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重い足取りで僕は家を出た。
空を見上げると眩しすぎる太陽があって、その光を掌で遮った。この心地よい陽光は、もう冬の終わりを意味していた。僕の肌の表皮は春の訪れを確かに感じ取っているのだけれど、しかしこの底冷えするようなこの寒気は抑えられなかった。家を出てからずっと、あの白い箱が頭を離れてくれなかった。
頭はずっと重いままだし、吐き気もある。延々と続く眠気はいつものことだ。風邪を引いているのかもしれない。
僕は口を押さえることで吐き気から逃れた。やっぱり今日は学校は休もうか。一日ゆっくり部屋で休めば風邪くらい治まるだろう。それに部屋にはあの白い箱がある。
「……」
白い箱がある、からなんだ。学校を休む理由の一つに箱があるからって何だ。僕は何を考えているんだろう。
今日の僕はおかしい。こんな状態で学校へなんか行くべきではないと思うんだけど、僕の足はそれでも学校へ向かっていた。僕の中である疑問が浮かぶ。僕の思い出せない範囲で、僕は佐綾から敬遠されていた。ならば学校ではどうだろう。僕が何かしたとすれば学校での可能性が高い、と思う。
校門を通り抜けて腕時計を確認すると、針は8時15分を指していた。どうやら間に合ったらしい。校内に入ると、すぐに顔を洗いにトイレに向かった。
蛇口をひねり、両手に池を作って、それに顔を埋めた。水の温度は冬のそれを残していて、ひんやりとして僕の頭を少しだけ正常に戻す。
顔を上げると鏡があった。濡れた僕の顔と前髪がそこに写っている。ここ半年ほど寝不足に悩まされている僕の目元には、くっきりとクマが出来ていた。ふいに瞼の重さを思いだして、少し鬱々とした気分になる。
鏡の形は綺麗な正四角形だった。いや、よく見れば長方形にも見えるし、僕の霞む目には平行四辺形にも見えなくはなかったけど、やっぱりそれは正四角形だった。
じんわりとまた頭が熱くなる感覚があった。
それと同時に感じる、何かの気配。気配といってもそれは極めて微細なもので、本当に何かの気配を感じたのかと問われると、即座に返答しかねるくらいの微妙なものだった。しかもそれは一瞬で、怪訝に辺りに気を配ってみても、再びその気配を感じ取ることはできなかった。
特にそれについて深く考えもしなかった僕は、もうすぐHRが始まることを思いだして、ハンカチで顔を拭きながら急いでトイレを出た。
廊下まで聞こえてくる、教室内の騒ぎ声。しかしそれは僕が扉を開けて入ると同時に静まりかえった。僕の戸惑いをよそに向けられる、好奇と蔑みが折り混ざったような視線。
やはり、昨日僕は何かしたのか。僕は思い出すことすら諦めて自分の席に座った。鞄から教科書を出し机に押し込んだ。すると、僕の手に奇妙な感触が残った。ぬちゃりと粘っていて、机から手を出すと、それは糸を引いて僕の指に絡みついた。
その残骸から察すると、何らかの虫の死骸だった。吃驚した声を少し漏らして、慌てて粘り着くそれを机から引き出した。
ごっそりと、潰された虫の死骸がビニール袋に詰められていた。全身に鳥肌が立ち、僕はまた小さく叫び声を上げた。
「人殺し」
誰かがそう言った。僕に言った?
顔を上げて周りを見ると、誰もが僕から目を逸らしていた。
何なんだ。何なんだよ。
僕の知らない所で何か起きている、そう思いたいけどそれは語弊がある。どうやらその何らかの当事者は僕自身で、単に僕が覚えていないだけなのだから。
さらに僕は深刻なことに気付く。思い出せないのはその昨日の出来事だけじゃなく、昨日の記憶全てであった。昨日、僕がどこにいて、何があって、そして何をしたのかさえ思い出せない。ダメだ。考えるとまた頭の奥が熱くなる。
僕はビニール袋を片付け、再びトイレで手を洗った。教室に戻ると既に担任がHRを始めていて、扉を開けた僕を見た。
「早く席に着け、そこのお前」
名前すら呼んでもらえなくなったらしい。