08
「入浴後、夕食も早々に切り上げられて、皇女様はお休みになられました。やはりまだ本調子ではないご様子……明日までにご回復されていると良いのですが……」
眉根を寄せ、迎賓館での皇女の様子を報告する女官長に、エーヴェルトは無表情で頷いた。
しかし、船酔いだけでこうも体調を崩すだろうか?――と、少々疑問にも思う。
けれどよくよく考えれば、彼女は王宮の最奥で、大勢の侍女に傅かれ育ってきた温室の花なのだ。蝶よ花よと、大事にされてきたのだ。慣れない船旅に体調を崩し、なかなか回復しないのは、致し方ないのかもしれない。
「予定の変更はない。皇女の具合が悪かろうが、引きずってでも連れてこい。ヨーテでの予定外の滞在で、日程がその分遅れているのだから」
思いやりの欠片もない言葉に、女官長の顔色が変わる。それは傍にいるイクセルも同じだった。彼は「はぁ」と深く溜息をつき、ふるりと頭を左右にゆるく振った。
「へ、陛下。ですがそれは……」
「連れてこい。皇女の具合が悪かろうが、そんなものは俺には関係ない。俺は暇ではないんだ。さっさと面倒事を済ませ、滞っている案件を処理しなくてはならない」
ギロリと睨まれ、女官長は身を震わせた。だか同じ女性として、ここで黙ってなどいられない。愛無き婚姻である事は承知しているけれど、ガルネリオの皇女はこの国の王妃となり、世継を産んでくれる大切な方なのだ。この国の女性の頂点に立つ方なのだ。大切にすべき女性なのである。誰も味方のいないファラフにおいて、夫であるエーヴェルトだけが彼女の味方だというのに……この言いようは無いだろう。
グッと握った両の手に力をこめて、女官長が強い光を宿した目をエーヴェルトに向けた刹那、極々自然な動作で二人の間にイクセルが身を挟みこんだ。
「そう怖い顔をしちゃダメだよエーヴェ。ああ、もう行って良いよ女官長。報告ご苦労様。皇女殿下の様子に、充分気を配ってあげておくれ。必要なら医師を待機させるから、その時はまた連絡を」
「は、はい」
出端を挫かれたような形となってしまったが、イクセルの心遣いが嬉しく、ホッとしたような笑みを浮べて女官長は頭を下げると、そそくさとエーヴェルトの執務室から出て行った。
軽い音をさせ扉が閉まった瞬間、イクセルは呆れたように大きく溜息をつき、執務机の主をじろりと見下ろす。
「もう少し優しい言い方ができないのかねぇ……あの女官長、そうとう頭にきていたぞ。これで皇女のお前に対する印象が悪くなったな」
「ハッ、優しい言い方だと? バカバカしい。言葉を飾る必要があるのかイクセル? そんなものは女に囲われている、軟弱な男のすることだ」
「あのねぇ……」
やれやれと肩を竦めると、イクセルは窓の傍へと行き、小さな星が宝石の如く散りばめられた夜空を見上げた。ここから見る夜空も嫌いではない。だがやはり、シュガルトの城から見た夜空の方が好きだ。こちらへ王都を移してから一度も帰っていないが、時間ができたらエーヴェルトの許可を貰い、視察をかねて行ってみるのも良いだろう。あちらにはまだ、昔馴染みが多く残っている。皆で卓を囲み、酒杯を傾け、昔話に花を咲かせるのも一興だ。
「明日は良い天気になりそうだ。王妃の間を気にいってもらえると嬉しいのだけれど」
皇女の好みが判らず、自分の趣味で内装を整えてしまったのだが……実は気にいってもらえる自信がイクセルにはあった。
「それにしても、いよいよ明日には拝顔できるのか。ふふ。皇女の素顔がどんなものか……楽しみだねエーヴェ」
「どうでもいい。そんなものは」
「またまた、そんなこと言っちゃって。結構気になっいてるくせに、素直じゃないなぁ」
くつくつと喉を鳴らしてイクセルは、夜空に浮かぶ月のように目を細めた。
◆◆◆◆◆◆
容赦なく太陽は昇る。
それを恨めしいと、今日ほど思った事はない。
まだ太陽が顔を出す前に迎賓館を出発し、王宮内の一室に移動したユリアは、そこでファラフ側の女官の手により身支度を整えられた。今日、これから行われるのは、エーヴェルトは勿論のこと、ファラフ側の高官や高位貴族等々との顔合わせである。挙式は三日後であり、その時は王城の前庭が民に開放される。
「本当によろしいのでございますか?」
窺うように訊ねる女官に、彼女は小さく頷いた。女官は納得いかないような顔ではあったが、本人がこれで良いと言っているのだから仕方がない。が、本心は違う。美しい皇女をさらに美しく見えるよう、己の持つ技術の全てを出して飾り立てたい。
「ええ。このままで……」
あえて髪は結い上げず、宝飾品も必要最低限にしたのは、全てウルリーカ――ユリアの希望だった。首飾りとお揃いの小冠が用意されてはあったが、それを乗せるにはある程度髪を結わなくてはならない。だが、昨日ほどではないが、体調がまだ思わしくないのだ。できるだけ自身を締め付けるような、窮屈な事をしたくはなかった。
鏡に映った己が姿を見て、ユリアはもう一度「このままで充分です」と呟いた。
「まだ少し頭が痛いのです……。女官長、いけませんか? 髪を結わなければ不敬になると言うのであれば、わたくしから陛下に事情を話します」
鏡越しに、後ろで控えていた女官長にそう問えば、彼女はにっこりと微笑んだ。
「いいえ殿下。その必要はございません」
髪を結い上げようと、そのまま背に流そうと、ウルリーカの美しさは変わらない。
「大丈夫でございます。不敬にはなりませんので、ご安心くださいませ」
「そう。なら良かった」
安堵する彼女が着ているドレスの袖口から覗くレースは、高い技術がなければ編めないほど繊細な模様で美しく、細い首を飾る真珠は小ぶりではあるが、その一粒一粒が艶やかな光沢を放っている。あえてごちゃごちゃと飾る必要など、この美しいガルネリオ皇帝皇女には必要ないのだ。何故なら彼女自身が、どの宝石よりも美しいからである――と、女官長は口には出さなかったものの、目の前にいるガルネリオの皇女に賞賛の言葉を心の中で贈った。
「それでは参りましょうか?」
「ええ」
こちらへ――と、ユリアは女官長の先導で大広間へと向かった。既に人々は集まっており、彼女が来るのを今か今かと待っている。国王でありウルリーカの夫となるエーヴェルトもそうだ。
大広間でエーヴェルトと対面した後、ウルリーカはそのまま後宮へと入る。あちらにも“女官長”と呼ばれる者がいて、それはこの女官長ではなく別の女官である。同じ女官長であっても、こちらの女官長の方が、後宮の女官長よりも立場は上であるそうなのだが……その辺りの力関係は、追々解ってくるだろう。
長い廊下を進み、濃紺の騎士服を纏った騎士が両側に立っている扉のすぐ傍までくると、女官長はその足を止めた。ゆっくりと、彼女はウルリーカの方へと振り返る。
「皇女様、わたくしはここまででございます。陛下よりも先に、皇女様にお会いすることができましたこと……大変嬉しゅうございました」
ふわりと微笑んだ女官長に、ウルリーカもやんわりと口端を上げる。
「これより先は、御身お独りで……」
女官長は大扉の前までしか同行を許されておらず、そこから先はウルリーカだけしか進めない。この先に待っているものが何であるのか……それが解っているが故に、「誰かが一緒にいてくれたら」と、弱い心がにょろりと顔を覗かせたが、きゅっと口端を引き締めそれを追いやった。
ごくり――と唾を飲み込むと、深く頭を垂れる女官長の前を通り過ぎ、ウルリーカは大広間の扉の前へと進んだ。その場に控えていた二人の騎士の手により、ゆっくりと大扉が開かれ、彼女の入殿を告げる声が大広間に響く。
エンマは一足先に後宮の方へと移ってしまっている。
ここから先はユリア独りなのである。
周囲に味方は一人もいない。
少しでも、弱さを見せてはいけない。
侮られるような、愚かな言動はできない。
ユリアは立ち止まり、目を閉じ少し顔を伏せると、ふうっと静かに息を吐きだした。
わたくしは皇帝ニクラスの娘……ガルネリオ帝国皇帝皇女ウルリーカ。わたくしはそれ以外の何者でもない……。わたくしはガルネリオ帝国の皇女……ウルリーカ………――――――
ユリアは閉じていた目を開け、顔を正面へ向けてピンと背筋を伸ばすと、エーヴェルトの待つ大広間へと一歩前へと足を踏み出した。