03.沈黙と混沌の街角
どこをどう歩いたのか、よく覚えていない。
気づけば、足元の舗装は割れ、空に走るホログラムも減っていた。
街の騒がしさは遠ざかり、聞こえるのは金属が軋むような風の音と、奥で響く電子機器の雑音だけ。
都市の影――クラストスラム区。
かつて都市の建設に従事した労働者たちが流れ着いた場所。
今は規制外の住居と、認可されていない商業活動、違法な配信装置が並ぶ混沌の街。
夜でも明るい都市のなかで、ここだけは異様に暗い。
道端にはゴミと物乞いが転がり、誰かが誰かを睨んでいた。
少年がパイプの陰から何かを売っていた。内容は、訊かない方がいい。
警備ドローンの姿はなく、代わりに銃を持った“自警団”と称する連中が睨みを利かせていた。
息を潜めるようにして歩きながら、どこかに休める場所がないかと探す。
金はない。ネットも通じない。身分登録は無効化されていないが、それを見せたら最後、“おいしい獲物”として狙われる。
「……ヒーロー志望が聞いて呆れるな」
笑えなかった。声はひどく乾いていた。
それでも、どこかで俺は、“まだ何かできる”と思っていた。
歩いているだけで視線が刺さる。
「何者か」「何を持っているか」「隙があるか」――見知らぬ顔に対する好奇と警戒。
この街で生き残るには、強いか、狂っているか、それとも何も持たないか。
俺は最後のひとつだ。何も持たない。
やがて、小さな路地に入ったところで、崩れかけた階段の影に腰を下ろした。
背を丸めて、バックパックに体を預ける。持ち物といえば、デバイスと衣類と、あと何冊かの薄い記録媒体。
大事にしてきた“自分の原点”は、今のこの場所では、ただの紙くずだった。
ポケットに入れていた端末を取り出し、こっそり起動してみる。
「都市ネット接続不可」――再試行、と出ては消える。
配信文化の最先端都市にいながら、“何も映せない”というこの孤立感。
喉が渇いていた。
自販機を探しても、このエリアには電子マネーが通じるものなんてない。
現金も、もう数百クレジット分の硬貨しか残っていない。
腹も減っていた。
だが今、空腹よりもきついのは、“何者でもない”というこの事実だ。
あれほど夢見た都市で、俺はただの失業者以下の存在になっていた。
名前も記録も意味を成さず、誰にも見られず、誰の助けにもなれない。
それが、こんなにも……怖いなんて、思わなかった。
日が落ちていく。空が朱から黒へと染まり、スラムの影がさらに濃くなっていく。
小さな物音に反応して振り返ると、数メートルほど離れた場所で、痩せた少年が段ボール箱を抱えて走り去るところだった。
何かを盗ったか、あるいは追われていたか。
それでも誰も騒がない。ここではそういうことは“日常”として処理される。
俺は、目を閉じて深く息を吐いた。
少しでも眠っておかないと、明日にはもっと動けなくなる。
こんな場所で眠れる気はしなかったが、他に選択肢もない。
そのときだった。
──パンッ!
乾いた破裂音。火薬の音。遠くない。すぐ近くだ。
反射的に体を起こすと、路地の入口から誰かが全力で走ってきた。
「どけッ!」
叫び声とともに、こちらに向かってきたその男は、なにか細身の武器――ナイフか短剣のようなものを握っていた。
俺の存在なんて目にも入っていない。背後には何人かの足音。追われている。
次の瞬間、その男が、俺に向かって手を伸ばした。
「やめろ──っ!」
振り払おうとした俺の視界に、空気を裂くような紫の閃光が走った。
音もなく、空間が震える。
そして──
俺は、その場に倒れ込んでいた。
何が起きたのか、理解するよりも先に、体が痺れて、意識が、ふっと遠のいた。