その6 帰って来たエロマンガ
お盆が過ぎても暑さは続く。毎日、地獄の釜みたいな暑さだ。ああ、このままでは脳味噌がゆで上がってしまいそう。
(早く秋がこないかなあ)
まあ、秋になったら二学期が始まってしまうのだけれど。
スイカもプールもなくなる。夏休みの子供向けアニメ番組もなくなる。
(そう考えたら、やっぱり夏休みが名残惜しい)
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パパもママも朝早くから仕事に行って、今日も、いつものように留守番だった。同じような夏の一日、特に楽しくもない普通の時間。無駄と言えば無駄、けれど、それ以上どうしようもないのが、夏休みだ。
こんなふうに、時間が削られるようにして、刻一刻と二学期が迫って来るのだ。
「そろそろ、うちの子も学習塾に行く頃かな」
昨日の夕飯の時、パパがちらっとそう言ったっけ。
うちは共働きだから送り迎えができないので、今まで習い事はなかったのだ。おかげで悠々自適な放課後ライフを送っていたというのに。
「くもんなら、みゆきと孝太郎が一緒に行けるじゃない。そしたら、みゆきが孝太郎の面倒を見てくれるし」
と、ママが言い出した。
ママがわたしの冴えない表情に気づいた。塾いやなの、と聞いて来たので、うん、と正直に答えた。
嫌に決まっている。おまけに孝太郎の面倒を見なくてはならないなんて。
(全然、いいことなんか、ないじゃない)
「そっか。なら仕方ないな。塾行かないでも成績が保てるようにがんばってね」
ママが言った。なんだかちょっと、脅迫じみていた。
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毎朝のラジオ体操。スタンプカードの残り欄も少なくなってきた。毎朝公園に集まる人数は夏休みが進むにつれて減った。皆勤賞は、わたしと孝太郎くらいかもしれない。
今朝のラジオ体操の当番は、めそ子のパパだった。
裕也は昨日の晩から興奮して眠れなかったらしい。絶対に早起きしてラジオ体操に行く、と宣言した癖に、ラジオ体操が鳴りだしてから寝癖をつけた頭のまま、走って来た。面白い位、必死の形相だった。
「おー。今日は三人かー」
めそ子のパパは笑い、遅刻してきた裕也にもスタンプをくれた。
絵呂島先生、ファンです。
その一言が、どうしても言えないらしい裕也は、完全に挙動不審になっている。めそ子のパパが漫画家だと知らなかったときは、ごく普通に接していたのに、変なの。
それで、わたしが「漫画のファンらしいです」と、言ってやった。裕也は真っ赤になって視線を泳がせている。
「俺の漫画読んでるのか。マセてるなー」
と、めそ子パパは言った。
「先生の漫画は優れたヒューマンドラマです」
絶叫のように裕也は言い、めそ子パパは目を細めて、ありがとうと言った。
朝の涼しい風が公園の草を揺らす。虫が鳴いていた。
公園の隅っこに古い自販機がある。めそ子パパはジュースを買ってくれた。
「俺の漫画のことで、めそ子が学校に行きづらくなったらしいけれど、なんなら学校に行かないままでも良いと、思ったんだよ」
めそ子のパパは目の下に隈を作っている。髪の毛もぼさぼさに伸びていた。
「それでもまた学校に行くって言ってる。君たちのお陰なんだろう。本当にありがとうな」
孝太郎がごくごくとオレンジジュースを飲んだ。わたしはサイダー。
「できれば行っておいた方が良いんだろうなあ」
学校は。
めそ子パパは、空になったコーヒー缶をダストボックスに投げた。からんからんと小気味よい音を立てる。
ごちそうさまでした、と、わたしたちは声を揃えて叫んだ。ラジカセを下げながら、めそ子パパは片手を上げて歩いて行った。
今日もめそ子は早くから老人ホームに行っているんだろう。
「世輪木さん、学校に帰って来たね」
と、裕也は言った。
あの登校日の一幕を、裕也も校庭から見ていたはずだ。
スケベニンジンの復讐も、めそ子がおなかを抱えて笑った姿も。
「優しくたって戦うことはできる」
裕也は言った。拳をかため、メラメラしている。格言だろ、これ絵呂島先生の漫画の台詞だよ、しびれる、と、裕也は言った。
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ある日、愛ちゃんが遊びに来て、みゆき宿題終わった、と聞いて来た。
「めそ子の勉強さー、見てやんないとねー」
人のことより自分の宿題だというのに、愛ちゃんはやっぱり、めそ子のことが気になるらしい。
一階の和室のちゃぶ台で宿題を広げた。孝太郎は昼寝をして静かだ。向こうの畳の上でぐうぐう寝ている。
「あんたの弟さ、立派なスパイになれるわ」
と、愛ちゃんは言う。あのスケベニンジン事件の活躍ぶりを褒めている。
「スケベニンジンパンツ、販売終了するよ」
麦茶を飲みながら愛ちゃんは言った。わたしは頷いた。それがいい。行き過ぎた復讐は新たな争いを呼ぶ。
「めそ子も学校に戻って来るしね」
成宮かれんみたいな人達を根っこから変えるのは絶対に無理だ。
逆に、めそ子みたいに、すぐに泣いてうじうじする弱虫も治らない。
だけど、みんなおんなじ場所で生きている。
誰かだけが暗い場所に押し込められて泣いていなくてはならないという決まりは、ない。
「まためそ子やられるなー」
と、わたしが言うと、愛ちゃんの眼鏡が光った。
「そしたら、また反逆するだけだよー」
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明日から二学期。やっとのことで仕上げた宿題の山を見ながら、わたしは溜息をついた。結局夏休みは孝太郎の世話で終わった。
お風呂の支度をしていたら、みゆきちょっと、とママに呼ばれた。台所から手招きしている。
珍しくパパが早く帰ってきていて、孝太郎と一緒に先にお風呂を使っている。賑やかな声と水の掛け合いの音が聞こえていた。
なあに、と入って行ったら、満面の笑顔でママがテーブルに品物を並べていた。
また通販で買ったんだろう。黒山田印の怪しげな化粧品。ママは特別に安くしてもらえているらしいけれど、こんなに買って、本当に効果があるんだろうか。
「死んで蘇ったかのようにお肌がウルツヤになる化粧水」と、怪しげな赤文字のラベルが貼られた化粧水を取り上げながら、わたしは横目でママを見た。一体なんの用事だろう。
「学習塾に通わなくても成績維持できるアイテム探してたら、いいの見つけちゃって」
うきうきとママは言う。ほらー、これこれー、これなのよー。
嫌な予感がした。
ママが大事そうに手に持っているのは、ビニール袋に入った白いもの。
「一枚だけ、売れ残ってたのよ。もう販売終了しちゃった。最後の一枚なのよー」
なんか、うちの学校の四年生は皆これ履いてるって言うじゃない。
「危うく流行に後れるところだったじゃなーい。ほらっ、みゆき、お風呂入ったらそれ履いてね。楽々東大に合格できるパンツだって評判なのよお」
びろんと広げたところにニヤつくのは、へたくそで恥ずかしい人参の絵。
スケベニンジンパンツ。
「絶対に嫌」
と、わたしは言った。突っ返そうとしたら、強引に握らされた。
「なんでよー恥ずかしくないわよー」
ママは怖いほどの笑顔だ。これ、笑ってるんじゃなくて、言う事を聞かなけりゃ怒るという顔だ。
とほほ。わたしは自室に戻った。見れば見るほど恥ずかしい白パンツ。
名前書いときなさいよー、と、ママが階下から叫んだ。
これ、愛ちゃんも履いてるのだろうか。作った本人だし、履いているかもしれないなあ。
みゆきー、お風呂入りなさーい。ママがまた叫んだ。
人参パンツを含めた着替えを運びながら、わたしは驚愕の事実に気づいた。
この最悪に恥ずかしい人参パンツをクラスで履いていないのは、めそ子だけなのかもしれない。
エロマンガー、エロマンガー。
きっと、みんな懲りずに仇名で呼び続けるんだろうな、めそ子のことを。
そんなに、みんな、優しくはない。そう簡単に思いやりの気持ちなんて、芽生えるもんじゃない。学級でいくら話し合いをしたって。いくら愛ちゃんが復讐計画を立てたって。
だけど、みんながめそ子をエロマンガと呼べば呼ぶほど、めそ子がひっそり微笑むような気がしていた。
それは妙に、胸がすく想像だった。