森
森に足を踏み入れた瞬間、世界の音が変わったように感じた。
風が葉を揺らす音、
どこかで鳴く小さな虫の声が、耳に届く。
日が傾き、空がゆっくりと橙から藍へと沈んでいく。
私は立ち止まり、深く息を吸った。
土と、緑と、湿った空気の匂い。
混じり気のない、自然そのものの匂い。
「……すごい」
思わず、声が漏れる。
屋敷の庭園にも、似た香りはあった。
でもこれは、整えられていない。大自然の匂い。
私は靴を脱ぐことはしないまでも、意識して、ゆっくりと足を運ぶ。
靴底越しに伝わる、土の柔らかさ。小石を踏んだ時の、わずかな違和感。落ち葉が潰れる感触。
たまに伸びる木の根を跨いだりして。
「……森の土の上を歩くのって、こんな感じなのね」
呟きながら、くすりと笑う。
今まで、私は整えられた場所しか歩くことを許されていなかった。
転ばないように、汚れないように。でも今は違う。
少し汚れても、少し乱れても、誰にも叱られない。口角が上がる。
「…最高ね」
木々の間を抜け、開けた場所を見つける。
空を見上げると、枝葉の隙間から、星が瞬いていた。
私はその場に腰を下ろし、拡張魔法が付与されたバッグから保存食を取り出す。
乾いたパン。固めの干し肉。
一口齧って、眉をひそめる。
「……これは……」
二口目を躊躇う。
「……いえ、文句を言える立場じゃないけど」
眉根を寄せてしばらく見つめた後、私はパンを元に戻した。
「……やっぱり、嫌」
小さく宣言して、立ち上がる。魔力を、静かに巡らせる。
風の流れ。音。獣の気配。
少し離れた場所に、小動物がいる。
「ごめんなさいね」
低く囁き、
氷を一筋、放つ。
鋭く、静かに。
獲物は苦しむことなく倒れた。
私は手際よく処理をし、指先に小さな火を灯し、焚き火を起こした。
火を眺めながら、ふと思う。
「……自分で獲って、自分で焼く、か」
こんなこと、
数日前まで考えもしなかった。
…椅子が欲しい。焚き火のそばの土を見て魔法を発動する。簡易的な椅子が出来た。背もたれ付き。
カップもついでに作って、水を満たしておく。
焼ける音。
立ち上る香ばしい匂い。一口食べて、目を見開く。
「……おいしい」
思わず、笑ってしまう。水をひとくち飲んだ。
星が増え、夜が深まっていく。
食後、私は焚き火のそばに座り背中を背もたれに預けた。
身体は少し疲れている。でも、嫌な疲れじゃない。
「……今日は、いい日だった」
誰に言うでもなく、そう呟く。
そろそろ眠ろうか、と
立ち上がろうとした、その時。
――ぞくり。
背筋を、冷たいものが走った。空気が、変わる。
意図を持った視線を感じる。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
夜の森が、
静かに息を潜めた。




