16
記憶がフラッシュバックを続け、やがてそれが収まったころには、僕は段ボールの前で蹲り嗚咽していた。僕は佐綾を失ったことで、彼女を手にかけたことで、同時に様々なものを失くしていたのだ。
唯一の兄妹を。
無二の家族を。
静寂の安眠を。
自己の抑制を。
外との係りを。
自らの人生を。
佐綾の人生を。
僕はそれら全てをいつの間にか捨てていたのだ。それも一時の下らない衝動と、受け入れきれず爆発した不満で。僕のために献身してくれた佐綾の、少し魔がさしただけの他愛もない兄妹喧嘩の発言で。それを許すことも出来ない僕の手で、妹の全てを奪った。
箱に閉じ込めて自らの所有物にしたと思い込んでいた物は、その結果、あっさりと僕の手からこぼれおちていた。
「ごめん、佐綾。ごめんなさい。ごめんなさい、佐綾」
僕はただの現状を受け入れられもしない、駄々を捏ねただけの子供だったのだ。
現実から妄想に逃げた、ただの餓鬼だった。
全ては僕の妄想の一人歩き。全ては僕の疑心暗鬼の結果。
許しを乞わなければいけないのは他の誰でもない、僕なのだ。
辺田がいつのまにか後ろから僕の頭を抱いていた。頭の上に彼女の涙が滴った。
「今まで、辛かったね」
そう言ってくれた。こんな僕に、そんな言葉をかけてくれた。辺田にとって、佐綾という大切な友達を奪った僕にだ。
僕はどこまで甘え続ければ気が済むのだろう――。
遠くから、サイレンの音が聞こえた。
◆◆◆
あれから一ヶ月が経った。
僕の収容している医療少年院に、辺田彩子が訪れた。
僕は一ヶ月ぶりに彼女の顔を見ることとなった。彼女は係官に会釈をし、まるで教室の椅子に座るかのように自然に机についた。僕がどこに収容されているのか全く気にしていないという素振りだったが、僕にとっては逆にそれが嬉しかった。短い間だったが僕は学校に通っていて、曲がりなりにも教室の空気を味わっていたから、辺田の自然な態度はそれを想起させてくれるかのようだった。
辺田は面会室のクリーム色の壁を見回す。
「施設といえば聞こえがいいね、少年院って。どう見たって刑務所じゃん」
第一声がそれだった。辺田がそうやって戯けたような風に言うので、僕は思わず苦笑した。
「どう? ここでの暮らしは」
「大変だけど、あの学校よりはマシだね」
「うんうん。確かに。うちのクラスの連中はみんな陰険だからねえ」
辺田の爽やかに笑い飛ばすので、僕もつられて笑ってみる。笑うのはいつ頃ぶりだろうと、ふと思う。
「クマ、まだ治らないんだね」
彼女の言葉に、僕は表情を曇らせる。
精神科医の治療は定期的に受けているけど、全くと言っていいほど効果がない。寝ようと思うと佐綾の顔がちらついてしまう。多分まだ罪の重みに耐えきれないんだと思う。いや、罪の重みを感じることは間違いではないだろう。僕はそれだけのことをしてしまった。しかしそういう後悔の念を差し置いても、どうしても眠ることができなかったのだ。
「不安なんだよね。箱から出たと思えば、また次の箱に閉じ込められて」
僕は頷いた。きっと彼女の言葉の通りなのだろう。
あのときほどではないにしろ、僕の中には不安がまだ残っているのだ。
辺田はそんな僕を見て、よし、と手を合わせた。
「じゃあ、君に外の世界との繋がりをあげる」
「え?」
彼女の言葉がすぐに理解できなくて、僕は呆気にとられたように彼女を見た。
彼女は目を細めて笑う。
「毎週土曜日にここに来てさ、外での楽しくて超笑える出来事話してあげる。いい提案じゃない?」
「……でも、なんで僕なんかに。辺田にそんなことしてもらう義理はないよ」
「義理? そっかそっか、義理が必要なのね……」
辺田は腕組みをして考え込む。僕はそんな彼女を不安げに見つめていた。
「じゃあさ、友達になろうよ」
「ともだち?」
「そう、友達」
友達。
思ってみれば、僕にとってそれは未知の存在だった。友達って、果たしてどういうものだろう。それは想像したこともない。
「友達ってさ無償で助けあえるものなのだよ。そこにはなんの打算も見返りも、義理だってない。これってさ、素晴らしくない?」
「それが、友達?」
「そうそう」
どうやら僕には初めての友達が出来るらしい。家族でも恋人でもない、なのに無償で助けあえる。理解し難い存在だな、と僕は思った。全く想像できない、こればっかりは僕にも想像できなかった。それなのに、それなのに――。
「ちょ、ちょっと、何で泣いてるの?」
辺田が慌てふためいた声を上げるので、ようやく気付いた。自分の視界が潤んでいることに。
「なんでだろ。自分でも分からないけど……本当に、こればっかりは分からないよ」
全く理解できないのに、どうしてこんなに嬉しいのだろう。どうしてこんなに涙が溢れて止まらないのだろう。
これが僕にとっての許しであり唯一の救いであるような気がして、とうとう僕の涙腺は決壊していた。
◆◆◆
面会を終えて、係官に連れ立たれて僕は自分の部屋に向かった。
部屋に入り、係官にドアを閉められる。部屋は僕専用に特別に用意されたものだった。
目に入るもののほとんどが濃い白だった。
全面が白い壁で包まれていて、あるのは小さな洗面台と壁鏡、そして真っ白なベッド。ベッドの上には、鉄格子の窓。それだけだ。
あの白い箱の中を連想させて、僕はこの部屋に居続ける限り不安に苛まれていた。でも、今日だけは違う。
ベッドに横になり、ベッドの下から小説を取り出して文字を追ってみる。しかし、どうも気分がウキウキして物語が頭に入らない。
小説を放り投げ、僕は半身を起こす。
『友達になろうよ』
辺田の言葉を思い出す度に、頬が緩んでしまう。何度かその言葉を反芻していると、何か懐かしい気配を感じ取った。顔を上げ、その気配の方を見やる。
白い部屋の真ん中には、ハコが居た。
あのときと同じ半透明の身体で、四つの目で僕を見つめていた。もう見ることは二度とないだろうと思っていた僕にとって、ハコの出現は意外だった。なんとなくだけれど、ハコはずっとこの部屋に居て、ただ僕が存在を確認出来なかっただけなのだと思う。
しばらく口を開いてなかったせいか、ハコが口を開けるとくっついていた和紙のような皮がぴりぴりと破れた。
――もう、君にとって僕は必要ないんだね。
ハコが少し寂しそうに言うので、僕は出来る限りの笑顔でふっと笑いかけた。
「そうだね。ハコを見る理由はもうなくなった」
――不安はもうないってことだね。
「そう。これからはちゃんと自分の犯した罪と向き合っていく。ちゃんと現実を見据えて生きていく。これが僕の贖罪」
――うん、それがいい。そうするべきだ。どうか、強く生きてね。
「あぁ、お別れだ。ハコ」
――最後にもう一つ。
「うん?」
――君はいつか、所詮人は誰かの箱の中だ、なんて思っていたけれど、あれは間違いだよ。僕は最初からそんなこと伝えようとなんかしていない
「そうなのか。つまり君は、僕に何と言いたかったの?」
――たとえ誰かの箱の中にいたって、やっぱり誰かがその箱を開けにくるのさ。ってね。
「……全く、その通りだ」
ハコの言葉に虚を突かれて、僕は思わず感心してしまう。
――じゃあ、今度こそ本当のお別れ。
「うん。さようなら、ハコ」
――さようなら。
ハコが居なくなるのが名残惜しくて、僕に色んな事を気付かせてくれたハコが消えるのが寂しくて、僕は目を開いていた。
耐えられなくなって瞬きすると、ハコはすっと煙のように居なくなっていた。
ふいに強い疲労感が僕を襲う。それは心地よい疲労感だった。今なら全てを忘れて眠りにつくことが出来そうだ。
僕はベッドに横になり、目を閉じた。
もう不安はない。過去を見据えて未来を夢見る。今はそんな希望を抱ける。
僕の意識は驚くほど急速に安穏に包まれていった。
乱雑な仕上がりであったことをここでお詫びします。
最後までお読み頂きありがとうございました!