epilogue
皇帝皇女の入殿が高らかに告げられると、それまでざわざわとしていた大広間だったが、一瞬にして水を打ったように静まり返った。だが、赤い繊毛の上を滑るように、皇女が中へと入ってきた瞬間、今度は大きなどよめきが起こる。皆、初めて見る“ガルネリオの宝石”に興奮を隠せなかった。
「んまぁ! あの“噂”は本当でしたのね」
「眉唾物かと思っていたが……いやはやなんともお美しい!!」
「なんて綺麗な髪なんでしょう……それにほら、ご覧になってあの瞳……」
「不思議な色だ」
ざわめき囁き合う周囲には目もくれず、ウルリーカはひたすら前だけを見ていた。数段高い場所で、豪奢な椅子に横柄な態度で脚を組んで座り、値踏みをするように自分を見るファラフ王エーヴェルトだけを………………。
「ようこそファラフへ。麗しきガルネリオの宝玉……皇帝皇女ウルリーカ殿下」
流れるように美しい声音でそう言うと、若き宰相イクセルは、定められた場所まで進んだウルリーカに向かい恭しく頭を垂れた。それに対しウルリーカは、僅かに顎を引き小さく頷くものの、顔は正面を向いたままで、瞳は挑むように玉座のエーヴェルトを見ている。
いくら帝国の皇女とはいえ、これは褒められた態度ではない。
普段のエーヴェルトならば、このような態度をとる相手に対し、怒ってすぐさま切り殺していただろう。
だが彼は、そうはしなかった。
光の加減で琥珀色にも見える不思議な色合いの瞳を持つウルリーカを見て、自分を真っ直ぐに見上げる彼女を“面白い女だ”――と、そう思ったのだ。
クッと喉を鳴らし、エーヴェルトは椅子から立ち上がると、素早くウルリーカの目の前まで行った。右手で彼女の首筋をそっと撫でれば、ほんの一瞬……ウルリーカの口端がピクリと跳ねる。だが、彼のその手を振り払うことはなく、黙ったまま、睨みつけるようにウルリーカはエーヴェルトを見るだけだった。
簡単に折れてしまいそうな、その細い首を何度も撫でながら、エーヴェルトは彼女の白く透き通る肌に、己が所有の印を好きなだけ刻んでみたいと、この時そんな不埒な事を思っていた事など……彼女が知るはずもない。
「お前は、己の立場を解っているか?」
睦言を囁くように、エーヴェルトはウルリーカに静かに問うた。ここに入ってきてから感情らしい感情を、一切顔に出していなかった彼女ではあったが、きゅうっと悲しげに眉根を寄せると今まで真っ直ぐ向けていた瞳を軽く伏せ、僅かであるがエーヴェルトから視線をそらした。それを見て、満足そうに藍色の瞳が細められる。
「どうやら解っているようだな」
盟約の証――と言えば聞こえは良いが、ウルリーカは王妃という立場でありながら、実際はガルネリオからファラフに差し出された人質である。
長く続いた平和のせいで、ガルネリオの軍事力は衰退しており、今一番勢いのあるファラフに攻め込まれれば、あっという間にやられてしまうのは誰が見ても明らかだった。
己が立場を危惧したガルネリオ帝国皇帝は、渋々ながらもファラフと盟約を結ぶことにした。優位な立場にいるのは、もちろんファラフだ。ガルネリオではない。だから盟約の条件を提示したのも、当然のことながらファラフからだ。
そしてその条件の一つに、美しいと評判の皇女ウルリーカの輿入れがあった。
ウルリーカは皇帝の一人娘である。
皇家の掟により、皇族の未婚の女性は人前では常にヴェールを被り顔を隠していた。そのため、家族以外の人間で彼女の顔を見たことがあるのは、乳母と彼女の侍女くらいであり、ウルリーカの容姿が美しいと噂されていたのは、彼女の母である皇妃が美しいからであった。
故に、ウルリーカがどう美しいのか……具体的な事は何一つ表にでていない。
だが、彼女の瞳が光の加減で琥珀色に見える――ということだけは、唯一広く知られている事であった。
エーヴェルトの目の前にあるのは、まさにその瞳であり、それは彼女が本物のウルリーカであるという確かな証拠である。
「もちろんです。貴方の機嫌を少しでも損なえば、ガルネリオの民が困ることになるということくらい、わたくしにだってちゃんと解っております。父は……皇帝陛下は……貴方との婚姻を結ぶことで、ファラフから自国を守ったつもりで安心していることでしょう……。ですが貴方は、わたくしが貴方を怒らせれば、その事を口実にガルネリオに攻め入り、全てを焼き尽くし、ガルネリオをファラフ領となさるおつもりなのでございましょう。もしそうなれば、ガルネリオの民は住む所を失い、人としての権利までもが奪われてしまう……」
淡々としてはいるものの、微かな憂いと怒りを帯びたその声と顔容はぞくりとするほど美しく、エーヴェルトは己が欲望が燃えだすのを感じ口端を上げた。
「ガルネリオ皇帝皇女ウルリーカ、先に言っておく。俺は賢過ぎる女は嫌いだが、愚かな女も嫌いだ。程々が丁度良い。程々だ。よく覚えておけ」
顎を軽く掴みクイッと顔を上げさせると、エーヴェルトはウルリーカの紅唇に口づけた。ビクンと体を大きく揺らし、ウルリーカが身を捩り逃げる素振りをしたため、結い上げずに背中に垂らしていた彼女の髪に両の指を挿しこみ押さえこむ。
傍から見ればそれは、少々乱暴な動作ではあった。だが、エーヴェルトの口づけ自体はそうではなく、ただ優しく宥めるように重ね合わせているだけであり、それに気づいたウルリーカは安堵し長い睫毛をそろりと下ろした。
それを見たエーヴェルトもまた、ゆっくりと目を閉じて、右手で彼女の首の後ろを掴んだまま、左手は背中を滑り腰へと回し、ウルリーカを自分の方へと引き寄せた。そして彼女が驚かないよう、徐々に口づけを深いものへと変えていった。
「あら~……参ったねこりゃ」
なかなか終わらないそれにイクセルは、少し後で控えている近衛隊の隊長であるスタファンを振り返り、大袈裟に肩を竦めてみせた。スタファンも苦笑し、同じように肩を竦める。長く女性を断っていたわけではないくせに、何をいきなり発情っているのだと、イクセルは己が従弟の頭をおもいっきり叩きたい衝動に駆られた。
だがそんな事をしては、自身の身が非常に危ない。
そこで彼は、わざとらしく大きな咳払いをし、持っていた杖先をドンドンと床に打ちつける。その音で漸くエーヴェルトは、口づけを止めてウルリーカから顔を離した。
「うるさいぞイクセル」
「あのねぇエーヴェ……私が止めなきゃお前、皇女が気絶するまでやっていただろう?」
「……」
己が腕の中でぐたっりとしているウルリーカに、エーヴェルトは小さく舌打ちをし、すぐさま彼女を抱き上げた。
「へ、陛下っ!!」
驚く彼女を無視し、後宮に連れて行くため、エーヴェルトは足早に大広間を出て行く。その後をスタファンが慌てて付いていった。
「お、下ろしてくださいっ!」
「暴れるな、落とす」
「下ろして、陛下!!」
バタバタと脚をバタつかせるウルリーカに、エーヴェルトはあからさまに溜息をついた。
「静かにしていないと、今すぐここでお前が気を失うほどの、激しい口づけをするぞ? 言っておくが、それはさっきのヤツの比ではない」
あんなものは子供の遊びだ――と、エーヴェルトはにやりと口端を上げた。
「っ!!」
ピタリ――と、ウルリーカの動きが止まり、借りてきた猫のように大人しくなる。そんな彼女に満足したのか、エーヴェルトはゆるりと笑ったのだが、俯いていたウルリーカがそれに気づくことはなかった。
カツカツと靴音をさせ、ウルリーカを抱き上げたまま、エーヴェルトは大きな噴水のある中庭を通り、彼女の生活の場となる後宮へと向かった。
「あれが後宮の大門だ」
エーヴェルトの視線の先に顔をやれば、高い外壁に囲まれた建物があり、様々な花の透かし彫りが施されている大きな門が見えた。
後宮――王のみが入ることのできる男子禁制の宮殿。
王ただ一人のためだけに国中から集められた花が咲く、美しくも残酷な花園。
そこへ入ってしまえばもう、ウルリーカは夫であるエーヴェルトの許可がなければ、外に出ることはできない。王妃といえども、王の所有物なのだ。
「あれが、後宮……」
「そうだ。お前が生涯を過ごす場所だ」
今はまだ、そこに住むのはウルリーカだけだ。
だが、いずれは側室と呼ばれる女性が多く入ってくるだろう。そしてエーヴェルトの寵を得ようと、女達の醜い争いが始まるのだ。
そんなものに巻き込まれるのはごめんだと、ウルリーカは気づかれないようそっと溜息をついた。
後宮の大門にかなり近づいたところで、ウルリーカはふと空を見上げた。青く澄んだ空が広がり、二羽の鳥が気持ち良さそうに飛んでいる。
「……鳥」
「ん?」
エーヴェルトは足を止め、ウルリーカの視線の先を追った。
「あれか……。ここからでは、何の鳥かはわからんな。お前は鳥が好きなのか?」
そう問われ、ウルリーカはほんの少し首を傾けた。
「好き……と言いますか……羨ましいのです」
「羨ましい? 鳥がか?」
「はい。鳥は自由だから……自由に、あの青い空を飛ぶことができるから……でも……でもわたくしは……」
自由ではない――と、喉まで出かかかった言葉を飲み込み、ウルリーカは胸の前でぎゅっと手を握り締めた。
「ウルリーカ?」
訝しげな声で名前を呼ばれ、ウルリーカは小さく笑ってみせると、彼にだけ聞こえるように「少し疲れました」と呟いた。
「今日はもう、特にする事はない。ゆっくり休め。足りない物があれば女官長に言うといい。遠慮はするな。お前はそれを許されている」
「はい。ありがとうございます」
重々しい音をたて大門が開かれる。大門の内側には、後宮で働く女官達が並び二人を出迎えた。女官達はエーヴェルトに抱き上げられているウルリーカを見て少々驚いたものの、そのあまりにも美しい様子に目を細め誰彼となく感嘆の息を零していた。そんな女官達の反応に気を良くしたのか、エーヴェルトは口角を上げて、頭を垂れる女官達の間をゆっくりとした足取りで通り抜けると、ウルリーカを抱き上げたまま王妃の間へと向かった。