その4 魔法より強いもの
その老人ホームは、古いテナントの中にあった。
どきどきする心臓を堪えながら、ボランティア希望です、と連絡した時、電話に出た女の人は「来て下さるんですか、いつ」と、飛びつかんばかりだった。あまりにも嬉しそうだったので、電話をしたことを一瞬、後悔してしまった。
本当に、忙しいんだろう。明るい声だけど、なりふり構っていない雰囲気で、猫の手も借りたいと言った感じだった。
(うっわ、めっちゃ期待されとるかもしれん)
焦ったわたしは、自分たちが小学生であること、めそ子と友人であることを何とか伝えた。過剰な期待は辛い。
ボランティア希望者が子供であることを知り、電話の人のテンションは少し下がった。それでも「お年寄りが喜びます、ぜひおいでください」と丁寧に言ってくれた。
まさか、いきなりオムツ交換なんかさせられないだろうなと、ドキドキしてしまう。大丈夫だとは思うけれど。
「大丈夫かなー行っても」
ボランティアという名目で老人ホームに行くその日、道を歩きながら、わたしはちょっと弱気になった。
裕也はちらっとわたしを見て、また視線を前に戻した。何をいまさら、とでも言いたそうだ。
「大丈夫に決まってるじゃない」
愛ちゃんはむっとした顔で言った。
一人だけ元気にはしゃいでいるのは孝太郎一人だけ。ねーちゃん早く早く、とまるで遊園地に遊びに行くみたいだ。
「めそ子、うまくやってるんだろうか」
愛ちゃんがぼそっと言った。
**
老人ホームのガラス張りのホールでは、おばあちゃん達がお茶を飲んでいる。めそ子の姿は見えない。
わたしたちの目的はボランティアではなく、めそ子だ。時間も二時間程度と、最初に断っている。
おずおずと玄関に入って行ったら、事務員のおばあちゃんがカウンター越しに顔を出した。わたしたちを見て「ああ、電話の」と言い、にこにこした。顔をひっこめて、なにか奥に向って話しているようだ。
やがて、ぱたぱたと元気な足音が近づいてきて、がちゃっと事務所の扉が開いた。
「あーほんとに来てくださったんだ。めそ子ちゃんの友達なんだってー」
出迎えてくれたポロシャツのお姉さんは、嬉しそうだ。
「めそ子ちゃんは今、お風呂場で髪の毛を乾かす手伝いをしてるから、君たちはホールでハナさんの話し相手をお願いねえ。あ、もちろん二時間だったら帰って大丈夫だからね」
忙しそうに、お姉さんは言った。片腕には書類がパンパンにつまったファイルをかかえ、もう片方の手には、オムツのパックを持っている。
お姉さんに案内されて、わたしたちは外から丸見えのガラス張りのホールに入った。のんびりとテレビが流れていて、車椅子のおばあちゃんたちがお茶を飲んでいる。
お姉さんは、小柄なおばあちゃんの側にわたしたちを連れてきた。
「ハナさん、元気な子供たちが来てくれましたよ」
と、お姉さんはおばあちゃんに言うと、わたしたちを座らせて、行ってしまった。
通路が奥に続いていて、のれんが掛かっている。そこがお風呂なのだろう。ばしゃー、とか、かこーん、とか、音が聞こえていた。
(めそ子はあそこでドライヤーを使っているのか)
本当に。
あの、めそ子が?
それにしても、老人ホームの仕事がどんなものなのか、見当もつかない。とりあえず、ハナさんとお話してみようかと思った。
えっと、なんの話題がいいだろう、とりあえず天気の話題からかな。
考えながらハナさんの方を見たら、既に孝太郎が突撃していて、たまげた。
孝太郎と来たら、初対面のおばあちゃんの腕に手をかけている。
「ねー、ハナさんってー、なんでハナさんなのー」
小学一年男子、恐るべし。いきなり、なんという事を聞くか。
孝太郎は、ぼーっと外ばかり見ているおばあちゃんに、真っ向から喋りかけている。
「ハナが大きいからハナさんなのー、ねー」
ハナさんの鼻の穴は、たしかに大きい。おまけに鼻毛が飛び出ていた。
それは、ハナさんを見た瞬間、たぶんわたしたち全員が薄っすら思っていたことだった。ハナがでかいから、ハナさん。ハナさんハナ毛が出ています。
(いや、思っているだけなのと、それを口に出しちゃうのは、全然違う)
小学一年のクソガキの、失礼極まりない振る舞いに、ハナさんは怒るのではないか。見ているわたしは固まった。
ところが、ハナさんは表情を変えずに道を眺めているだけだった。
なにか言葉にできない気持ちになった。石みたいに動かないで外ばかり見ているおばあちゃん。
つんつんとつつかれて我に返った。愛ちゃんが、ほらこれ見てよとスマホを取り出している。
(愛ちゃん何してんのよ、こんな時に)
わたしは焦ったが、愛ちゃんはドヤ顔だった。
「東大合格はパンツから。スケベニンジンパンツ」
という文字が見える。そこには、例の人参パンツの写真が載っていた。
パンツの販売サイトか。
ほんとに売れてるのかなと思ったら、レビューがついていた。それも一つや二つじゃない。
「パンツをはいたその日から、表情がりりしくなった」
「サイズの充実。名前を書き込むスペースもあるから便利」
「きょうだいで使っている。将来、上の子は医者に、下の子は弁護士にするのが夢」
**
一方、孝太郎はしつこくハナさんに話しかけている。
ねー、ハナさんハナ毛取らないのー、抜いてあげようか、ねー。
その時、「来てくれたんだね」と、元気な声が後ろから聞こえた。ショートパンツにサンダル履きで、めそ子が走ってくる。
孝太郎と裕也までいるのを見て、一瞬めそ子は戸惑ったらしい。けれど、すぐに笑顔を取り戻した。
お風呂の手伝いで濡れた髪の毛と、汗にまみれた顔。こんなはじけるような笑顔のめそ子、初めて見た。
「ねー、このおばあちゃん何も言わない」
孝太郎が不服そうに訴える。めそ子は座っているハナさんの肩に触れて「お風呂だよ」と話しかけた。
すると、微動だにしなかったハナさんがゆっくりと動いて立ち上がった。
「ごめんね、もう少ししたら手が空くから。今日は早く帰っていいって言われてるから、一緒に帰ろう」
めそ子は人が違ったようにきびきびと言うと、自分よりも身長が低いハナさんの手を引いて、お風呂場まで歩いて行ってしまった。
ハナさんお連れしましたー、と、めそ子が叫んでいる。
ありがとー、めそ子ちゃんにお風呂に誘われたら、ハナさん嫌がらずに来てくれるもんねー、助かるよー。
職員さんの声が聞こえて来た。
**
平日だから、パパもママも仕事に行っている。お昼はカレーをチンして食べなさいよと言われていたのを思いだす。
鍋の中にカレーはまだたくさん残っていたはずだ。そう言ってみたら、みんなでカレーを食べることに決まった。
「みゆきんち、カレーばっかり食べてるね」
と、愛ちゃんがもりもり食べながら言った。
暑かったので家じゅうの窓をあけた。台所の窓にかかっている風鈴がちりちり鳴っている。
冷蔵庫の麦茶を出してあげたら、みんなは次々にお替りした。
朝の8時から老人ホームで仕事をしていたというめそ子は、見るからに汗だくになっていた。食欲もすごい。大口をあけて、ぱくぱく。めそ子、堂々たる食いっぷりだ。
「めそ子かわったねー」
おかわりをよそい、レンジでチンしながらわたしは言った。
「あんたこのまま老人ホームに通い続けるのー」
愛ちゃんがぼそっと言った。
台所の向こうは和室が続いていて、開いた窓から風が穏やかに流れていた。ちりんりん。風鈴がくるくる回っている。
とん、と、裕也が麦茶のコップを置いた。テーブルの上に、お茶の影が映って揺れた。
「俺は、それでもいいと思う」
裕也が言った。かちゃかちゃと孝太郎が必死になってカレーを食べる音が響く。
「だってさ、世輪木さんすごく活き活きしていたよ。学校で見るのと全然違ってた」
ちーん。レンジが鳴った。あつあつのお皿を取り出して、めそ子の前に置いてやった。
めそ子は熱いカレーのせいで、洟をすすりあげている。少しの沈黙の後、めそ子は言った。
「来週の登校日には行くよ」
その言葉は、水に小石を投げ込んだみたいに、わたしの中に広がった。熱いものがこみあげてきて、何故か泣きたくなった。
だけど、わたしが泣くより早く、愛ちゃんが、カレーが吹っ飛ぶような勢いでめそ子に抱き着いて、うおおんうおおんと号泣した。
(愛ちゃん、めそ子を愛してるもんなあ)
わたしは洟をかんだ。
裕也が微妙な顔で、「絵呂島先生のファンだって言いたかったのに伝えるような雰囲気じゃなくなった」と呟いている。
「ねーちゃん麦茶おかわりー」
やっとカレーを食べ終えた孝太郎が、空のコップを振り上げて叫んだ。
**
その日の午後、一階で裕也が孝太郎の家庭教師をしている隙に、二階の部屋で女子三人集まって、喋った。
不登校状態のめそ子に、気分転換にボランティアでも行って来るよう言ったのは、めそ子のパパだったという。
知り合いが老人ホームに勤めていたので、最初は、ごく短時間の話し相手ボランティアとして行ってみた。
「なんだか、色々なものが見えたような気がしたの」
めそ子は言った。色々なもの。世界は、4年1組のクラスの中だけじゃないということ。
「わたし大きくなったら、老人ホームで働く」
と、めそ子は言った。
めそ子といたら、まるで母親にでもなったみたいな気分になる。手のかかる子だなあ。
「あー、だけど、登校日は成宮さんたちが怖いから、やっぱり一緒に学校に行こう。ずっと一緒にいてー」
と、めそ子が言いだした。
ちりりりん。台所の風鈴がここまで響いてくる。今日も猛暑だ。足は汗でべとべとしていた。
「なんだー、やっぱり弱虫のままじゃん」
と、愛ちゃんがまぜっかえしたけれど、眼鏡の奥の黒い目は、嬉しそうに笑っていた。