9
君川の最期を見届けた僕は、真っ先に改札へと駆けだした。背後から誰かが追ってくるのが分かった。改札口を強行突破して、雨の中を全力疾走した。頭の中をちらつく肉片、血、言葉、目、顔。先程の光景全てが駆け巡っていた。
君川は僕を通して何を見ていたのだろう。あの目は人間を見る目ではなかった。まるで猛獣に襲われるような、恐ろしい化け物でも見たような、未知の生物とでも遭遇したような、そんな目を僕に向けてきたのだ。未だ醒めやらないこの全身の震えは君川の死を見たことなのか、それともあの言葉を耳にしてしまったからなのか。とにかく僕は一刻でも早く家に帰りたかった。
自宅まではここから二駅分ある。雨を肌で弾いて、じんじんと痛むこめかみを抑えた。坂道を駆け上がる。雨が、怒声が、全てが恐ろしかった。
気付くと僕は知らない道を走っていて、背後から聞こえていた声も消えていた。それでも僕は駆けた。立ち止まると心臓まで止まってしまう気がした。
家の電気は消えていて、いっそう僕の胸騒ぎを助長させる。佐綾は眠ってしまったのだろうか。だから電気が消えているのか。腕時計を見ると、時刻は深夜3時を指していた。
玄関を上がり、電気も付けずにまっすぐ佐綾の部屋に入った。
佐綾は居なかった。ひとまず、呼吸を整える。ベッドの布団をめくり、クローゼットを開け、佐綾を捜したが、彼女は見あたらなかった。
それでも諦めきれずに佐綾を捜していたが、ふいに部屋の電気がぱっと点灯した。ゆっくり後ろを振り返る僕。そこには怪訝に僕を見る佐綾が立っていた。
「……なにしてんの」
「佐綾。一体どこに行ってたんだよ……」
「どこって、ちょっとトイレ行ってただけよ」
何故だろうか、僕は佐綾まで居なくなってしまうのではないかという強迫観念に取り憑かれていたのだ。だが事実は違ったらしい。佐綾は居る。僕は安堵の息を吐いた。
「出てってよ。これからまた寝るんだから」
「分かったよ、分かった。もう大丈夫。僕も部屋に戻る」
言って、僕はすぐに佐綾の部屋から出て行った。
自分の部屋に入ると、いつものように白い箱は部屋の中央に佇んでいた。ハコは僕の帰りを待ち侘びていたように僕を見つめていた。濡れた制服を放り投げ、寝間着に着替える。昨日と同じように床に座り、ハコと向かい合った。ハコの身長がまた少し伸びた気がする。箱の上に乗るのも幾分窮屈そうだった。
昨日と同じようにしばらく視線を交わしていたが、襲ってくる睡魔は昨日と比べものにならないくらい強かった。不思議なことに、もう君川の最期の映像は目の奥には流れなくなっていた。今日はぐっすりと眠れそうだ。
僕は目を閉じ、暗闇の中に落ちていった。
起きたときには7時近くを回っていた。久しぶりに数時間単位で眠れた気がする。腰を上げると、座ったまま寝ていたからかお尻が痛んだ。
リビングに降りると、佐綾が一人で朝食を取っていた。例の如く僕には一目もくれず、当たり前のように僕の分の朝食もなかった。佐綾は口を動かしながらひたすらテレビに目をやっている。
僕はトーストとコーヒーを用意して、佐綾と向かいあうようにテーブルについて、佐綾と同じようにテレビに目を向けた。そういえば今日は土曜日だ。このところ色々ありすぎて曜日感覚さえ失ってしまうところだ。
沈黙が10分ほど続いたほどだろうか、おもむろに佐綾が口を開いた。
「あんた、昨日は夜遅くまで何してたの」
佐綾から普通に話題を提供してきたことが久しぶりのように感じた。
「別に。ちょっと隣町まで出掛けてただけだよ」
「ふぅん」佐綾から話題を振ってきたのに、彼女の返事は素っ気ないものだった。「どうでもいいけど」
再び沈黙がリビングを包んだ。聞こえてくるのはお互いがコーヒーを啜る音と、テレビの中で原稿を読み上げるアナウンサーの声だけだった。ふいに、佐綾は顔をぴたりと止め、テレビの画面に視線を固定していた。怪訝に僕もそれに集中する。
『今日午前1時ごろ、高津駅で人身事故が発生しました』
ぞっと背筋が凍るような気分だった。
「高津駅って……隣町の駅じゃん」
独り言のようにぽつりと呟く佐綾。次のアナウンサーの言葉を聞いた佐綾は、その表情を凍り付かせた。
『――君川聡くんは、電車にはねられた直後、死亡しました』
画面に映る君川の顔写真。その写真は入学当初のものだろうか、希望に満ちあふれた快活な笑顔をしていた。
佐綾は唇を振るわせ、手にもっていたコーヒーカップを落とした。テーブルに焦げ茶色の染みが広がる。
頬から汗が伝う。突然、現実を叩きつけられたような感じだった。僕は努めて平静を取り繕い、コーヒーカップを置いた。
テレビには駅の監視カメラの映像の一部が流れていた。僕と君川がもみ合うところから、君川が線路に落下するところまで。僕は目を凝らし、画面を凝視した。映像には僕の学校の制服を着た少年と黒いレインコートを着た君川が映っているのだが、僕の顔までうまく映ってはいないようだった。
ところが、何かがおかしかった。
制服を着た少年――つまり僕のことだ――の肌が異常なほどに色白だったように見えた。血色が薄いどころの話ではない。本物の僕だってあそこまで白い肌ではないし、むしろ平均ぐらい。あれじゃまるで……。
アナウンサーはそのことについては触れなかったが、この一連のトラブルの原因に僕の通う高校名を挙げていた。
「なに、これ……なんで、君川くんが……」
佐綾の目が潤み始めた。僕はここでまた違う不安を覚える。
――ピンポーン。
突然、玄関のチャイムが鳴り、反射的に僕は身を震わせた。佐綾はそんなことを気にも留める余裕もないのか、わなわなと身体を震わせ下を向くばかりだった。
仕方なく僕は力の入らない腰を無理矢理上げ、玄関へ向かった。その間に幾度か鳴るチャイム音。僕は恐る恐るドアノブに手を掛け、覗き込むようにゆっくりと開いた。
「よっ」
ドアの先には、片手を上げながら爽やかに微笑む辺田彩子が立っていた。