prologue
祝福の鐘が鳴る中、エーヴェルトと共にバルコニーへと出たウルリーカは、二人を祝うために城の前庭に集まった民に向かって、その歓喜に応えるように手を振っていた。そんな二人をイクセルは、かなり下がった場所で見ていた。彼の口角はやんわりと上がっており、それは横にいる近衛隊の隊長スタファンも同じであった。
「しかしアレだねスタファン。エーヴェはちっとも笑いやしない」
嬉しくないのかな?――と、イクセルは首を傾げた。その問いかけにスタファンは、ちらりと横目で幼馴染みを見る。そしてゆるりと胸の前で腕を組んだ。
「んじゃあイクセル訊くけどよ。陛下が頬緩ませて、ニコニコしていたら……お前、どう思う?」
「そんなの……気持ち悪いに決まっているだろう。バカか、お前」
エーヴェルトのそれを想像したのか、イクセルの整った顔がぐしゃりと歪んだ。
「……だったら別にいいじゃねぇか。陛下だって、内心じゃ嬉しいに決まってる。あんな美人な嫁さんだぜ? 喜ばない方が変だろーが」
そう言うとスタファンは、幼馴染みの背中をバシっと叩いた。たちまちイクセルの顔に怒気が浮かぶ。
「痛い」
「お前、ひがんでいるんだろう? いや、そうじゃないな。拗ねてるんだ」
「は?」
「陛下が結婚しちまって。妃殿下に取られて、拗ねてるんだよお前は」
「はぁ~? 何言ってるんだ、お前? そんなわけないだろうが」
「まぁまぁ照れるなよ。お、もう終わったみたいだぞ」
ウルリーカの背に手を添えて、エーヴェルトがこちらへとやってくる。その表情からは、やはり彼の心情は判らない。嬉しいのか……嬉しくないのか……それとも………。
「っ!!」
がくりとウルリーカの膝が崩れ、慌ててエーヴェルトがそれを支えた。化粧に隠されてしまい判らないが、実は今朝もあまり体調が良くなく、そのため顔色もけして良いとは言えなかった。
「大丈夫か? ウルリーカ」
「も、申し訳ありません」
昨夜は緊張して眠れなかったのです――と、恥ずかしそうに、少し震える声でそう告白する王妃を、スタファンは「可愛い方だ」と思った。それはイクセルも同じらしく、柔らかな笑みを浮かべっぱなしである。ただ、この男の笑顔の意味を、表面通りに受け止めたら後が怖い。笑って人を殴るのが、このイクセルという男の本性だ。
「少しお休みになられた方が良さそうですね。後宮に一度戻られますか? それとも陛下の私室で?」
「宰相殿……」
「日が落ちる頃には、結婚を祝うための宴が始まります。それは明け方まで続きますので、体力を回復されておかなくては大変なことになりますから」
「……そう、ですね。お言葉に甘えることにしますわ。一度後宮に戻ります」
苦笑しつつそう言うと、イクセルは控えていた女官長に彼女を連れて行くよう指示した。
ファラフへ入り、後宮に入ってから今日まで、ぼんやりと日々を過ごしていたわけではない。
重臣達と個別に面会をしたり、エーヴェルトの母と妹に挨拶をしたり、ファラフ語で言わなくてはいけない誓いの言葉を覚えたり……と、やることは沢山あった。
特にファラフ語は、いかにも“丸暗記しました”といった風に、たどたどしく聞こえるようしなくてはいけなかった。そのため最初は、わざと下手に発音し、怪しまれないようする必要があり、おかげでかなり神経を擦り減らした。意識を集中させなくては、ついうっかりと、綺麗に発音してしまいそうだったからだ。
「待て、ウルリーカ。後宮に戻るよりも、俺の部屋に行った方が、その分多く休めるだろう」
エーヴェルトはそう言ってウルリーカの頭上の王妃の冠を外すと、それを女官長へと渡した。自分の頭の上のそれも、彼は鬱陶しいとばかりに乱雑に取り、侍従に向かって放り投げる。
「歩けるか?」
「はい。大丈夫です」
「ならいいが……侍女を呼んだ方が良いなら、後宮に使いをやるが?」
そうしたらきっと、やってくるのはエンマだろう……ウルリーカはゆるゆると首を振った。
「必要ありませんわ陛下。少し……少し休むだけですから……」
「そうそう。お前が傍にいるんだから、侍女なんか必要ないだろう? かえって邪魔なだけだからね」
にやりと笑ってそう言うと、イクセルはエーヴェルトの肩を意味ありげにポンポンと叩いた。そして彼の耳もとに唇を寄せると、彼は小さな声でそれを囁く。
【夜まで待たなくても、いいんじゃないのか? 彼女を抱いてしまえ】
ファラフ語でのそれに、エーヴェルトの顔があからさまに歪められた。
【お前っ……】
【さっさと子供を作ってしまえば、その分早くお前は彼女から解放される。そうしたら後は、好きな女性を後宮に入れられるじゃないか】
くつくつと喉を鳴らすイトコに、エーヴェルトは呆れたように大仰に溜息をついた。
「行くぞ、ウルリーカ」
「……はい」
ウルリーカの腰に回した手をそっと押し、エーヴェルトは王宮内にある自室へと向かった。
先ほどの会話を、彼女が理解しているとも知らずに。