6
佐綾は僕の2、3m前をゆっくり歩く。
学校を出てから僕らはずっと無言で歩いていた。本当は気まずくて佐綾と一緒に帰りたくはなかったのだけれど、同じ家に住んでいるのだから仕方ないし、僕もすぐに家に帰りたかった。
陽は落ち、春先とはいえ肌寒さを感じた。街灯に照らされてはまた暗闇に消え、また照らされては消える佐綾の儚げな背中を眺めた。
『人殺し』
クラスメイトの誰かが言った言葉が頭の中で繰り返される。
『殺してやる』
君川の言葉が頭の中で繰り返される。僕はそれらを繰り返す度に胸を焼かれるような気持ちになった。過去の記憶に靄がかかる僕にとっては理不尽な話なのだが、それは単に僕の記憶力の問題なのか、少なくともこれは彼らにとっては理不尽でもなんでもない扱いなのだろう。ふと、今朝覚えた吐き気が蘇り、僕は口を抑えた。
骨董品店のショーウンドウのガラスに僕の姿が映る。今朝トイレで見たときよりも酷い顔をしていた。結局朝から何も口にしていない僕の頬は惨めなくらいに痩けている。クマだってガラス越しでもくっきりしてきているのが分かる。こんなの、初対面の人が見たって“気味が悪い”と言うだろう。
「君川くんはね」
前を歩く佐綾が静かに言う。
「この世で最も大切な人をあんたに消された」
「それはあいつから聞いたよ。僕がどこかへ消した」
「“どこかへ”? いつまでしらを切るの。あんなに君川くん、その子に会いたがってるんだよ。その子だってきっと君川くんに会いたがっている」
「どうしてその子のことなんか分かるんだ、佐綾は」
「あの子のことなら私が一番よく知ってる。君川くんをこの世のどんなものより大好きだってことは、他の誰よりも知ってる」
僕は佐綾や君川の言う“あの子”という人物も知らない。僕が殺したんじゃないかとか、僕がその子を消したんだとか、僕自身には本当に身に覚えがない。というか、自分の持てる限りの記憶に無い。みんな僕がやったことのように決定付けるけど、本当にそんな証拠があるのか。
「本当に覚えてない。記憶にないんだ、僕には」
僕の言葉を聞くと、佐綾は深々とため息を吐いた。
「……気味悪いわ、あんた」
僕にとって本当に気味が悪いのは、お前らだ。
家につくと僕は自分の部屋に入った。
明かりを付けて、すぐに部屋に鍵をかけた。部屋には今朝と同じように白い箱があった。1m四方の正六面体。その上にはハコがいた。いつものように三角座りで、四つの目で部屋に入る僕を見つめていた。僕はベッドに鞄を投げ出し、ハコを見据えるように正面に座った。一度胡座で座ってみたが、ハコの真似をして三角座りで座ってみる。
ハコは口を結んだまま無言で僕を見下ろしていたし、僕も何も言わなかった。
代わりに今日の出来事を全て頭の中で反芻させた。何度思いだして不可解なことだらけで、僕には気持ちの悪くなるような内容ばかりだった。でも僕は今日の出来事をよく噛みしめていないと、明日には今日のことを忘れてしまいそうで怖かった。
自分にとって都合の悪い記憶が無くなっていく。それは今日一日でかなり進んでいた。残っているのは楽しかった過去の記憶ばかり。優しかった妹と、楽しかったクラス、ユーモア溢れる教師、充実した生活。
そういえば、いつから僕は眠れなくなったんだっけ。いつから不眠症に悩まされているんだっけ。それさえも思い出せなくなっていた。残った楽しかった記憶さえも、もはや苦痛で不気味なものでしかなかった。分からない、どうしても思い出せない、どうして、こんなことに。
一番不可解だったのは、この白い箱と、今僕を見つめ続けるハコの存在だった。ハコの出現は一体僕に何を教えようとしているのだろう。
突然軽い眠気が襲ってくる。しかし僕はこの眠気から耐えようと思った。寝てしまえば今までのことを忘れてしまいそうだったからだ。
耳の奥が脈打ち、そのじわじわとした痛みで僕は目を開けた。
慌てて壁時計を見る。七時三十二分。どうやら二十分ほど寝てしまっていたらしい。試しに起きる前までの記憶を辿ってみて、安堵する。昨日の記憶はちゃんとある。
白い箱の上を見ると、あの半透明な奇妙な存在は居なかった。
カーテンを開けると朝の日光が僕の眼球を刺激した。一階から物音が聞こえる。佐綾はもう起きているらしい。
昨日と同じように部屋に鍵をして一階へ降りる。佐綾は昨日と同じようにトーストを食べていて、今度は僕の方すら見なかった。昨日は結局何も食べなかったが、おかしなことに全く腹は減っていない。妹と挨拶すら交わさず、僕は玄関へ向かった。
玄関を開けると、すぐ正面に君川が立っていた。君川はマネキンよりもずっと曖昧で無機質な表情で僕を見ていた。
目をこすり、瞼を閉じて痛いくらいに上から指で押してみた。そして、そっと目を開けてみる。
君川は居なかった。
錯覚だったらしい。