4
次の国語の授業には出なかった。もう教室に居ることが僕にとっては苦痛でしかなかったから、今は誰も居ない場所に行きたくて屋上に向かった。
屋上には佐綾が居た。屋上に設置されていたベンチで文庫本を読んでいて、扉を開ける僕に気付いたようだった。佐綾は僕を振り返り、眉間に皺を寄せた。
屋上は他には誰も居ない。当たり前だ、今は授業中なのだから。では何故佐綾は此処にいるのだろう。僕は扉のドアノブを握ったまま、ぼうっと佐綾を見ている。でも黙ったまま睨みあうのは気まずかったから、僕は軽く声をかけた。
「佐綾もサボり?」
とりあえずそう言ってみたのだが、佐綾は目を逸らして小声で何か呟き、再び本に視線を戻した。
「なぁ、教えてくれ佐綾」
縋るような情けない声色で僕は言った。僕はもう限界だった。
今日の朝、あの白い箱を見てから今に至るまで、僕にはある異変に気付いていた。他人から突然蔑まれることも、ハコというあの半透明な意味の分からない存在もそうだが、段々僕から記憶が削ぎ落とされていっているようなのだ。しかも、都合の悪いものと思われる記憶から徐々に消えていくらしい。僕の人生に何か大きな過ちがあったはずだと思い出そうとすると、不思議とそういう気がするだけで、脳内にはそれらしき記憶がない。
ない、のだけれど。僕には大きくその予感や胸騒ぎだけが残っていた。僕はそれを感じる度に頭や腕を掻き毟るしかなかった。僕はみみず腫れだらけの左腕を伸ばして、佐綾に近づいた。
「僕は何をした。黙りはもうやめてくれ。僕を、助けてくれ」
佐綾なら、ずっとこれまで双子として共に過ごしてきた佐綾なら、僕の全てを知ってるはずだった。
佐綾は怯えたような目をした。本を閉じベンチから立ち上がって後ずさりをする。
「嫌、やめて。来ないで」
何故だ。何故そういう目で僕を見る。今まで優しい妹だったじゃないか。兄である僕を慕い、時に僕が間違ったことをすれば叱咤をしてくれて、僕のために涙を流してくれて、そんな妹だったじゃないか。
ところが、どうだ。今日の朝からこうだ。あの教師やクラスメイトと同じ、蔑んだような目で僕を見てくる。佐綾はやがて後ろのフェンスに追いやられ、嫌悪感を込めた目で僕を拒んだ。
僕は全身の血がだんだん頭に巡ってくるのが分かった。
「……意味分かんないんだよ!」
僕は佐綾の肩を掴み、激しく揺さぶった。佐綾の小さな悲鳴が耳障りだった。
「教えろよ! 僕が! 何をしたのか!」
僕は目を剥いて、激怒するような、懇願するような、今にも泣き出しそうな、そんな雄叫びで訴えかけた。感情が、爆発した。
佐綾は怖じけたような目を敵意に変え、僕を睨みすえる。
「――や、めてっ!」
佐綾は渾身の力をもって僕を突き飛ばした。僕は無様に地面に転がり、ベンチの角に頭をぶつけた。先程まで佐綾が手にしていた文庫本は僕の目下に落ちていた。
「あんた、本当に覚えてないの……?」
肩で息をしながら、佐綾は言った。
ただし、その声は僕の右耳へしか届かなかった。左耳に触れてみると、ぬめった液体の感触を掴んだ。手のひらをみると血がべったりと付いていて、どうやら耳を打ったらしいことに気付く。耳の奥でドクドクと血管が脈を打ち、激痛を伴う。鼓膜が破れている。片方が全く聞こえない。
左耳から滴る僕の血が、文庫本の青いカバーに滴り落ちる。
「……どうかしてる。言い逃れもここまで来たら逆に笑えてくるわ」
佐綾が吐き捨てるように言う。
彼女はそれから罵詈雑言の限り僕を罵ってきたようだが、もはや僕にはどうでもよかった。食い入るように文庫本を見つめていた。本の四角い形を眺めているだけで、現実を忘れられた。過去の優しかったあの佐綾が、四角形を通して僕の目に映っている気がした。
そうしていたら、またあの半透明な存在の気配を感じた。僕は顔を上げた。ベンチの上に、ハコが座っていた。ハコは僕を四つの目で静かに見下ろしていた。身体が依然と比べて少し大きくなっている気がする。40cmか、そこら。少なくともあの数学教師の肩に乗るような大きさではなかった。
ハコの目は、よく見れば僕の目にそっくりだった。虚ろな目。生気のない目。覇気のない目。常に視点の定まらない揺らいだ目。
それでも僕だけを見ようと、僕をなんとかしてあげたいという意志が込められているように見えるのだ。
そうか、わかった。お前が僕を救ってくれる唯一の理解者なのか。君が僕が助けてくれるのか。
「助けて、ハコ」
ハコはじっと僕を見つめるばかりだった。表情に悲哀がさした気がした。僕は手を伸ばし、震えるような声で懇願する。
「何か言ってくれよハコ。僕を助けて、僕は、何かしたの?」
ハコは数秒の沈黙のあと、皮の垂れ下がった口をぽっかりと開けた。ハコの口の中の暗闇を魅入られたまま、僕はハコの言葉を待つ。しかし、
「死んじゃえばいいのに」
ハコの口から発せられた声は、どうしてか佐綾のものだった。