暗殺者との夜
「……あ」
氷の牢獄を前にして、私は小さく声を漏らした。
「そういえば、眠いんだった」
自覚すれば一気に、現実が押し寄せる。
私は森の中の少し開けた場所を選んだ。
「今日は、ここでいいわね」
魔力を動かす。土が、ゆっくりと盛り上がり、壁を成し、屋根を形作る。
簡易的だが、風は防げる。
中は一部屋だけの、小さな家。
「……うん、十分」
立ち上がって振り返り――そこで気づく。
「あ」
氷の牢獄。
「……忘れてた」
指を軽く鳴らすと、
氷は音もなく砕け、消えた。
拘束が解かれたシアは、
一瞬だけ身体を強張らせたが、何も言わない。
「中、来る?」
そう声をかけながら、私は家に入る。
土の床を均し、自分用の簡単なベッドを作る。
「……あなたの分も、作る?」
振り返って尋ねると、シアは壁にもたれたまま答えた。
「いらない」
即答。
「そう」
私は特に気にせず、自分のベッドに腰を下ろす。
「じゃあ、おやすみ」
それだけ言って、横になる。
――数分後。
規則正しい寝息。
……無防備すぎないか?と、シアは思った。
魔法で必要ないのかもしれないが武器も持たず、結界も張らず、なんならベッドも一緒の屋根の下作ろうか?と。
すぐそこに、元暗殺者がいるというのに。
視線が、彼女の寝顔に向く。
契約内容が、脳裏をよぎる。
――お互い、命を取らない。
……取ろうとしたら、どうなる?
純粋な興味。損得勘定ではない。
それを自覚し、彼自身を少し苛立たせた。
シアは、音を立てずに歩み寄る。鼓動が少し早まる。
…ナイフを、逆手に構える。
首元へ――
その瞬間。
熱を帯びた何かが、手の甲を貫いた。
黒薔薇。
そこから、黒い蔦が噴き出す。
「――っ!?」
腕、脚、胴。
一瞬で絡みつき、
身体を持ち上げ、壁へと押し付ける。
首にも、冷たい蔦が巻きついた。
息が、詰まる。
――しまっ……
視界が、狭まる。
その時。
「……なにしてるの?」
眠たげな声。
ヴィオレッタが、目を開けていた。
ゆっくりと起き上がり、
蔦に絡まれたシアへ歩み寄る。
「だめよ」
柔らかな声で。
「いたずらしたら」
指先で、彼の頬に触れる。
包むように、そっと。見上げる様に顔が近づく。唇が動く。
「――子猫ちゃん」
息も絶え絶えなシアの目が、大きく見開かれる。
次の瞬間。
ヴィオレッタが、払うように手を振った。
蔦は、霧のように消えた。
シアは、床に崩れ落ち、荒く息を吸い込む。
「……っ、は……」
「ふふ」
ヴィオレッタは、欠伸を一つ。
「夜は、ちゃんと寝なさい」
そう言って、
何事もなかったかのようにベッドへ戻る。
数秒もしないうちに、再び寝息。
シアは、動けないまま、天井を見上げた。
……冗談じゃない。
命を取らない契約。
――“取れない”の間違いだ。
契約の印の黒薔薇は、彼女の意思すら必要としなかった。
圧倒的強者。
それを、骨の髄まで思い知らされる。
「……くそ……」
小さく、吐き捨てる。そして、初めて思った。
――これは、損得じゃ測れない。
そんな相手のそばにいる日常が、始まってしまったのだと。




