3 〈挿絵付〉
教鞭を執る数学教師は、僕の目には虚ろに映る。流石に眠気も限界だった。前の席の辺田彩子は気持ちよさそうにうたた寝している。
僕もいっそ寝てしまおうか、僕はちらりと教師に視線を送る。教師はチョークで黒板を叩き、公式の説明に躍起になっていた。
教師が手にした教科書はA4サイズのもので、表紙には様々な図形が描かれていて、その中には正方形もあった。白い正方形だった。はっとして自分の教科書の表紙を見ると、それにも白い正方形は描かれていた。
教師の肩に何か小さいものが乗っていた。それは人のように見えるが、どうも僕の目には曖昧なものに映るのだ。卵のようにつるつるとした白く丸い頭で、ぼんやり半透明な身体は、後ろの黒板の文字が透けていた。男か女かも分からない。そいつには目が四つあった。通常、人間にある両目の上にもう目玉が二つ。しかし存在がとにかく希薄だ。一見不気味な容姿なのに、存在が薄過ぎるせいで不気味な雰囲気すら掴めない。教師もその存在に気付いていないのか、一心不乱に黒板に文字を走らせ続けている。
僕は目をこすり、一つ欠伸をした。閉じそうになる瞼をギリギリ開いて頬杖をつき、その希薄な存在に集中した。ところが集中してみてもその存在の形状や色をしっかりと把握できないのだ。
その存在は僕を見ているような気がした。四つの目は僕をじっとりと捉えている。瞬間、段々そいつがはっきり視認できてきていた。すうっと身体の線が浮き上がり身体の線もはっきりしてくる。教師が違和感に気付いたのか、ふと肩に触れてみる。教師の手はその存在をすり抜けた。教師は首を傾げたが、大して気にも留めていないのか、そのまま授業を再開した。
存在はやがてはっきりと僕の目に映るようになった。存在は教師の肩に三角座りで乗っていた。座った状態で高さがおよそ20cmほどだろうか。全身真っ白で陶器のように凹凸もない身体で、服も着ていない。四つの目を線で結ぶと正方形になるんだと思う。目玉のそれぞれが等間隔で並んでいた。よく見ると口もある。唇らしきものはない。
存在は口を開いた。ぱりぱりと白い和紙のような皮が破れて開いた。まん丸と開いた口の奥に舌はなくて、底なし沼のような暗闇がただただぽっかりと開いているだけだった。
「ハコ」
存在はそう小さく言った。抑揚もない貧相な声だった。すぐに忘れてしまそうな特徴もない声。しかしそれは僕の耳に響き、じっくりと反響するように脳内に言葉だけを刻んだ。
それがどういう意味なのか、なんとなく僕は理解した。
その“ハコ”というのがそいつの名前らしい。
「起きろ、お前」
数学教師の声で、僕ははっとして目を開けていた。
僕は寝ていたのだろうか。しかしそれはおかしいことだった。僕は今まで起きていて、さっきの白い存在――ハコという名前でいいのだろう――を見ていたのに。
顔を上げると教師が僕を見下ろしていて、周りの生徒たちは何か汚いものを見るように、一斉に僕へ目を向けていた。
「居眠りするんじゃない」
厳格そうな口調で教師は言う。僕は何も言えず、ただ頭を下げて謝罪の姿勢だけをしてみせた。周りの視線がなんとなく嫌で、それから授業中ずっと頭を下げていた。四角の机が僕の目に痛く映っているだけだった。