その1 エロマンガ、逃亡する
世輪木めそ子とは保育所以来のつきあいだ。めそめそして、すこぶる面倒くさい。けれど、優しくて思いやりがある良い子なのだ。
みんなは、そんなめそ子の良さを知らない。
ある日、朝礼前に男子たちが漫画を持ってはしゃいでいた。えっちな少年雑誌だった。女子たちはみんな、嫌がっていた。
わたしの所にもバカ男子が来た。スカートからパンツが見えている絵。はいはいパンツ、あーそう良かったねえ。適当にかわした。
隣の裕也は淡々と教科書に目を通していた。家が隣同士の幼馴染だからコイツのことはよく知っている。優等生な裕也は、クラスのバカ騒ぎに混じることはしない。
一方、斜め前の席の黒山田愛ちゃん。愛ちゃんは昔からこういうのが心底、嫌いだ。ぴかん。ぎらん。メガネの奥の目が悪魔光線を放つ。
愛ちゃんの真の恐ろしさを知る人は、ほとんどいない。
愛ちゃんとわたしは、たまたま1年の時に隣同士の席だった。以来、わたしとめそ子と愛ちゃんのトリオでやっている。
その時男子が、窓の外を眺めていためそ子に「ほれー」と、漫画を見せつけた。
うわっ、バカ男子、めそ子にまでちょっかいをかけた。
めそ子はきょとんと漫画を眺めた。
さあどうなる、真っ赤になって泣き出すか。はらはらしながら成り行きを見守っていたら、めそ子は無邪気に、はっきりと言った。
「あー、これ、パパの漫画だー」
これはわたしのパパの描いた漫画。
その声はクラスに響き渡った。
どよっ。クラスに走衝撃が走った。
女子たちが一斉に振り向いた。
クラスの女子たちの中で、一際意地悪い目をした子がいる。成宮かれんだ。かれんちゃんは勉強も運動もできる学級委員長だ。やんちゃな男子ですら、かれんちゃんには手出しできない。
めそ子のパパはエロ漫画家。うわあ、聞いた今の。
クラス全員に知れ渡ったところで、キンコーンと鐘が鳴った。
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駄目な時は、あらゆることが悪い方に向かうものらしい。
その日の一限目の社会科で、世界の珍しい地名を勉強した。
担任の大井先生はオヤジギャグが大好きだ。
「南太平洋にある島で、エロマンガ島という。はいみんなー言ってみてー、エロマンガー」
男子たちが笑い出した。エ、ロ、マ、ン、ガ。
一限目はエロマンガで沸き立った。
次の授業は体育で、男子たちは手早く着替えてさっと教室を出ていった。残るのは女子だけになった。
変な空気に、わたしは気付いた。みんなの視線がめそ子に集まっている。
「めそ子、早く着替えていこうよ」と、愛ちゃんは、もたもた着替えているめそ子に呼びかけたけれど、その言葉を打ち消すような威圧的な声で、かれんちゃんが、こう言った。
「世輪木さんは今日からエロマンガね」
成宮かれん。学級委員長は女ボス。その言葉は絶体だ。
エロマンガに、みんな、電撃が走ったみたいに反応した。
流石だわかれんちゃん、これ以上なくぴったりの呼び名じゃないの、うんうんエロマンガ、世輪木さんはエロマンガさんねー。
女子たちはひそひそ言いつつ、氷の様な目で、もたもたと体操服に着替えているめそ子を眺めた。
なんだかハイエナに囲まれた動物みたいだ、めそ子。もはや逃げられまい。
うわあ。わたしと愛ちゃんは呆然とその有様を見守った。
「エロマンガさーん」
と、かれんちゃんが重々しく言った。
「エーローマーンーガアアさあああん」
みんなが復唱した。洗脳されたような目をして、人差し指をつきたてた。
(うっわ、怪しい宗教の儀式のようだ)
小学四年女子の人間関係を、舐めたらいけない。クラスのトップに君臨する女子は、ある意味、教祖なのだ。
これがテレビドラマのワンシーンなら、おぞましい音楽が流れることだろう。ぞわぞわぞわぞわ、だんだんだーん。
「えっ」
めそ子が顔を上げた。反応が人一倍遅いのは、いつものことだ。
女子たちはもう、めそ子に構わなかった。てんでにばらばらと教室を去った。もうすぐベルが鳴るので、早く行かなくてはならないのだ。
取り残されたのは、わたしと愛ちゃんと、めそ子のトリオだけ。
なんとも言えない雰囲気だ。重い。
恐る恐るわたしは話しかけてみる。「ね、ねえ」
はっとめそ子は顔を上げた。見る見るうちに目が潤んで、ハナが垂れた。
うわああああ。エロマンガああああ。
そのままめそ子は号泣し、トイレに走った。付き添っていこうと思ったけれど、タイミング悪く、授業のベルが鳴ってしまった。
わたしと愛ちゃんは仕方なく校庭に行き、先生に、めそ子は具合が悪くてトイレにいったと伝えた。
間もなく授業が始まったけれど、どれだけ経ってもめそ子は戻らなかった。
体育が終わってクラスに戻ってみたら、めそ子のランドセルは消えていた。めそ子はあのまま、誰にも何も告げず、一人で帰ったらしい。
それ以来、めそ子は学校を休んでいる。