洗礼式
…そう、たとえばお金持ちの家に生まれたとしたら。お嬢様としてちやほやされて美味しいご飯をたくさん食べて、たのしいたのしい習い事もたくさんして?でも自由な時間は少なくて。まぁでも贅沢になんの苦労も無く生きていける、そんな生活なんだろうなぁ〜と想像できると思う。私もそう思っていた。
ーーー昨日までは。
「ヴィー、明日は洗礼式ね。早く寝て明日に備えるのよ。私たちの娘ならとても素敵な洗礼紋をいただけるはずよね。」
「そうですね、お母様!良い洗礼式となれるよう、備えます!」
明日は洗礼式だ。
この国に生まれた子どもたちは、皆その日を迎える。
神殿で祝福を受け、身に刻まれる洗礼紋によって、その者の適性と進む道が示される。どんな職に向いているのか、魔法の適正やレベルは?など。
貴族の家に生まれた私にとって、それは義務であり、通過儀礼であり、
そして――予定調和だった。
部屋に戻ると、窓の外には庭園が広がっている。
完璧に整えられた木々、アーチや池、計算された配置の花々。
乱れはなく、美しく整えられ、息苦しいほどに正しい。
視線を戻すと、高い天井から降りる豪華な天蓋、ベッド。
私は椅子に腰掛け、肘をついた手で頬杖をつき、足を組んだ。既に用意してもらった明日の衣装を眺める。
柔らかな布、金糸の刺繍。
これを着て微笑み、洗礼式が「成功」すれば、皆が満足する。
贅沢だ。
不満を口にする理由など、どこにもない。
――だからこそ、逃げ場もない。
私は、良い子だった。
声を荒げず、
期待に逆らわず、
言われた通りに学び、
求められた通りに振る舞った。
そうすれば、誰にも踏み込まれない。
それを、私は早くに覚えた。
「ヴィオレッタは本当に聞き分けがいいわ」
その言葉の裏にあるのが、
“都合がいい”だということにも。
誰にも見られないこの場所で、息をついた。
部屋の扉には外からは分からないが、冷気が漂っている。
机の引き出しの奥。
二重底になったそこから、小さな魔導書を取り出す。
正式な教材ではない。
とても古く、装丁は重々しく赤字が映える。禁じられている類のものだ。
私はすでに、基本魔法の段階を越えていた。教師たちは、私が“優秀”だと思っている。
でも違う。
私は、従っているふりをして、あらゆる自分のためになるであろうものを盗んでいた。
詠唱をする教師を不思議に眺め、
魔力の流れを読み、応用する。
指先に、冷たい魔力が集まる。
空気が、わずかに軋んだ。
「……静かに」
声を出さず、氷を生む。
音もなく、
霜が広がり、
小さな氷の結晶が宙に留まる。
制御は完璧。
揺れも、暴走もない。
私はそれを、しばらく眺めてから消した。
誰にも知られてはいけない。
少なくとも――今は。
洗礼式が終われば、
道が決められる。
でも私は、
与えられる道を歩くつもりはなかった。
選ばれるのではなく、
選ぶ側でいたい。
この家も、
この国も、
この“守られた檻”も。
――いつか、出ていく。
そのための準備は、
もうとっくに始めている。
私はベッドに横になり、目を閉じた。
明日は洗礼式だ。
それが、
すべての始まりになる。




