09.最初の出撃
朝から胃が重かった。
起きてから、まだ何も口にしていないのに、吐き気だけが喉に張りついていた。
「緊張してんの? そりゃ当然よね、今日が初めての“本番”なんだし」
ミランダが明るく言いながら、俺にプロテクターの調整を手伝ってくれていた。
冷たい指先が鎖骨をなぞるたびに、背筋が自然と伸びる。
「今回はDランク任務。ダスク側の汚染地帯でのモンスター排除ね。軽度の個体だけど、油断しないように」
「……了解、です」
「それから――アンタ、ネオンの“注目者”に選ばれてるわ」
その一言で、空気が変わった。
ネオン。戦闘中継専門のドローン群を指揮し、都市中に配信を流す“声なき実況者”。
「昨日の訓練シーンが微妙にバズったのよ。『あまりに無様で逆に好感持てる』って。……世の中、物好きが多いわね」
肩を竦めながらも、ミランダは真剣な目で俺を見つめる。
「何を見せてもいい。でも“映る”以上、何を残すかは選びなさい。恥を晒しても、記録されるってことは――その先があるってことよ」
俺は、小さく頷いた。
“最初の出撃”――これは、逃げられない現実だ。
けれど、どこかで待ってる自分に、追いつくための一歩だとも思えた。
都市の東側――かつての工業施設が崩壊し、汚染とダンジョンの“浸食”が進んだエリア。
モンスターの活動が活発になった区域に、クロスリンクの車両が滑り込む。
現地には先行してネオンのドローンが飛び交っていた。
光学レンズがこちらを認識すると、すぐに通信が開かれる。
《注目戦闘者:クロスリンク所属・新人戦闘者 “S3-2791” 出撃準備中》
『あの顔また出てきたw』『昨日の訓練再放送頼む』『今度はどこまで動けるかな?』
流れるコメント、切り替わる視点、飛び交う笑い声。
画面越しの視聴者たちが、俺の“失敗”を待っていた。
「おい、前見ろ」
低く短い声が、横から飛ぶ。
同行しているベテランの一人、シグル。寡黙な男だが、現場の判断は鋭い。
「敵影、右斜め前。中型、単独行動。ブレないようについてこい」
「は、はい!」
息を吸う。呼吸がうまく定まらない。足が震える。
でも――このままじゃ、昨日と同じだ。
ガロの言葉、ミランダの手、レアの笑顔、そしてあの訓練場での記憶。
それが、身体のどこかを支えていた。
俺は、拳を構えた。
モンスターの足音が土を踏み鳴らすたびに、全身の神経が跳ねた。
その咆哮が響いた瞬間、思考が真っ白になる。
でも――逃げなかった。
「う、うおおおっ!」
無様な叫び声とともに、拳を振るった。
狙いも、威力も、戦術もなかった。ただ、“目の前の敵に向かって動く”ことだけを選んだ。
その一撃は、空を切った。
反撃され、脇腹に鈍い衝撃が走る。地面に転がり、砂が口に入った。
『こいつまた転んでる』『笑った』『……でも、前よりマシじゃね?』
『今の突っ込み、意外とタイミングよかったな』『フォームくそだけど根性あるわ』
耳に届いたその声が、なぜか胸の奥に染みた。
《注目戦闘者:S3-2791 一時離脱》
《追尾ドローン、撮影継続中》
後方からカバーに入ったシグルの銃声が響き、モンスターが吹き飛ばされる。
俺は砂まみれの顔を上げた。
「……クソ、また……何もできなかった……」
そう思ったはずなのに、不思議と涙は出なかった。
“でも映った”
“倒れながらでも、逃げずに前に出た姿が、残った”
自分の弱さも、不格好さも、記録された。
なら――いつかその続きも、ちゃんと記録させてやる。