来るのだと、イクセルはおもいっきり面倒臭そうに大きな溜息をついた。
◆◆◆◆◆◆
高い壁を見上げ、ウルリーカは瞳を細める。紅を刷き赤味を帯びた唇から漏れるのは溜息ばかりで……傍で控えていたデジレが「幸せが逃げてしまいますよ」と、大真面目な顔でそんな事を言った。
幸せなど、すでに自分から逃げてしまっている――ウルリーカは内心でそう呟き、曖昧な笑みを浮かべる。
「今日も良い天気ね」
青く澄み渡った空を、小さな鳥達が飛んでいる。ウルリーカはそれを見ながら、どうして人には翼がないのだろうかと、そんな事を考えた。翼があれば、今すぐここから飛び去れるのに――と。
「王妃様、そろそろ中へ戻りましょう」
「あら? まだいいでしょう」
「ですが……」
デジレはキョロキョロと周囲を見渡す。ウルリーカはそんな彼女の行動に首を傾げた。ここは後宮という名の、美しく頑丈な檻だ。高い壁に囲まれ、出入りする者も制限されている。唯一の出入り口である大扉の前には常に兵士が二人おり、不審者が入り込む隙はない。
「その……王妃様のような白い肌の方には、この強い日差しは良くありませんので……」
「……まあ」
最もらしい理由を言ったデジレに、ウルリーカは眉を顰めつつも、彼女の意見に従う事にした。それにいつまでもここにいては、“外”へ出たい欲求が高まってしまうのも確かだ。
ゆっくりとした足取りで室内へと戻った彼女を待っていたのは、ガルネリオから届いた手紙だった。封蝋の印に見覚えはなく、ウルリーカはエンマを見る。
「外務副大臣ソニエル=ブライン様からにございます」
「外務副大臣?」
面識はないものの、彼の名前だけはウルリーカも知っていた。
「はい」
「何かしら?」
ソニエル=ブラインは下級貴族出身の文官である。領地は帝都からかなり遠いものの、温暖な気候のお陰か農作物の収穫も多くあり、昔からブライン家の財産は豊かであった。だからといって、贅沢をするわけではなく、帝都に済む貴族と比べ生活は質素であった。けれど領地に何かがあれば、惜しみなく私財を使うので、領民達から絶大な信頼を寄せられていた。
ブライン家当主の家族はソニエルしかいない。本当の家族は皆、流行り病で亡くなっており、遠縁の彼を養子に迎えた。ソニエルは帝国ではかなり珍しい銀色の髪をしていて、その所為でどこにいてもよく目立っていた。
だが、それだけが理由ではない。彼はかなり整った容貌の持ち主で、湖面を思わせる氷蒼の瞳が美しく印象深いのだ。
物腰も口調も柔らかく美男子なうえ、まだ三十代前半であるにもかかわらず、異例の早さで出世したやり手である。彼の妻になりたいと、その座を狙っている貴族令嬢は多い。だが、何だかんだと理由をつけて、ソニエルは彼女達を上手にかわしていた。その所為で、男色ではないかと噂があるくらいだ。もちろんそれを流したのは、彼に嫉妬している者達か、彼に見向きもされず自尊心を傷つけられた令嬢達のどちらかだろう。
ソニエル殿を落とすのは、湖面の月を掬うようなものだ――と、苦笑しながらラルスが、そう話してくれたのをウルリーカは覚えている。
「でも何故彼がわたくしに……」
解せない様子のウルリーカである。それはエンマも同じだったようで、軽く首を傾げた。
長イスに座り、小さなナイフで封を切る。丁寧に四つ折りにされた手紙を開くと、そこには流れるような美しい文字が並んでいた。
時候の挨拶から始まるそれは、ガルネリオ大使として、自分がファラフに赴任する事が決まった旨が書かれてあった。赴任するのはまだ先であるが、準備のために近々ファラフに行くという事も……。わざわざそんな事を知らせる必要など無いのに――と、ウルリーカは深く息を吐き出し二枚目へと移る。
「えっ……」
そこには彼と共にファラフに赴任する者の名前が記されており、その中に、彼の補佐官としてラルス=シェルストムの名が一番最初に書かれてあった。