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プロローグ 濡羽の皇太子と、第七皇子


 血の匂いがした。


 鉄錆びた、甘ったるい、吐き気のする匂い。


 それは雨に濡れたアスファルトの上で、何度も嗅いだ匂いだった。


 深夜二時の繁華街。


 ネオンが濡れた路面に溶けて、赤だの青だの紫だの、安っぽい極彩色をぶちまけていた。

 路地裏では女が泣き、男が怒鳴り、どこかの店から漏れた低音が腹の底を揺らしている。


 俺はその街で育った。


 正確に言えば、育ったのは施設だ。


 親の顔は知らない。

 名前だけはあった。

 だが、誰かに呼ばれるための名前ではなかった。


 飯は出た。布団もあった。学校にも行かされた。

 けれど、そこに居場所はなかった。


 ガキの頃から、俺はずっと何かを探していた。


 親でもない。

 家族でもない。

 愛情なんて綺麗な言葉でもない。


 ただ、自分が命を預けてもいいと思える背中。


 自分の人生を、こいつのために使ってもいいと思える男。


 それを見つけたのが、繁華街の外れにある古い雑居ビルだった。


 表向きは不動産管理会社。

 実態は、夜の街を根城にするヤクザ組織。


 その組にいた。


 あの人が。


 兄貴は、何もかもが違っていた。


 誰もが道を開けた。

 敵ですら、息を呑んだ。


 声を荒げない。

 安い虚勢も張らない。

 酒場で武勇伝を語ることもなければ、女を侍らせて威張ることもない。


 濡れたように黒い髪をきちんと撫でつけ、仕立てのいい黒いスーツを纏い、細い指で煙草を燻らせる。


 繁華街の猥雑な光の中に立っていても、兄貴だけは場違いなほど上品だった。


 頭が切れた。

 判断が早かった。

 肝も据わっていた。


 それ以上に、何かがあった。


 人を惹きつけてやまない何か。


 そして、誰よりも怖かった。


 兄貴が一言発すれば、怒鳴り合っていた男たちが頭を垂れた。

 兄貴が視線を向ければ、刃物を持った相手が命乞いをした。

 兄貴が笑えば、殺し合うべき相手ですら一瞬だけ気を許した。


 いつも完璧だった。


 完璧すぎて、何を考えているのか分からなかった。


 誰もが、こんな組織にはもったいないと噂した。

 当然のように跡目とされ、当然のように期待された。


 俺はそんな兄貴に憧れた。


 施設育ちの汚いガキが、夜の街で見つけた唯一の星だった。


 だが、兄貴が俺を見ていると思ったことは、一度もない。


 たまに声をかけられることはあった。


「飯は食ったか」


「怪我は見せろ」


「無茶をするな」


 それだけだ。


 その声は静かで、優しくすらあった。


 けれど、俺には分かっていた。


 兄貴にとって俺は、組にいる若い衆の一人でしかない。


 代わりはいくらでもいる。

 少しだけ目をかけられている気がするのも、俺が勝手にそう思い込みたいだけだ。


 だから俺は、望まなかった。


 兄貴の隣に立ちたいなんて、そんな身の程知らずな夢は見なかった。


 俺は、兄貴を支えられればよかった。


 兄貴が前に進むなら、その邪魔になる石をどける。

 兄貴に刃が向くなら、代わりに受ける。

 兄貴が組を継ぐなら、その足元を汚れ仕事で固める。


 それで十分だった。


 俺の人生なんて、その程度の使い道があれば上等だと思っていた。


 思えば、あの街も昔はもっとひどかった。


 金になれば何でもやる。


 薬でも、女でも、借金でも、ガキでも。

 夜の底に落ちたものは、全部まとめて食い物にされる。


 そんな街だった。


 それが、俺が施設を出る頃には、少しだけましになっていた。


 路地裏の空気が変わった。

 店の前に立つ男たちの目つきが変わった。

 子供を狙うような半端者は、いつの間にか姿を消していた。


 理由なんて知らない。


 知ろうとも思わなかった。


 あの頃の俺にとって大事だったのは、その街がどう変わったかじゃない。


 その街に、兄貴がいたことだけだった。


 だから――


 だからこそ、最後の瞬間、信じられなかった。


 暗い倉庫。


 足元に広がる血。

 胸の奥から熱が抜けていく感覚。


 俺を呼び出したのは、組の古参だった。


 兄貴の命令だと言われた。


 向かった先には、敵がいた。

 逃げ道は塞がれていた。

 こちらの手の内は、最初からすべて読まれていた。


 偶然なわけがない。


 誰かが売った。


 俺の動きも、役目も、兄貴への忠誠も、全部知っている誰かが。


 そして、薄れる視界の向こう。


 そこに、兄貴が立っていた。


 濡れた黒髪。

 仕立てのいいスーツ。

 静かな目。


 あの人は何も言わなかった。


 何も言わずに、ただ俺を見下ろしていた。


 ――兄貴。


 そう呼ぼうとした喉から、泡立つ血しか出なかった。


 俺を売ったのか。


 俺を嵌めたのか。


 俺を殺したのか。


 最後まで、答えは聞けなかった。


 ただ、あの目だけが焼きついた。


 悲しんでいるようにも見えた。

 怒っているようにも見えた。

 何かを諦めたようにも見えた。


 いや。


 そんなふうに見えたのは、俺が最後まで兄貴を信じたかっただけだ。


 死ぬ間際まで、馬鹿みたいに。


 裏切られたのだと認めたくなかっただけだ。


 そして俺は死んだ。


 兄貴に殺されたのだと、そう思いながら。


 死んだ、はずだった。


     ◇


「殿下! 殿下、お目覚めください!」


 耳元で、甲高い声が響いた。


 うるせえ。


 そう怒鳴ろうとして、喉が動かなかった。


 代わりに、柔らかな寝台の感触が背中を包んでいることに気づく。

 鼻をつくのは血でも煙草でも安酒でもない。花の香りと、磨き上げられた木の匂い。


 まぶたを開けた瞬間、俺は言葉を失った。


 天井が高い。


 高すぎる。


 そこにはシャンデリアのようなものが吊るされ、淡い光を放っていた。

 蝋燭ではない。電灯でもない。

 宝石のような石が、空中に浮かぶ粒子をまとって輝いている。


 壁には絹らしき布。

 窓の外には白い尖塔。

 ベッドの脇には、見たこともない衣装を着た女中たち。


 そして、俺の手。


 小さい。


 白い。


 傷一つない。


 暴力で飯を食ってきた男の手ではなかった。


「……どこだ、ここは」


 出た声は、思ったより幼かった。


 女中の一人が息を呑み、涙ぐんだ。


「よかった……! 第七皇子殿下が、お声を……!」


 第七皇子。


 そうだ。


 俺は、第七皇子だ。


 その瞬間、見知らぬ記憶が泥水のように流れ込んできた。


 ここはアウレリア帝国。


 大陸最大の版図を誇る軍事国家。

 皇帝を頂点とし、貴族と軍が帝国の骨格を成す。

 剣と魔法、騎士団と魔導兵団によって周辺諸国を従えた、鉄と血の大帝国。


 そして俺は、その帝国の第七皇子。


 レオンハルト・フォン・アウレリア。


 年は八つ。


 母はすでに亡い。

 皇帝の寵愛を一時だけ受けた側妃の子。

 後ろ盾らしい後ろ盾もなく、宮廷ではいてもいなくても変わらない皇子。


 皇位継承権はある。

 だが、第七位だ。


 上には兄が六人いる。


 正妃の子。

 有力公爵家の娘を母に持つ者。

 軍閥とつながる者。

 神殿に支持される者。

 魔導院に顔が利く者。


 それぞれの背後には、貴族、軍、金、血筋、思惑が絡みついている。


 その中で俺は、妾腹の第七皇子。


 剣も魔法も凡庸。

 気弱で病弱。

 兄たちの影に隠れ、宮廷では「数合わせ」として扱われている。


 なんだ、こりゃ。


 冗談にしては手が込みすぎている。


 俺は布団を跳ねのけようとして、身体の軽さに愕然とした。

 筋肉がない。骨も細い。

 喧嘩どころか、階段を駆け上がるだけで息が切れそうな身体だった。


 だが、それ以上に厄介なことが一つあった。


 この世界には、魔法がある。


 頭の中にある知識が、それを当然のものとして告げている。


 貴族は魔力を持つ。

 騎士は魔獣を斬る。

 皇族は血統によって、強大な加護を受ける。


 剣と魔法の世界。


 笑えねえ。


 極道が死んで、帝国の第七皇子に転生したってか。


 ガキ向けの安い漫画でも、もう少しマシな筋書きを考えるだろう。


「殿下、すぐに医師を――」


「待て」


 俺は女中を止めた。


 声は子供のものだが、口調までは変えられない。

 その瞬間、女中たちの顔にわずかな怯えが走った。


 気弱な第七皇子が、こんな声を出すはずがない。


 失敗したな。


 だが、もう遅い。


「今、宮中に誰がいる」


「は、はい。皇帝陛下は政務に。第一皇子殿下は北の離宮に。第二皇子殿下は騎士団の訓練場へ。第三皇子殿下は、政務庁におられるはずですが――」


 女中が言い淀んだ。


「皇太子殿下は、殿下のお見舞いに向かわれる途中と聞いております」


 第三皇子。


 皇太子。


 ユリウス・フォン・アウレリア。


 帝国正妃の第三子にして、次代の皇帝。


 おかしな話だ。


 普通なら、第一皇子が皇太子になる。

 少なくとも、第二皇子がその次にくる。


 だが、この帝国では違った。


 第一皇子は、血筋だけは重い。

 第二皇子は、武勇だけなら優れている。

 だが、そのどちらも、第三皇子ユリウスには届かなかった。


 濡羽色の髪。

 金色の瞳。


 二十歳にして皇太子。

 すでに帝国政務庁の副宰相格として国政に関わり、軍務会議にも席を持つ。

 外交文書に目を通し、税制改革に口を出し、属州総督の任免にすら影響力を持つ。


 剣術、魔法、軍学、政治、礼法、語学、歴史、そして人心掌握。

 すべてにおいて完璧。


 近衛騎士団長から一目置かれ、魔導院の老賢者たちを黙らせ、老獪な貴族たちにすら笑顔で膝を折らせる帝国の至宝。


 その名を聞くだけで、兵は背筋を伸ばす。

 貴族は言葉を選ぶ。

 民は未来を夢見る。


 冷静で、上品で、謎めいていて、何を考えているのか誰にも読ませない。


 完璧な皇太子。


 完璧な後継者。


 そして、第一皇子と第二皇子にとっては、自分たちを差し置いて玉座に選ばれた弟。


 宮廷の誰もが、ユリウスに微笑む。


 だが、その微笑みの裏で、誰もが息を殺している。


 第一皇子派も。

 第二皇子派も。

 正妃の実家でさえも。

 軍も、神殿も、魔導院も。


 帝国の中心には、ユリウスがいる。


 その記憶を見た瞬間、俺は全身の血が冷えた。


 兄貴だ。


 いや、分からない。


 顔は違う。

 声も違う。

 世界も違う。


 だが、空気が同じだった。


 人の上に立つことを、生まれつき許されたような静けさ。

 何も語らずとも、周囲が勝手に意味を読み取るあの圧。


 立場も、空気も、人を惹きつける力も。


 あの兄貴そのものだった。


 そんな馬鹿な話があるかと、俺の中の冷めた部分が囁く。


 けれど、俺は知っている。


 人間の顔なんて、いくらでも変わる。

 肩書きも、服も、言葉遣いも変わる。


 だが、目だけは変わらない。


 人を従わせる者の目。

 他人の命を背負える者の目。

 そして、必要ならばその命を切り捨てられる者の目。


 もし、ユリウスが兄貴なら。


 もし、あの人もまた前世を覚えているのなら。


 今度こそ、聞かなければならない。


 なぜ俺を殺したのか。


 なぜ俺を捨てたのか。


 なぜ、最後まで何も言わなかったのか。


 そして答え次第では――


 今度は俺が、あんたを殺す。


 胸の奥で、黒い火が灯った。


 かつて憧れと呼んだものが、ゆっくりと形を変えていく。


 信仰は、憎悪に似ている。


 愛情は、復讐に似ている。


 どちらも、相手のことで頭がいっぱいになるという意味では同じだ。


 扉の向こうで、足音が止まった。


 廊下にいた侍女や近衛が、一斉に背筋を正す音がする。

 誰かが息を呑む。

 誰かが衣擦れの音すら殺す。


 来る。


 俺は寝台の上で、無意識に拳を握った。


 重厚な扉が開く。


 入ってきた男は、二十歳とは思えないほど完成されていた。


 黒。


 まず、そう思った。


 濡羽色の髪が、肩口で静かに揺れる。

 夜そのものを糸にして編んだような艶。


 その下で、金色の瞳がこちらを見ていた。


 冷たいわけではない。

 温かいわけでもない。


 湖面に浮かぶ月のような、静かな光。


 整った顔立ちは、作り物じみて美しい。

 白と黒を基調とした政務官用の礼服には皺ひとつなく、胸元には皇太子の金章と、政務庁副宰相格を示す銀鎖が控えめに光っている。


 剣を帯びていない。


 それなのに、部屋の誰よりも危うかった。


 身にまとう香りすら、どこか上品だった。


 ユリウス・フォン・アウレリア。


 第三皇子にして皇太子。


 帝国の副宰相格。


 この世界の兄。


 そして、おそらく――前世の兄貴。


「レオンハルト」


 彼は俺の名を呼んだ。


 静かな声だった。


 前世の兄貴とは違う声。


 それなのに、胸の奥を直接撫でられたような気がした。


 殺したいほど憎い。


 なのに、声を聞くだけで、昔の自分が膝を折りそうになる。


 俺は奥歯を噛んだ。


「目覚めたと聞いた。具合はどうだ」


 侍女たちが頬を赤らめる。

 近衛の目に敬意が宿る。


 たった一言。


 それだけで、部屋の全員が彼を中心に動き出す。


 ああ。


 やっぱり、この人は変わらない。


 兄貴は、いつだって周囲の温度を支配する。


「……問題ありません、皇太子殿下」


 俺は答えた。


 八歳の第七皇子らしく。

 少し怯えたように。

 けれど、目だけは逸らさずに。


 ユリウスは俺を見た。


 ほんの一瞬。


 本当に、誰にも分からないほど一瞬だけ、その金色の瞳が揺れた。


 俺はそれを見逃さなかった。


 前世の路地裏で、相手の呼吸ひとつを読んで生きてきた。

 その程度の揺らぎを見落とすほど、俺は鈍くない。


 何だ、今の顔は。


 驚きか。

 懐疑か。

 それとも、罪悪感か。


 ユリウスはすぐに完璧な表情へ戻った。


「兄と呼べばいい」


 静かな言葉だった。


 部屋の空気が、わずかに揺れた。


 第七皇子が皇太子を兄と呼ぶ。

 血縁上は当然だ。


 だが、宮廷では言葉ひとつにも序列がある。


 皇太子は皇太子。

 臣下に近い皇族は、そう簡単に親しげな呼び方を許されない。


 まして、俺は妾腹の第七皇子だ。


 ユリウスは気にしない。


 静かに歩み寄り、寝台のそばで膝を折る。


 皇太子が、妾腹の第七皇子に膝を折った。


 部屋の空気が凍る。


 侍女たちは息を止め、近衛の一人がわずかに目を見開いた。


 ユリウスは気にしない。


 白い手袋を外し、俺の額に手を当てた。


 指先は冷たかった。


 だが、不思議と嫌ではなかった。


 それが、腹立たしかった。


「熱は下がったようだな」


「……兄上が、わざわざ来られるほどのことではありません」


 俺はあえて言った。


 兄上。


 その言葉に、ユリウスの指先がほんのわずか止まった。


 すぐに動いた。


 普通の者なら気づかない。


 だが、俺は見た。


「私が来たいと思った」


 静かな言葉だった。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 なのに、妙に胸に残った。


 前世の兄貴もそうだった。

 余計なことは言わない。

 言葉を飾らない。

 だからこそ、一言が重い。


 俺は目を細めた。


 嘘か。

 本心か。


 分からない。


 兄貴の言葉は、いつも本気に聞こえる。


 だから人は騙される。


 だから俺は、殺された。


「レオンハルト」


 ユリウスは俺の名をもう一度呼んだ。


「しばらくは無理をするな。宮廷には、お前の弱り目を喜ぶ者もいる」


 その声は穏やかだった。


 だが、言葉の奥に刃があった。


 侍女たちが顔を伏せる。


 俺は理解した。


 この帝国宮廷は、繁華街の路地裏と大して変わらない。


 看板が違うだけ。

 服が高いだけ。

 使う武器が拳やドスから、毒と魔法と政治に変わっただけ。


 弱いやつから食われる。


 妾腹の第七皇子など、格好の餌だ。


「承知しました」


 俺は従順に頷いた。


 今はまだ、それでいい。


 俺はこの世界を知らない。

 宮廷の力関係も、魔法の使い方も、帝国軍の構造も、貴族の派閥も知らない。


 第一皇子。

 第二皇子。

 皇太子である第三皇子。

 第四、第五、第六の皇子たち。

 皇女。

 正妃。側妃。大貴族。軍。神殿。魔導院。属州。


 知らないまま動けば死ぬ。


 前世で嫌というほど学んだ。


 まずは見る。

 覚える。

 黙る。

 味方と敵を分ける。


 そして、兄貴を殺せるだけの力を得る。


 胸の奥で、黒い火が燃え広がる。


 今はまだ、何も知らない弟でいい。

 弱く、病弱で、誰の脅威にもならない第七皇子でいい。


 この世界の理を学ぶ。

 魔法を覚える。

 剣を取る。

 味方を作る。

 敵を見極める。


 そしていつか、真実を聞く。


 なぜ俺は死んだのか。

 あの夜、兄貴は何を見ていたのか。

 なぜ、あんたは俺を助けなかったのか。


 その答えが、俺の想像通りなら。


 今度は俺が、あんたの喉元に刃を届かせる。


 ユリウスは立ち上がった。


 その姿に隙はない。


 美しく、冷たく、上品で、底が見えない。


 俺は嗤った。


 歓楽街のドブで覚えた、腹の底を隠すための笑みで。


 ユリウスは、俺のその笑みを見ていた。


 ほんの一瞬だけ。


 まるで、懐かしいものを見るように。


 まるで、失くしたものが戻ってきたことを確かめるように。


 そして、すぐに目を伏せた。


 ほんのわずか、指先が動く。


 何かを撫でようとして、思いとどまったような動きだった。


「休め、レオンハルト」


「はい、兄上」


 それだけ言うと、ユリウスは背を向けた。


 引き止める言葉など、あるはずもなかった。


 皇宮の白い寝室で、二人の兄弟は静かに別れる。


 誰も知らない。


 その短いやり取りの中で、前世の因縁が静かに息を吹き返したことを。


 剣と魔法の帝国に生まれ変わった元極道の第七皇子は、この日、二度目の人生を始めた。


 信じるためではない。


 もう一度、兄貴に仕えるためでもない。


 今度こそ、殺された理由を知るために。


 そして必要ならば、復讐を果たすために。


     ◇


 その夜、第七皇子付きの侍医が姿を消した。


 翌朝には、侍医の名が宮廷医師名簿から削られていた。


 病死。

 事故。

 急な辞任。


 女中たちの囁きは、聞くたびに違っていた。


 俺の寝室に運ばれていた薬湯の記録も、いつの間にか消えていた。


 誰が命じたのかは分からない。


 ただ一つだけ、妙なことがあった。


 あの日以来、俺の食事を運ぶ者が変わった。


 寝室の前に立つ近衛も変わった。


 庭へ出る道順さえ、なぜか変えられていた。


 俺は窓の外を見た。


 白い尖塔の向こう、皇宮の中庭を、黒い礼服の背中が横切っていく。


 濡羽色の髪が、朝の光を受けてわずかに艶めいた。


 ユリウスだった。


 こちらを見たわけではない。


 立ち止まったわけでもない。


 ただ、通り過ぎただけだ。


 それなのに、俺の部屋の前に立つ近衛たちが、同時に姿勢を正した。


 その日の午後。


 第二皇子派に近い下級貴族の屋敷が、帝国憲兵に封鎖された。


 三日後、第一皇子派の小官吏が一人、政務庁から姿を消した。


 七日後、俺を診ていたはずの侍医の部屋から、毒草の乾いた根が見つかったと誰かが囁いた。


 けれど、その噂もすぐに消えた。


 消えた噂のあとには、何も残らなかった。


 ただ、俺の周りだけが、少しずつ静かになっていく。


 前世の繁華街で、いつか感じた静けさに似ていた。


 俺はそれを偶然だと思おうとした。


 そうでなければ、あまりにも気味が悪かった。


 そして、もっと腹立たしかった。


 守られているようで。


 監視されているようで。


 囲われているようで。


 あの人の手の中に、また戻されたようで。


 俺は小さな拳を握る。


 兄貴。


 あんたは今度も、何も言わないつもりか。


 何も言わずに、全部決めるつもりか。


 前世と同じように。


 俺の知らないところで。


 俺の人生ごと。

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