prologue
最初にそれを言い出したのは、どちらからであったのか……エーヴェルトは書類に己が名を書きながら、ふと、それを思い返してみた。
これはよくある手段であるから、もしかしたら、他の誰かが言ったのかもしれない。だが、記憶を手繰ってみたものの、言いだしっぺが誰であったのか……結局は思い出すことはできなかった。
とは言っても、それを思い出せなくても、何ら差し障りがあるわけではない。
これをあちらが受け入れるか、それとも拒否するか……それが重要なのだ。
誰の提案であったかなど、そんなものは関係ない。
「エーヴェ、ガルネリオ側はこれを素直に飲むと思うかい?」
「飲まなければどうなるか……いくらなんでも、それくらい解るだろう。赤子ではあるまいし」
フンと鼻を鳴らすエーヴェルトに、イクセルはわざとらしく肩を竦めて見せた。
「どうだかね」
大体、それが解っていれば、最初から戦などしないで済んだはずだと思うけど?――と、イクセルは悪戯っぽい笑みを口もとに浮かべる。
「ともかく……こちらとしても無用な血を流す趣味はない。そもそも、同盟を結びたいと言ってきたのは向こうだ。だったら、これを飲むしかないだろう」
「まぁね。でもさ、ガルネリオ皇帝は随分と彼女を可愛がっているそうだから、素直に差し出すかどうか……」
判らないよ――と、目を眇めて大きく息を吐き出す。そんなイクセルに対し、エーヴェルトはイスの背もたれに体重をかけると、緩慢な動きで脚を組み替えた。
「ハッ、何を言うんだイクセル。自国を守るためならば、娘の一人や二人……同盟の証に差し出すのは当たり前だろう」
それが一国の主の取るべき道であり、皇女として生まれた者の宿命である――そうエーヴェルトはバッサリと切り捨てるように言うと、持っていた書簡を執務机の上へ放った。が、勢いがあり過ぎて、それは絨毯の敷かれた床へと落ちてしまった。それに慌てたのはイクセルだ。
「おいおいおい、もっと丁寧に扱ってくれよ。正式なモノなんだぞこれはっ!」
顔を顰め、軽くエーヴェルトを睨んで、イクセルは床へと滑り落ちたそれを拾い上げた。同盟の条件が書いてある、王の署名の成された、これは大切な物なのだ。明後日には宰相であるイクセルが自らガルネリオに赴き、この書簡を相手に渡すことになっている。
あちらからの条件は既に出ていて、当然のことながら自国に有利なものばかりであった。
それを見た瞬間、やはり潰してしまった方がいいのではないかという意見が数多でたが、イクセルはそれを逆手にとって、ファラフ側が得をする条件を考えた。
その中の一つが、ガルネリオ皇帝皇女ウルリーカの、ファラフ王エーヴェルトへの輿入れである。
皇帝ニクラスの一人娘のウルリーカは、皇族の掟に従い公の場ではヴェールを頭からすっぽりと被っており、彼女の顔を見た者は家族と乳母以外はなく……彼女の母である皇帝妃が美しいため、母親似だと言われている彼女もまた美しいのだろうと噂されていた。皇帝の唯一の妃である皇妃ディルダは、二十数年前にガルネリオに滅ぼされたパラツィオ公国の公女で、この公家の特徴は光の加減で琥珀色に見える稀有な瞳であった。
娘であるウルリーカも、母と同じ色の瞳をしている。
それ故、母皇妃に似て、皇女も美しい――と“噂”されていた。
それが事実であるかのように、ウルリーカのその“噂”は大陸中に広まり、今や知らない者はいないほどだ。
「さて、娘を取るか……国を取るか……。どうする? ガルネリオ帝国皇帝ニクラス」
軽く口端を上げ、エーヴェルトはくつりと喉を鳴らした。