朝
朝の光は、森の葉を透かして柔らかく降り注いでいた。土で作った簡易の家の隙間からも淡い金色が差し込み、夜の冷えを静かにほどいていく。
ヴィオレッタはその光に頬を撫でられるように目を覚まし、ゆっくりと瞬きをした。長い睫毛が深い紫の瞳に影を落とし、寝起きであるその瞳はまだ少し潤んでいる。
「ん〜っ…」
両腕を上に伸ばした。背筋がしなやかに反り、絹のような白銀の髪が肩から滑り、昨日までの令嬢の部屋では決して見せなかった無防備な美しさがそこにあった。森に鳥の声が幾重にも重なって響く。
外へ出ると空気は澄み切り、深く息を吸うと土と苔と若い草の匂いが胸いっぱいに広がった。朝露が葉先に宿り、光を受けて小さな宝石のように瞬いている。
木々の間を抜ける風は冷たすぎず、頬を撫でては遠くへ逃げていく。ヴィオレッタは思わず笑みを浮かべた。
「……朝って、こんなに綺麗だったのね」
屋敷の朝はいつもカーテン越しで、整えられた庭園が見えていただけだった。けれどここは、生のままの世界だ。
草の上を一歩踏むと靴底に柔らかな感触が返り、昨日の夜の自由がまだ続いていることを確かめさせる。
背後で気配が動いた。壁にもたれていたシアが、無言のままこちらを見ている。
灰色の髪は朝の光で淡く透け、夜の闇よりも一層、彼という存在の曖昧さを際立たせていた。
ヴィオレッタは振り返り、欠伸混じりに言う。
「おはよう、子猫ちゃん」
シアの眉がぴくりと動く。
「……その呼び方をやめろ」
低い声は不機嫌だが、昨夜のような殺気はない。ヴィオレッタは楽しげに首を傾げる。
「だって、夜に爪を立てたでしょう?」
シアは口を閉ざし、視線を逸らした。森の鳥が一羽、枝から枝へ跳ねる。
ヴィオレッタはその沈黙を責めず、朝の空気をもう一度吸い込んだ。
「ねえ、朝ごはんにしましょう。保存食は嫌いだもの」
そう言って歩き出す背中は軽い。追放された令嬢のはずなのに、足取りには不思議な解放がある。
シアはその後ろ姿を見つめながら、昨夜首に巻きついた蔦の感触を思い出していた。
シアは小さく舌打ちし、結局無言で軽い足取りの彼女の後を追った。
……
川の音は、森の奥でひときわ澄んでいた。朝の光を受けて水面が揺れ、小さな波が鱗のようにきらめいている。ヴィオレッタは川辺にしゃがみ込み、袖をまくった。指先に冷たい水が触れて心地よい。
魚影を探す。ほんの少しだけ温度を落とす。
ぱき、と小さな音がして、水面に薄い氷が広がった。逃げ場を失った小魚が跳ねる。
ヴィオレッタは素早く手を伸ばし、捕まえた。
「……よし」
「器用だな」
ヴィオレッタは顔だけ振り返り笑う。
「ふふっそうでしょう?」
立ち上がった時だった。
ふと、風が髪を揺らした。
白銀の髪がさらりと舞い、肩から落ちる。ヴィオレッタは一瞬、動きを止めた。
毛先がほんのわずかに色が沈んでいるように見え、指先でそっとつまむ。
「……?」
シアが眉を寄せる。
「どうした」
ヴィオレッタはすぐに手を離し、何でもないように言った。
「ううん、なんでもないわ」
それ以上は触れず、魚を抱え直す。
朝の森は、夜よりもずっと忙しい。小鳥が枝を渡り、葉の間を風がすり抜ける音がする。陽の光はまだ低く、木々の影が長く地面に伸びていた。
「これでいいわね」
簡易的な土魔法でかまどを作った。
「オリョウリできるのか?お嬢様の遊びか?」
少し離れたところで、シアが木にもたれている。あくまで近づきすぎない距離。昨日のことを思えば当然だが、態度にはまだ棘が残っていた。
「遊びなら、あなたの分は無いわよ」
ヴィオレッタは布包みを地面に置き、魚を取り出す。まだ微かに冷たい。鱗に朝日に反射して、綺麗だった。
「……別に要らない」
「ふぅん。なら静かにしてて」
短く返して、ヴィオレッタは魚の腹を開く作業に移る。刃物は、昨日もらった暗器の中から一番小ぶりで扱いやすいものだ。毒が付いていないことは確認済み。彼女の指先が動くたび、刃が淡く光る。
内臓を取り、川の水で洗い、布で軽く拭う。血の匂いが少しだけ残るが、森の匂いがそれをすぐに薄めた。
「塩があれば最高なんだけど」
誰に言うでもなく呟くと、シアが片眉を上げる。
「無いものを欲しがるのは、損だろ」
ヴィオレッタは魚を串に刺しながら、ふっと笑う。
「損得だけで生きてる人の台詞ね」
「俺は合理的なだけだ」
「それを損得って言うのよ」
火種は魔法で作った。指先に小さな熱を集め、かまどの中に入れた枯れ葉に落とす。ぱち、と音がして火が立ち上がった。燃え広がるのは早い。枝がぱきぱきと鳴り、温かさが頬を撫でる。
ヴィオレッタは串を火の上にかざした。皮が少しずつ縮み、脂が落ちて香りが立つ。焼ける匂いは、屋敷の料理とは違う荒さがある。けれど、その荒さが妙に腹を空かせた。
「……いい匂い」
「腹は減るんだな」
シアが小さく言った。馬鹿にするというより、確かめるような声音だった。
「減るわよ。人間だもの」
焼け具合を見ながら、ヴィオレッタは魚をひっくり返す。ぱち、と脂が弾けて火の粉が舞った。彼女は反射的に身を引き、袖で頬を守る。
「ふっ、怖いのか?」
シアの声には、少しだけ面白がる響きが混じった。
ヴィオレッタは無言で目を細める。
魚の表面がこんがりと色づいた頃、ヴィオレッタは串を引き上げた。皮は香ばしく、身はふっくらしている。
「……できた」
自分の分をひとつ手に取り、少し冷ましてから口をつける。ぱり、と皮が割れ、熱い湯気が上がった。思ったより味がある。淡い甘みと、川魚特有の香り。屋敷の豪華な料理とは比べられないのに、妙に満足感があった。
「美味しい」
ぽつりとこぼれる。
シアが視線を寄越した。
「……本気で言ってるのか」
「本気よ。あなたも食べる?」
ヴィオレッタは串を一本、軽く持ち上げて見せる。差し出すというより、試すみたいに。
シアは一瞬だけ迷った顔をしたが、すぐにそっぽを向いた。
「いらない」
「ふーん」
ヴィオレッタは肩をすくめて、自分の分を食べ続ける。火の音と鳥の声が混ざり合い、朝の森が静かに息をしている。しばらくして、シアが少し近づいてくる。
「……」
ヴィオレッタは口元だけで笑う。
「最初から欲しいって言えばいいのに」
「うるさいな」
「はいはい」
串を一本、地面に置いた石の上にそっと置く。直接渡すと距離が近すぎるから。シアはそれを拾い、無言で一口かじった。ほんとに警戒心の強い子猫みたいだ。
噛んだ瞬間、ほんの少しだけ目が動く。驚いたのか、認めたくないのか。どちらにせよ、表情には出さない。
ヴィオレッタはそれを横目で見ながら、残りを食べ終えた。
火のそばに座ったまま、指先で髪を払う。白銀の髪が指の間を滑り、毛先の黒が視界に入る。
ヴィオレッタは息を吐き、気持ちを切り替えるように立ち上がった。
「さて。次はどうしようかしら」
シアは魚を食べ終えると、串を地面に投げた。
「どうするも何も、進むだけだろ」
「ええ。そうね」




