15
僕はずっと部屋に閉じこもっていて、閉じこもらざるを得なくて。佐綾だけが外の世界との繋がりだった。佐綾はそんな僕に優しく接してくれて、家に帰ると学校であった楽しかった出来事を僕に語ってくれるのだ。
そんな彼女に感謝していたが、実の所怨んでいたのも事実だった。佐綾は楽しくて面白かった出来事を語ってくれるが、本当は僕を可哀想に思っているだけで、そんな僕に気を使ってくれているだけなんじゃないか。単に、僕を哀れんでいるだけだろう。やがてその疑心が僕をじわじわと包んでくる。
疑心が殺意に変わったのは、佐綾に君川という恋人が出来てからだった。
家に帰っても上の空で、携帯電話を見つめてはため息をよく吐くようになった。僕が話しかけても気のない返事しか返ってこず、口を開いたかと思えば恋人の話ばかりだった。僕を楽しませようとか、気を楽にしてあげようとか、そんなものは一切見られなかった。
きっと佐綾は初めての彼氏に没頭して、僕なんて目にも入らなくなったのだろう。
きっと僕なんて、最初からどうでもよかったのだろう。
僕はやりきれない気持ちになって、悔しくなって、必死に佐綾の視界に入ろうと試みたのだ。
ある日のことだ。
佐綾が携帯で楽しそうに電話をしていた。どことなく頬を蒸気させていて、すぐに電話の相手が君川だと悟った。
僕は淹れた佐綾の分のコーヒーを彼女の近くに置き、自己の存在をさりげなくアピールした。佐綾はそれを一瞥しただけで、すぐに視線を前に戻し会話を続けた。僕は所在なげにコーヒーを啜った。
「じゃあ、また明日学校でね。うん、メールするから」
佐綾はそう言って電話を切った。テーブルに肘を付き、すぐにメールを打っていた。その浮かれたような顔がどうしても気にくわなかった。
「楽しそうだね」
僕は声のトーンを落とす。彼女は小さく頷いただけで、目は携帯の画面を向いたままだった。
「学校で何かあったの?」
そう訊くと、佐綾はやっと顔を上げた。それは話したくて仕方ないという表情だった。僕は佐綾が何を言うのか読めてしまって、また腹の中に黒いものが渦巻くのが分かった。
「今日君川くんがね――」
「君川の話はもういいよ」
僕はきっぱりとその話題を拒絶した。佐綾の表情が曇る。それを見て、どうしてだろうか、佐綾の気持ちを乱してやりたい衝動に駆られたのだ。
「そんなに君川の話したい?」
「え? いや、だって……」
「それなら君川の話しようか」僕は戸惑う佐綾の目を見た。「君川、中学時代は不良だったんだって? 喧嘩ばっかりして何度か自宅謹慎してたとか」
「どうしたの? なんであんたがそんなこと」
「一度、佐綾が悩んでるって相談してきたじゃないか。君川は昔不良だったから、今でも煙草を吸うって。どうしたらいいかって」
「それは、そんなことも話したかもしれないけど。もう煙草は辞めてるし、今は真面目に成績上げようと頑張ってるんだよ」
「でも、全然成績上がらないんだろ?」
「でも、でも真面目に」
「せっかく佐綾が一緒に勉強してあげてるのにね。やっぱり君川に勉強なんて無理なんじゃないか?」
佐綾が一瞬、不快そうな顔をする。彼女はすぐに表情を和らげたが、僕はそれを見逃さない。
「どうしたのよ。君川くんを急にそんな風に言うなんて。もしかして君川くんに嫉妬してる?」
佐綾は冗談交じりに悪戯っぽく笑った。口元がぎこちなかった。
「本当に楽しそうだね。あんなクズみたいな男と付き合っても楽しめるなんて佐綾は幸せだ」
佐綾は笑顔を固めたまま、言葉を失っていた。顔に段々表情がなくなり、唇を振るわせ、そして攻撃的な目を僕に向けてくる。
「君川くんを悪く言わないでよ。そんなこと……」
「そんなこと、ある。事実だろ。少なくとも不良だったってことは。あんな男よりもっと誠実でいい奴がいる」
「あんたに君川くんの何が分かるの!?」
佐綾はテーブルを両手で叩いて叫ぶ。何故彼女がそんなに声を荒げて怒り出す理由が、僕は全く解せなかった。君川なんかより僕の方が一緒に居た時間が長いのに、どうしてこうやってあんな男は止めろと説得する僕を押しのけて、君川を庇うんだ。
ついに僕は、ありもしない嘘を吐いていた。
「君川、この前また煙草吸い始めたらしいよ」
「嘘つかないで!」彼女は興奮し過ぎたためか、目に涙を浮かべていた。「何よ、君川くんのことなんにも知らないくせに。そういうあんたは……」
佐綾は何か言いかけ、すぐに口を手で覆った。
「ご、ごめん。そんな、私ったら怒るつもりじゃ……」
「いいよ、別に。それより、今なんて言おうとしたんだ?」
「えっ?」
驚いたように顔を上げる。俯き、小さく「別に、何も」と呟いた。
僕はもう佐綾の一挙一動が苛立たしくて仕方なかった。どうせ僕のことを、心の中で見下しているくせに。
「僕のこと、可哀想なやつだって思ってるんだろ」
「え?」
「ずっと家から出られなくて、人と交流もできなくて。話相手といえば佐綾しかいない。確かに僕は哀れだよな。それで? そういうあんたは、何? そういうあんたは、君川くんと違って誰からも必要とされてないくせに?」
「違う、違う!」
「どうせ僕は誰からも必要とされてないさ。学校なんて通えないからテストしたって君川より駄目だろうね。運動も出来ないだろうし。そもそも人と関われないから、必要とされるきっかけすらない」
「そんなことない。少なくとも私は……」佐綾は首を振り、許しを乞うように泣きじゃくっていた。「あんたを誰よりも必要としているし、かけがえのない唯一の家族なんだよ」
僕はそれを聞いて、笑い出しそうになった。誰よりも必要としている? 恋人が出来てから、僕のことなんかそっちのけだったくせに。
「嘘を吐くなよ、この偽善者」
僕の言葉を聞いた佐綾の顔は予想もしないものだった。てっきり僕はさっきみたいに媚びるように泣き出すのかと思っていたけど、そうじゃなかった。
唇を噛み、眉根を寄せ僕を睨んできたのだ。
「何なの、あんた」
佐綾の声色は底冷えするくらい暗いものった。
「今まで言わなかったけど、もう我慢ならない。あんた、気味悪いのよ」
佐綾と僕の17年間が崩壊した瞬間だった。
「あんたのせいで、あたしが学校でどういう目で見られてきたか知らないでしょ。あいつの兄はアルビノだって。あいつはアルビノの妹だって。そんな好奇の目で今まで見られてきて、それでも私はあんたを庇い続けてきたのに。それなのに何、偽善者? なによそれ、意味分かんない。そんな私を君川くんは受け入れてくれたのに。それに引きかえ、あんたはずっと引きこもって不満ばっかり言うだけじゃない」
「……そんなこと」
「そんなこと、あるわよ。事実でしょ?」
佐綾は嫌みを込めて僕の台詞を真似た。
僕は耳を塞ぎたかった。しかしそれはしない。この機会に佐綾の本音を聞いてやろうと思ったからだった。
佐綾はそれからも思いの丈を口にし続けていた。多分、自分が何を口にしているのか分からないのだろう。心にもないことを言っているのだ。そう思い込まないと、僕は狂ってしまいそうな気がした。
佐綾は敵意を剥き出しにし、僕を睨む。
「本当、あんた邪魔なのよね。死んじゃえばいいのに」
僕の中で、何かが切れた気がした。
僕は何も言わず席を立ち、自分の部屋へ向かった。佐綾は自分の言ったことに気付いたのか、後ろから何か声を掛けてきたが、僕は無視した。
◆◆◆
凍えそうな気分だった。僕は部屋の真ん中で体育座りをしていた。
彼女が憎かった。
双子として共に生を受けたはずなのに、双子は一心同体のはずなのに。どうして佐綾ばかりいい思いをして優遇されて、僕だけがこんな不当な扱いを受けなければならないのだろう。
佐綾ばっかり。佐綾ばっかり楽しい思いをして。僕がどんな気持ちで佐綾の帰りを待っているのか、彼女は知りもしないくせに。知ろうともしないくせに。
――思い知らせてやる。
そんな気持ちが僕の中を巡った。そうだ、分からないなら思い知らせてやればいい。自分の箱の中に閉じこもってなければいけないこの状況を。知らしめてやる。
そのとき、僕の箱を開けて佐綾が入ってきたのだ。
目には先程とは違う種類の涙を浮かべていた。彼女は頭を下げた。
「……ごめんなさい」
佐綾の涙が、カーペットに落ちた。
「あんなこと言うつもりじゃなかったの。つい興奮して、あんな心にもないこと」
どうやら謝りに来たようだ。何もかも遅いのに。
「本当に反省してるから。あんたの気持ちも知らずに酷いことを。私、どうかしてたのよ……」
僕のことを哀れに思ってるのは、本当のことだろ。邪魔だって思ってるのも本当。死ねばいいと思っているのも本当!
「許さない」
「お願い。何でも言うこと聞くから。……許して」
なら。それなら。
お前も僕と同じ気持ちを味わえ。
次話で最終回です。