04
朝議を終え、休息のために私室へ戻ろうとしたエーヴェルトを、外務大臣ニルス=ブロームはこの機を逃してはいけないと、慌てて若き国王を追い駆け呼び止めた。
「使節団、だと?」
「はい。ガルネリオ皇帝が、ウルリーカ様の御様子を知りたがっているとかで……」
ウルリーカが輿入れしてから、既に四ヶ月が経っている。否、まだ四ヶ月しか経っていない。いくら溺愛しているひとり娘でも、些かこれは不自然だ。
「そうか……」
エーヴェルトは藍色の瞳を少し伏せると、顎を指で撫でながら、ガルネリオ側の思惑が何であるのかを考えた。
だが、今のガルネリオに何かができるはずもなく……仲睦まじいところでも見せつければ、ウルリーカがファラフで大切にされていると思い、使者達も安心して帰るだろう――そうエーヴェルトは結論付けた。
「構わん。好きにさせろ」
「よろしいのですか?」
「ああ。帝国はウルリーカの状況と、俺との夫婦仲を確かめたいだけだろう。何か問題があれば、それを理由に文句を言うつもりかもしれんが」
「で、ありましょうな……」
ふっと目もとを和らげ、ニルスは「一昨日もお渡りだったそうで」と、息子を見るような目でエーヴェルトを見た。
昼夜を問わず後宮へ足繁く通われても困るのだが、まったく訪れないのも問題である。結婚後一ヶ月が過ぎても王妃の許へ行かない国王を見て、ガルネリオの皇女との結婚を反対していた一派から、早々に陛下に側室をという声が上がった。
それだけならまだ良い。そのうち彼等は候補者名簿なる物を作成し、それを宰相イクセルに提出したのだ。これにはニルスも眉を顰めたが、その筆頭が己が娘であると知り、呆れ過ぎて怒る気にもなれなかった。
だが何も手を打たずにいるうちに、エーヴェルトの生母であり前国王の側室であったグンネルが、テルエスが後宮に上がりエーヴェルトの側室になることを推している――と、ニルスの耳に入った。これは早急に手を打たなくては大変な事になる――と、慌てたニルスであったが、対策を打つ前に、エーヴェルトが後宮に渡ったとの報せが入った。しかも昼に後宮入りした彼が本宮に戻ってきたのは夕方であり、人払いをした部屋で何が行なわれていたのか……それは女官長によって、速やかに宰相へと報告されたのである。
以来、エーヴェルトは毎晩――ではないものの、後宮へと渡るようになり、王妃と共に過ごし朝を迎えている。
「誰が来るのか、それは判っているのか?」
「はい。数名の名前があちらの外務大臣からの親書の中に書いてありました。それと、こちらにガルネリオの大使館を置きたいと……」
それを聞きエーヴェルトは小さく頷く。
「後で俺の所へそれを回しておけ」
「畏まりました陛下」
恭しく頭を垂れたニルスに背を向け、エーヴェルトは踵を返すと、カツカツと踵を鳴らしながら私室へと向かった。だが途中で足を止め、私室とは違う方へと体の向きを変える。そして中庭へと降りると、ここ二ヶ月の間に通い慣れた場所へと向かった。
大きな噴水の横を通り大扉の前に立つと、房の付いた深紅色の縄を引き呼び鈴を鳴らす。ほどなくして、ギィィィと軋む音がして大扉が開かれた。
「おいでなさいませ、国王陛下……」
膝を曲げ軽く頭を垂れる女官長を一瞥し、エーヴェルトは目的の部屋へと急いだ。扉の前には誰もなく、開けば控えていた侍女が慌ててイスから立ち上がり腰を折る。それを一瞥し、エーヴェルトは室内へと通じる扉を開いた。
「エーヴェルト様……」
先触れもなくやってきたエーヴェルトに、ウルリーカはパチパチと数回目を瞬かせる。そんな彼女の顔に気を良くしたのか、緩く口端が上がったエーヴェルトだったが、彼女の目の前にあるテーブルの上に置かれた小瓶に目が留まった。
「これは何だ?」
それを手に取り、エーヴェルトは目を細めた。レースのハンカチに刺繍をしていたウルリーカであったが、それを膝の上に置き、彼が持っている小瓶を見て「ああ」と小さく頷いた。
「ガルネリオの薬師が、わたくしのためにと調合してくれた丸薬です」
「ガルネリオの?」
「はい。エンマが言うには、その……痛みや疲れに効果があるとかでして……」
そこで僅かに顔を顰めたウルリーカに、エーヴェルトの眉がぴくりと跳ねる。だが彼女がそれに気づくことはなかった。
「ウルリーカ……お前、いつからこれを飲んでいる?」
「はい。その……二ヶ月ほど前からです」
「二ヶ月、だと?」
顔を顰めたエーヴェルトに対し、ウルリーカは「貴方様がこちらに初めて来られた日からです」と、消え入りそうなくらい小さな声で告げた。但し、エーヴェルトに抱かれた後、必ずこれを三粒飲む事は言わなかった。
「ガルネリオのねぇ……。薬学に関してガルネリオは、今でも大陸一だからな……その国の薬師が作った物ならばさぞや効果があるのだろう。中に何が入っているのか、ファラフの薬師どもに調べさせてやってほしいのだが……」
調べられても特に困る事は何もない。ファラフの薬学の向上になるのならばと、ウルリーカは「構いませんわ」とそれを承諾した。
「お好きなだけ持っていってくださいませ。あぁそういえば……セダリ草が入っているのは、わたくしも知っております」
エンマが言っていましたから――と、ウルリーカは引き出しから薄紙を一枚取ると、それを楕円形のテーブルの上に置いた。小瓶の蓋を開け、エーヴェルトは薄紙に丸薬を十粒ほど落とす。そしてそれが落ちないよう、くしゃりと薄紙を丸めて上着のポケットへ突っ込んだ。
「エーヴェルト様、お茶を用意させましょうか?」
「そうだな、そうしてくれ」
「はい。デジレ、エーヴェルト様のお茶の用意を」
畏まりました――と、デジレは頭を下げると、部屋から出て行った。室内にはエーヴェルトとウルリーカの二人だけとなる。
「ところでウルリーカ、これはお前にとって朗報かどうか俺には解らんが、近いうちにガルネリオから数名……ファラフにやって来る事になった」
「……何故でございましょう?」
「お前がこのファラフで健やかでいるかどうか、それを直接見て確かめたいらしい」
「そう、なのですか……」
双眸を伏せたウルリーカの髪を一房掬うと、エーヴェルトはそれを指先に絡めツンと軽く引っぱった。
「エ、エーヴェルト様!?」
子供じみたその行為に、ウルリーカは驚き目を瞬かせる。
「お前が嫌なら、使者どもが来るのを断ってもいいぞ?」
相手をするのが面倒だからな――と、エーヴェルトはニッと口端を上げる。
「そんな事は……お父様やお母様の様子も知りたいですし……」
「皇帝夫妻の? そうか……親思いなんだな、お前は」
「いえ……そんな……」
ウルリーカが本当に知りたいのは、ニクラスとディルダの事などではない。ディルダはともかく、ニクラスは自分の事など少しも心配していないだろうし、正直されてもウルリーカは嬉しくない。彼女が知りたいのは……心配しているのは……シェルストム親子の事だけだ。
もしかしたら何か聞けるかもしれない。
もしかしたら使者の中に、オルヴァーかラルスがいるかもしれない。
もしかしたら……もしかしたら………。
そんなことを考えていると、いきなりぐるりと視界が反転した。
「ウルリーカ」
そろりと頬を撫でられ、ウルリーカは瞬時に体を強張らせた。時折ウルリーカの許へ来るようになったものの、エーヴェルトが彼女を抱いたのはあの日一度だけである。彼はやってきても、同じ寝台に入り並んで寝はするが、文字通り本当に並んで眠るだけなのであった。
そう……至近距離にエーヴェルトの顔があるのだ。それを見てしまうと、ウルリーカの心臓は早鐘を打つ。ラルスの端整な顔立ちは春風のように美しいが、エーヴェルトのそれは真冬の月のように冴え冴えとした美しさがあって、ラルスのは見慣れてしまったが、エーヴェルトの方はそうではなく、ドキドキしない方がおかしいというものだ。
「エ、エーヴェルト様……あのっ……」
まさかその気になったのだろうか?――と、ウルリーカはあの時の事を思い出し、ドレスの胸元をギュッと握り締めた。
「そうあからさまに体を強張らせるな。別にお前を取って食おうというわけではない」
「……エーヴェルト様」
「顔色が悪い、少し休め。なぁウルリーカ、やはり帝国から料理人を呼ぶか?」
そう言って藍色の瞳を細め、彼は眉宇に皺を幾筋も作った。相変わらず彼女はファラフの料理に馴染めず、あまり食べる事ができない。味付けを薄くするよう言ってはいるのだが、あまり変わっておらず……肉や魚を一口食べ、あとはパンと果物を食べて終わりという場合が多かった。
「青白い顔のお前を見て、ガルネリオの者どもがどう思うか……」
皇帝ニクラスに、皇女はろくに食事を与えられていないと報告されるかもしれん――と、エーヴェルトは不快気に鼻を鳴らし、くしゃりと前髪を掻き上げた。
「痛くもない腹を探られ、ぎゃあぎゃあ騒がれては迷惑だ」
「申し訳ありません……」
ふるりと長い睫毛が揺れ、ウルリーカは双眸を伏せて視線をそらした。そんな彼女の頬をもう一度撫でて、エーヴェルトはサッと体を離し立ち上がる。
「謝るな。“王妃”の口に合わせる事のできない、ファラフの料理人が無能なだけだ」
「そんな事は……」
ありません――と、首を振るウルリーカを、エーヴェルトは冷めた瞳で見下ろした。